第6猫話
砂埃と涙で滲む視線の向こうには、決して大きくは無い黒い影が、凍るような赤い眼差しでサトルを捕らえている。
逃げないと!
頭では分かっているのに、体が思うように言うことを聞かず、一歩だけ後ろへ後ずさるのが精一杯だった。
「もっと早く会いたかったんだけど、準備に時間が掛かってね」
黒い影が少年と同じ声でサトルに語りかける。
「そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」
砂塵が止み、少しづつ取り戻してくる視界の向こう側。
「僕がお兄ちゃんに力をあげるんだから、感謝してほしいくらいなのにね」
黒い毛に覆われた身体、足と同じくらいの長い尻尾、ぴんと立った耳…そこにいたのは小学生ほどの丈の二本足で人のように立つ、大きな赤い眼の猫だった。
「さあ、大人しくしていれば直ぐに終わるよ」
恐怖?いや、もっと非現実的な出来事にサトルの思考は停止寸前で、するすると近づいてくる黒猫のお化けに、身体が跳ねるように後ろへと飛び退って、座っていた長いすにつまずき、反対側へともんどりうって倒れこんだ。
「ははは、人間のくせに僕の磁場の中でそれだけ動けるなんて、さすがはビョウケだね」
次の瞬間、黒猫は信じられないような跳躍力で長いすごとサトルを飛び越えると、サトルの背後に音も無く降り立った。
「うがぁっ!」
背後を振り向いたサトルを、黒猫の強烈な蹴りが襲い掛かる。
サトルは蹴られた勢いで、今度は長いすを飛び越えて地面を転がるように広場に蹲った。
「もう少し遊んであげたいけど、壊れちゃったら意味無いもんね」
やはり音も無くサトルの背後へとやってきた黒猫は、うつ伏せで蹲るサトルを足で小突くようにして仰向けにすると、いつの間にか右手に握り締めている物を、サトルの顔面へと突き出した。
「汚い人間め、自らの欲望で滅びるがいい」
蹴られた脇腹がずきずき痛み、これが現実なのだとサトルに告げている。
なんとか身体を動かそうとするが、黒猫がそれを封じるように右足でサトルの左肩を踏みつけ、鋭い爪の生えた右手をさらにサトルの顔面へ近づけた時だった。
しかし、激しく空気を震わす音と共に黒猫が勢いよく吹き飛ばされ、三メートル程離れた場所にくるりと身を翻して四つんばいの姿勢で着地する。
そこへひらりと、サトルと黒猫の間に白い影が舞い降りた。
「くっ、貴様まだ懲りていないのか…」怒りを露わに黒猫が目を吊り上げ、奥歯を噛むように吐いた。
白い、透通るような純白の毛を纏った猫は、長い尻尾をゆっくりと揺らしながら、やはり後ろ足で人のように立ち…いや、黒猫と違って明らかに人に近い体格で、それは柔らかい少女の身体を白い毛皮が包んでいるようにさえ見えた。
「またいたぶられたいのか、メス猫がっ!」
言うが早いか、黒猫が右手を振り上げると地面から砂埃が立ち昇り、強烈な突風が白猫を襲う。
白猫は突風を難なくかわして空中へ飛び上がると、そこへ黒猫も地面を蹴って飛び上がった。
空中で交わった白と黒の猫は、手足をまるで凶器のように激しく相手へと叩き付け合い、空気を震わせながら地面へ降りると、今度は白猫が狙っていたかのように左手を振り上げて突風を黒猫へと叩き付けた。
「なんだ、メス猫のくせに今日は結構頑張るじゃない」叩きつけられた突風を、まるで虫を払うかのように右手を横に払って相殺した黒猫は、今度はその右手を前に突き出すと、その人差し指の先からするすると爪が伸び、鋭利な刀のように形を変えた。
「なかなか楽しい余興だけど、時間がもったいないから終わらせてもらうよ」
赤い眼を細めたかと思うと、シャーッと威嚇するような雄叫びを上げて黒猫が一気に白猫へと飛び掛かってくる。
次の瞬間、耳の奥が痛くなるような金属のぶつかり合う音と共に、黒猫の表情が驚きへと変わった。
「貴様、いつの間に爪刃を!」
白猫の左手人差し指より伸びる、艶のある白い爪の刀が黒猫のどす黒い爪の刀を受け止めていたのだ。
「あの人間を傷つけたりはさせない、絶対に!」
爪刃をギリギリと合わせながら、白猫が強い眼差しで自分に言い聞かせるかのように呟いた。
「馬鹿が!貴様は人間の業の深さを知らないからそんな事が言えるんだ、貴様もそのうち人間共の欲望に利用されて苦しむだけだぞメス猫!」
金属が擦れあうような鈍い音と共に、白と黒が離れた瞬間、黒猫が下がりながらも爪刃を真横へと薙いだ。
くっと声を漏らしながら白猫が蹲る。
引く際に黒猫の爪刃にやられた左腕から、白い毛を染めるように赤い血が滲んでいる。
「あはは、覚えたての技で僕に勝るとでも思ってたの?さあこれでお終いだよ」
真っ赤な瞳が白猫を冷たく見下ろす。
鼻をひくりと動かしてあざけ笑う黒猫は、爪刃を高く上に構える。
僕は何をしているんだ、だってあの白い猫はヒメに違いないのに、いつまで僕はこうして怖気づいているんだ。
サトルはヒメとの出会いと約束を思い出していた。
そう、必ず守ると約束した事を。
「うわぉぉぉぉぉっ!」闇雲に奇声を上げながら、サトルは蹴られてまだ痛むわき腹を気にも留めず、黒猫に向かって駆け出した。
頭から力の限り黒猫に向かって突っ走るサトルを、しかし黒猫はあっさりかわすと、爪刃の出ていない左手をその鳩尾へとめり込ませる。
鳩尾に突き刺さる左手に喉を詰まらせながら、サトルは地面へがくりと崩れた。
「ふん、馬鹿な人間だねぇ」
まるで吐き捨てるかのように言うと、隣に蹲る白猫に向かって今度こそと黒猫が爪刃を振り上げた。
「やっやめっろぉっぐほぉ」殴られてまともに息が出来ず、それでも苦しそうにしながらもサトルは地を這って黒猫の右足にしがみついたのだ。
「くっ、しつこい人間めっ!」
足に絡みつくサトルを解こうとするが、なかなか離れようとしないサトルに苛立った黒猫は、それまで手加減していたのだろう、思いっきり足を振ってサトルを蹴り飛ばした。
まさにぼろ雑巾のように土まみれで地面に横たわることしか出来ないサトル、しかしこの一瞬の隙を白猫は逃さず、黒猫の背後から渾身の力で切りつけた。
「ぐわっ、このメス猫がぁ!」
悪態を吐きながら飛びのいた黒猫は、寸でのところで白猫の爪刃を交わし切れなかったのか、左わき腹を押さえて白猫を睨み付けた。
「すぐに後悔させてやるぞぉ!」
完全に怒りに燃えた瞳で、苦しそうに黒猫が吐く。
しかし、そんな黒猫の前に、びりびりと空気を震わせながら突然土煙が巻き上がった。
「はーい、そこまでね」
土煙の中から現れたのは、大人の人間ほどもある銀色の毛に手足と耳と尻尾の先だけが黒い毛に覆われた、妖艶な女の猫だった。
「夷猫、これ以上やるなら私が相手よ、その傷で私に勝てるかしら?」
不敵に言う女の猫は、ヒゲをピクリと震わせて黒い猫を睨み付ける。
「おまえ、僕を知っているのか…ちっ」
少し悔しそうに舌打ちした黒猫は、しばらく女の猫を睨み返していたが、素早く跳躍すると神社の裏手のほうへと消えていった。
「大丈夫?遅くなってゴメンね」女の猫が、地面に膝をつく白猫の傍にしゃがんで言う。
「酷い怪我してるじゃない」
「怪我は大丈夫だから、それよりなんで?どうして夷猫を逃がしたの!」
「いくら私でも、貴方たち二人を庇いながら戦うなんて出来ないわ、今出来る最善の方法を取ったのよ、さあ立てる?」
女の猫が白猫に手を貸すと、白猫は大丈夫だからと自分で立ち上がり、よろよろとした足取りでサトルの傍らに膝をついた。
「ごめんなさい、私のせいで…うぅぅぅっ」
「だ、だいじょう、ぶ、だからぁ」
埃と痛みと涙ではっきりと見えないサトルは、痛むお腹を庇うようにしながら嗚咽のする方へと顔を向けた。
埃と涙でぼやけてはいるが、そこに白い猫の女の子が見て取れる。
サトルは左手を白猫へと伸ばすと、その白猫の柔らかい頬にそっと触れた。
「お願い、だから、泣かないで…ヒメ」
白猫はその手の優しい温もりに、堪らず声を抑えて頬を濡らした。
そんなヒメを見つめながら、サトルは安心からなのか張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、意識を失ってしまったのだった。
3密防止で自宅監禁のGW、どんどんアップします。
もうすぐGWも終わりですけど、感染防止対策の中でもボチボチ楽しみながらいきましょう!