第2猫話
「嫌がってるんだから、無理にあげなくていいじゃん」
ダイニングテーブルで遅い夕飯を胃の中へと流し込むサトルの横に、しゃがみ込んでヒメにキャットフードを食べさせようとしている妹のリンに向かって、サトルが言った。
「だって怪我して弱ってるんだから、ご飯食べないとだめだよぉ」
リンは何とかヒメに食べさせようと、お椀に山盛り入れたキャットフードをヒメの口先へ押し付けるものの、当のヒメは顔を逸らして、とうとう逃げるようにテーブルに座るサトルの足元へと擦り寄ってきたのだ。
「ちょっとお兄ちゃん、邪魔」
ヒメを追いかけてきた妹に、いい加減にしろよと言いながらサトルは足元のヒメを、怪我に触れないようにそっと膝の上へと抱え上げた。
「ヒメは怪我してるんだから、そっとしといてやれよ」
サトルは妹に言いながらも、ヒメの首を指先でそっと撫でてやる。本当にかわゆい猫だ。
「お兄ちゃんの言う通りよリン、ヒメちゃんは疲れているんだからそっとしておいてあげなさい」
台所で食器を片付けていたお母さんが、見かねた様子で言うと、妹のリンは頬を膨らませて少しむっとしながらも、諦めてリビングへと退散していった。
膝の上で自分を見上げるヒメに、サトルは堪らないほどの愛おしさを覚えながら、ふと自分の食べていた鮭の塩焼きを小さくほぐしてヒメの口元へと自分の箸で差し出すと、ヒメはまるでそれを待っていたかのように小さな口を突き出して食べだした。
「あらあら、リンからは一口も食べようとしないのに、お兄ちゃんからは喜んで食べるのね」
お母さんが微笑みながら、ちょっと不思議そうにからかうような口調で言った。
「そりゃ僕が助けてあげたんだから、僕を信用していてもおかしくないでしょ?」
そういうものかしらとお母さんは言いながらも、キャットフードを片付けて、鮭をもう一切れ用意してくれた。
白い猫を自転車に乗せて家に帰った時、ちょうどお父さんも帰宅していて、車で急いで動物病院へと連れて行ってもらったのだ。
体中に傷を負ってはいたものの幸い骨や内臓には異常が無く、暫く休めば傷も癒えて元気になると医者は言っていたのだが、サトルの剣幕さに医者も押されて、大袈裟なほどにこれでもかと白い猫を白い包帯で巻いてくれていた。
お母さんが言うには、その時のサトルといったら今までに見たことが無いほどに真剣で、お父さんも見たこと無いようなサトルの余りの必死さに、夕食も取らずに急いで車を出して病院へと向かっていたのだ。
「本当に、それくらい勉強も必死になってくれたらねぇ」
なんかいった?と惚けて、サトルはお箸の先で鮭をほぐしながら、ヒメとの夕食を続ける。
「でも何で名前がヒメなの?」お母さんがテーブルの向かいに腰掛けて、僕たちの食事を目を細めて微笑みながら言った。
「この透通るような白い毛並み見てよ、お姫様みたいじゃん?目もパッチリしてて本当にかわゆいし」
まさか美少女ゲームの猫耳キャラから名前を付けたなんて言えずに、サトルは適当に答えて誤魔化そうとした。
「かわゆいって・・・ふぅ、まあ漫画の女の子に恋するよりは良いけど、猫の子じゃなくて人間の女の子にも恋しなさいよ、いい年して彼女の一人くらいいないとお母さん心配だわぁ」
呆れて言うお母さんの言葉に、思わず噴出しそうになって、急いでお茶で流し込みながらサトルは猫のヒメを見ると、前足で顔を覆うようなしぐさが何故だか照れているようにも見える。
「ちょっとお母さん、変なコト言わないでよ」
「あら、全然変なコトなんて言ってませんよ、サトルももう高校二年なんだし、漫画やらゲームばっかりやってたら女の子にもてないわよ」
うるさいなぁと言いながらも、お母さんの言うとおりだけに何も言い返せずに黙って食事を続けた。
「お母さんは心配なのよ、息子がニートになるんじゃないかってね、さあさあ早いとこ食べてお風呂入って頂戴ね」
「はいはい」そういうことを息子本人に面と向かって言うお母さんもどうかと思うと、口には出さずにサトルはそっけなく答えて箸を動かした。
電気を消し窓から差し込む月明かりのサトルの部屋で、ベットに仰向け横になったサトルお腹の上には、右後ろ足と左前足それにお腹に包帯を巻いた猫のヒメが寝そべり、サトルが呼吸するたびにゆっくりと揺れている。
「なあヒメ、なんであんな事になったの、誰にやられたんだ?」
少し首を傾げるだけのヒメを見つめながらサトルは思った。
あれは何だったのだろうか、本当にただの動物虐待だったのだろうか。
あの異世界のような公園での出来事は、本当は僕の妄想なんじゃないだろうか。それならヒメがここに居るはずが無いよな。
でも、誰かがヒメを狙って苛めた事だけは確かなんだ。
「ヒメ、これからは僕が守ってあげるから、ずっと一緒にいよう」
サトルはお腹の上のヒメを自らの顔へと引き寄せると、その猫の小さな口へと自分の唇を小さく重ねた。
「かわゆいヒメ」
ヒゲをぴんと張って丸く目を見開いた顔のヒメは、軽い口付けに驚いたようにも照れているようにも見えた。
「さ、今日はもう寝よう」
そう言って足元のタオルケットを引き寄せると、ヒメを右側に腕枕で横にし、やさしくタオルケットを掛け、寄り添うようにしながら眠りに落ちていった。
カッカッカリッカッ
何かを引っかくような音で目覚めたサトルは、朝日の差し込む部屋のドアを、一生懸命に前足で引っかく猫のヒメにようやく気が付いた。
「おはようヒメ、どうしたの」
大きなあくびをしながらサトルがドアを開けてやると、待っていましたとばかりにヒメは部屋を飛び出して2階の廊下を走り、突き当りのドアをまたカリカリと前足で引っかきだす。
「なんだトイレね、今開けるからぁ」
寝ぼけながらサトルがドアを開けてやると、ヒメがひらりと洋式の便座の上へと飛び乗って「シャーッ」と威嚇するように喉を鳴らしながら、サトルを見返している。
「あ、ああ出て行けってね、うん」
ドアを閉めて、まだぼんやりした頭で「猫もちゃんとトイレでするんだなぁ」などと考えていると、向かいの部屋の妹のリンが起きてきた。
「おはようリン」
「あのさぁお兄ちゃん、そんなところにいたらワタシ、トイレ行けないんだけど」寝起きで機嫌の悪い妹は、うっとうしそうに言い放つ。
「あぁうん、いまヒメが入ってるから」
「はぁ?猫がトイレでするわけ無いでしょ」リンの目が完全に兄を馬鹿にしている。「とっとと退いてよね」
「猫だってトイレくらい使うだろ、使うよなぁ?使う?ん?」
ただでさえ朝の機嫌の悪いときに、兄のとぼけた態度に完全に頭にきたリンは、サトルを無理やり押しのけると、勢いよくトイレのドアを開けたのだ。
そこには・・・
そこには、便座の上に後ろ足で立ち左前足を水洗ポンプに掛けて、その横に突き出ているレバーを右前足で器用に操作して水を流している、白い猫がいた。
「・・・」
そして便座からひらりと降りると、すました足取りでリンの足元をすり抜けて、サトルのすねに擦り寄りゴロゴロと喉を鳴らした。
「ほら、ちゃんと出来てるだろ、ヒメには出来るんだよ、すごいなぁヒメは」
そう言って猫のヒメを抱えあげたサトルは、うれしそうに部屋へと戻っていった。
「…うそ」信じられない、見てはいけないものを見てしまったような衝撃に、開いた口が閉まらない妹のリンは、トイレへ入るのも忘れて廊下に一人、立ち竦むのであった。