第1猫話
まだまだ暑い八月の星が見下ろす夜、山沿いに広がる綺麗に整備された新興住宅街の中央を貫く暗い坂道を、サトルは自慢の黒い自転車トレックFX2ディスク仕様を押しながら上った。
まとわりつく熱気が汗となり、制服の背中を伝うが、気にもせずに黙々と坂の上にある、引っ越したばかりの新しい我が家を目指す。
「はぁ、ついてないなぁ」
ぶつぶつと呟くサトルにしても、坂の上の新しい家は、それまでの賃貸マンションとは比べ物にならないくらいに綺麗で過ごしやすくて、すごく気に入ってはいたのだが、引っ越したのが一学期の期末試験と重なってしまい、苦手の英語では追試の上に夏休みに補習授業まで受けることになってしまったのだ。
なんで日本人なのに英語を勉強しないといけないのかと、インターネットをしていれば英語が如何に重要かなんて分かっているのに、愚痴らずにはいられなかったのだ。
夏というのに白い息が見えそうな何度目かのため息を吐きながら、街灯に群がる虫を、手で払い自転車を押し続ける。
八月の十七日から二十一日まで続く補習授業も後三日で終わりだ。そしたら溜まったアニメのビデオを見てオンラインゲームして、のんびり夏休みを満喫してやるんだとサトルは自分に言い聞かせた。
坂道も住宅街の中心にある中央公園に差し掛かったとき、ふと顔を上げたサトルの目に信じられない光景が写った。
中央公園の中ほど、グラウンドのあたりから白い土煙が音も無くもくもくと立ち昇っているのだ。
「なんだよ、あれ」
暗い夜空に淡い街灯の灯によって浮かび上がる闇夜へと伸びる土煙は、千九百八十四年に公開されたアメリカの某ゴースト映画に出てくるマシュマロマンさながらに異様で、サトルの好奇心を駆り立てる。
「ったく、誰だよこんな時間に近所迷惑な」
サトルの家はまだ坂を登った先で、サトルにとっては別に近所迷惑でも何でもないのだが、静かに音も無く立ち昇る煙の正体を見てみたい衝動に、サトルは意味の無い独り言を呟くと、自転車を歩道の脇に止めて、公園の入り口へと足を向けた。
中央公園は入り口から雑木林が続き、その中を日中なら町民の憩いの場となる曲がりくねった石畳の小道が、先にあるグラウンドまで延びている。
広いグラウンドは野球が出来るようにと整備され、四方を背の高いネットで覆い囲まれていた。
「・・・寒い」
サトルは、公園内へと一歩踏み込んだとき、けっして全身から湧き出る汗のせいではない、ぞくりと背筋を走る寒気に身を強張らせた。
曲がりくねった小道の奥の闇、頬をかすめる淀んだ冷たい空気。
突然その時、地面を揺らす爆音と共に砂吹雪きが、お腹に響くような音を立てて激しくサトルを打ち下ろした。
「ひっ、うっひぃぃぃっ」
ばちばちと音を立てて打ち付ける砂嵐に、サトルは情けない奇声をあげながら地を掻くように公園の外へと転がり出た。
「はぁはぁんっはぁ、ななななんだ、なんだよ今のはっ」
荒い息で歩道に尻餅を着き目を見開くサトルを、公園の外の静寂な夜の風がまるで何事も無かったかのように撫ぜていく。
しかし、サトルの汗で濡れた制服には、確かに激しく吹きつけた砂が今もべっとりとこびりついる。
爆音も吹き荒れる砂埃も無い静かな夜の町で、公園の外の優しい静寂にわれに返ったサトルは、汗と砂で汚れた顔を制服の肩で拭うと、地面をしっかりと踏みしめて立ち上がった。
確かに公園の中は嵐だったんだ、なのに外にはいつもの静かな夜のままだなんて。
もしかしたら超能力戦争が起きているのかもしれない。
いや、もしかしたら宇宙からの侵略者が夜の闇に紛れて静かにこの町を…よし、こうなっら僕が何者の仕業なのかこの目で見てやる!
無駄な好奇心と、根拠の無い正義感を頼りに、サトルはもう一度公園の入り口に立ち、両手で頬を叩いて「気合だっ気合だっ気合だっっ」と心の中で叫ぶと、腰の引けた今にも逃げ出しそうな姿勢で、そろそろとゆっくり右足を差し出した。
ひんやりした空気がゆっくりと漂っているものの、先ほどのような爆音や砂嵐は吹き荒れずに、静かに砂埃が闇夜に漂っている。
サトルは暗い闇を目を細めて注意深く見回しながら、石畳の小道を闇と砂埃に溶け込むかのように進んでいった。
もしかしたら、もう何も出てきたりしないかもしれない。
いや、化け物なんて居るわけ無いんだから、恐れることなんて無い、どうせ誰かの悪戯に決まっている。
何事も努めて都合よく考えることにしているサトルは、気持ちもだんだんと落ち着いて、ずんずんと小道を進みグラウンドのバックネット裏に辿り着いた時だ。
切り裂くような風が薙ぎ、固いグラウンドの地面へと重たい何かが落ちる物音が、サトルの動きを止めさせた。
広いグラウンドの片隅とはいえ、夜の薄明かりのうえに砂埃のカーテンのせいで何が起きているのか、サトルからはハッキリと見ることが出来ない。
さらに近い場所で、くぐもった重たい音とともにぐっと砂埃が立ち昇る。
バックネットを挟んですぐ向こう側に、何かがいる。
心臓の鼓動が足先から髪の毛の先まで波打ち、冷たい汗が首筋を伝う。
逃げ出したいけど見てみたい、動きたいけど力が入らない。
サトルは動くに動けず、ただじっと息を殺して佇むしか出来なかった。
しかし、次の瞬間に砂埃の奥からゆらゆらと黒い影が、ゆっくりとバックネットの向こう側に浮かび上がったのだ。
人のようにも見えるそれは、少しかがんで白い何かを掴み上げると、それを今度はバックネットへと叩き付けた。
金網へ金属音とともに激しくぶつかった白いそれは、力なく地面にどさりと落ちると、猫のような声を微かにあげて崩れ落ちた。
風が乱れ、サトルをさらに震え上がらせる。
闇に乗って黒い影が音も無くバックネットに近づく、サトルのすぐ傍へと。
赤い瞳、黒い影の深い闇のような赤い眼差しが、バックネットの向こう側から、サトルを、捉えた。
じっと見つめる瞳、それを遮ることも逸らすことも出来ずに、サトルは瞬きすら出来ず、人形のように固まった。
無音の恐怖、逃れることの出来ない瞬間。
その瞳が、にやりと笑う。
ビ ョ ウ ケ
一瞬だろうか、永遠のように感じられた恐怖は、不思議な言葉を残して黒い影と共に夜の闇の奥へと遠ざかっていく。
どれくらい身動き出来ずに居たのだろう、少しずつ晴れていく砂埃にどうやら助かったみたいだと、サトルは安堵と共にその場にしゃがみ込んでいた。
今のは何だったんだ、僕は何を見たんだ。
じっと固まっていた手も足も、恐ろしさで今頃になってガクガクと震えだした。
砂と汗でぐちゃぐちゃのくしゃくしゃにひしゃけた顔を上げて周りを見渡すと、いつの間にか砂埃はすっかり収まって、何時もの静かな夜の公園に戻っていることに気が付く。
先ほどまでの出来事は、夢だったのだろうか。
ふとバックネットの向こう側へと眼を向けると、そこには確かに白い生き物がまだ横たわっていた。
膝をがくがくと震えさせながらも立ち上がったサトルは、バックネットをよたよたと回って白い生き物の傍らに跪くと、恐る恐る手を伸ばして、その身に添えた。
それは、ドキドキするほどに目を瞠る、美しい純白の毛を纏った、可愛らしい猫だった。
こんなにかわゆい猫を傷つけるなんて!
身体中に傷を負い、真っ赤な血を流しながら微かに口を動かす弱りきったかわゆい猫に、サトルはじっとしていられず抱えあげると、小走りで自転車へと戻り家路を急いだ。
きっとあの黒い影の男は、憂さ晴らしにこの可愛らしい猫ちゃんを痛めつけていたに違いない。だから僕に見つかって、分けの解らない事を口走って逃げて行ったんだ。
サトルは自分の思うがまま都合よく考えをまとめると、それ以上何も考えずに夢中で坂を上っていった。
これが始まりだとも気づかずに…。
こんな感じでいいのかな?