第4話 「I氏の過去」
ジャス子が、かつて兜町を席巻したI氏の娘であること知ったアケミ。父の記憶がほとんどないという彼女に対して、アケミは自分の知るI氏の過去について語りだす。それを聞いた、ジャス子の反応は……
ジャス子と会話を交わしながら、僕はこれからどう話を持っていくかを考えていた。ジャス子は僕に相談に行くことを、うるるに話したといっている。うるるがそれを止めなかったってことは、彼女にしてみれば、「美味しいところは既に吸い尽くしたんで、この子がアンチにならないように上手くやってくれ」ってことかもしれない。
うるるの絵図のまま動いているようで、少しばかり癪に障ったが、この世は持ちつ持たれつだ。それは、この相場の世界だって例外じゃない。ガチに張り合うのは、売り方と買い方に分かれた時の、仕手戦の時だけで十分だ。
「お父さんは元気にしてるの?」と、とりあえず僕は尋ねてみた。
「父はもう、10年以上前から行方不明です」と、ジャス子は答えた。
「私と妹は、幼いころからお爺さまの手元で育てられましたから、経済的には苦労してないですけど……」
追放後の彼は、ほとんど素寒貧だったはずだ。復活をかけてヤバい筋の金を掴み、裏社会の人間に消されたのかもしれない。もし本気で大相場を作ろうと思うなら、ヤクザか政治家の金が要るからだ。つまり、軍資金には最初から紐がついている。勝っても7割は上納金で持っていかれ、負ければ命まで奪われる。そういう世界だ。それでも、自らの手で相場を作ることの愉悦を知ってしまった人間は、その魅力から離れられない。
「あのさ……。僕は思うんだけど、君のお父さんがあのI氏だっていうのなら……」
「I氏?」
「ああ、君のお父さん、つまり怒野 大永さんは、僕らの世界ではそう呼ばれてたんだ。結構な人気者だったよ。一時は飛ぶ鳥を落とす勢いだった……」
「そうなんですね」
「だけど、大永さんの末路は悲惨だった。君がその娘だっていうのなら、亡くなったお爺さんだって、君が株をやるのには反対したんじゃないかな?」
「それは本当にそうですね。バカだったな、私……」
彼女の父親があのI氏であるならば、なおさら僕は、彼女を相場から引き離さなきゃいけない。
「僕は君のお父さんに会ったことはないけど、君のお父さんが関わってた相場の事ならよく知ってる」
「そうなんですか?」
「ああ、当時の僕はまだ駆け出しも良い所だったけど、僕の相場の師匠は、大永さんの指南役の一人だったからね」
「全力さんにも、やっぱりお師匠さんが居るんですね」
「そりゃそうさ……。最初から上手くやれる奴なんて、この世界にはいやしないよ。どんな奴でも1度や2度は全財産を吹き飛ばして、それから分かることが沢山あるんだ」
彼女はきっと、今もうるるの事を師匠として敬愛しているのだろう。だが、もしこれから先も彼女がうるると付き合っていくのなら、まず間違いなく、体を売っても追いつかないほどの借金を抱えていくことになる。それは流石に可哀そうだと僕は思った。
「父について知っていることを、何か聞かせてもらえないですか? 私、父の事はほとんど知らないんです。いなくなった時はまだ小学生だったし、話題に出すとお爺さまが怒るので……」
彼女が過去にI氏について、どれくらい調べたかは分からない。だが、どんなに調べたところで、悪い噂しか出てこなかっただろう。あまり記憶がないとはいえ、実の父が悪く言われてるのを見て、嬉しく思う娘が居るはずもない。僕は目の前にいる彼女を、少し慰めてあげたいと思った。
「多分君は、これまで周囲から、お父さんの悪口しか聞かされていないと思う。だけど、大永さんは兜町のヒーローだった。少なくとも、一時的にはね」
「ヒーロー?」
「ああ、君のお父さんは、バブル崩壊後のあの冷え切った相場の中、何百億もの資金を市場に持ち込んでくれたんだ。提灯を付けた人間の資金も合わせたら、一体いくらになるか分からない」
「本当ですか?」
「ああ、本当さ。彼はこの世界でしか生きていけない。僕みたいな人間を何人も救ったんだよ」
その言葉を聞いたジャス子の顔は、誰にでも分かるくらいに明るくなった。自分には無関係なこととはいえ、実の父がしでかしたことについて、ずっと後ろめたさを感じていたのかもしれない。
バブル崩壊後の90年代、ITバブルというあだ花が咲くまでの間、相場で食っていこうと思うなら、仕手株に張るしかなかった。僕の師匠もI氏も、その仕手相場の本尊として、大いに名を売った人間だ。
正直に言えば、I氏自身にトレードの才覚はなかった。だが、指南についたメンバーがとにかく強者ぞろいだったのだ。彼らは次から次に銘柄を乗り換え、順々に株価をカチ上げていった。一般投資家のファンも増え、I氏の名字にちなんだ、怒の会という相場研究会が出来た位だ。
だが、彼らは人を嵌め込む力には長けていても、長い時間をかけて大相場を作るという美学には欠けていた。本尊である、I氏の振る舞いも次第に傲慢になっていった。彼が介入したという噂だけで株価が跳ね上がるものだから、自分の実力を見誤ったのだ。
失望した僕の師匠は、彼の指南役からまっさきに降りた。その後のI氏の末路は悲惨だった。師匠は、他の指南役の横暴を防ぐ、最後のタガだったのだから当然だ。
「大永さんが、自分の判断で売ったり買ったりしてるうちは良かった。だけど、あの時代は仕手株が全盛の時代だったから、いつしか、自分も仕手になって、相場を作りたいと思うようになったんだね。それで、会社の金にも手を出した」
「はい。会社に100億円の損害を出したって、お爺様は怒ってました」
師匠が抜けた後、他の指南役は一般投資家ではなく、I氏自身を嵌め込むことに専念した。その方が遥かに手っ取り早く、リスクも少ないからだ。むしろ、全部自分の判断でやってれば、I氏は100億も負けなかっただろう。だが彼は、それまで通りに指南役の持ってくる銘柄を仕掛けつづけ、身内の玉を次々と嵌め込まれていったのだ。
あんなに沢山いたI氏のファンも、彼の買い指令には従わなくなっていった。彼はあっという間に、それまでの勝ち分をすべて吐き出し、相場の損金は雪だるま式に膨らんだ。そして、持ち出しが発覚するその日まで、彼は会社の金で穴を埋め続けたのである。
彼が兜町に住む悪党どもに嵌め込まれ、巻き上げられ続けた金の累計が100億だ。だが、そんな悲しい事実を彼女に突きつけたって仕方ない。僕は徹底的に、I氏を持ち上げようと思った。
「確かに大永氏は、100億もの大穴をあけた。でも、その100億円は、どこかに消えてなくなった訳じゃない。市場を通して、誰かの懐を潤したんだ」
「潤す?」
「ああ、君のお父さんは、少なくとも100億円分は誰かを幸せにした。会社の人間は、大永さんの事を悪く言うだろうけど、君が気に病むことはない」
「じゃあ、喜んでくれた人もちゃんといたってことですよね?」
「そうだ。彼はちゃんと罪を償った訳だし、横領されたお金も、ちゃんと損金として処理されたはずだ。それに彼は、自社株にだけは手を付けなかった。100億が全部、会社から消えた訳じゃない」
「そっか……。よかった」
ジャス子は心底ほっとした顔をした。後はこの子に、「もう二度と、相場なんてやるんじゃないよ」と言ってあげるだけだ。だが彼女は、次の瞬間、とんでもない爆弾を放り込んできたのだ。
「じゃあ、私の4000万も同じですよね。桁は大分違うけど」
「4000万!? 君、うるるの相場で、4000万全部なくなったの?」
「いえ、まだ38万円残ってますよ。ギリギリ信用取引が出来るうちに、DJさんに相談しに行こうと思ったんです」
「……」
「うるる、流石にやりすぎやろ……」と、僕は思った。なんだかんだ言ったって、数百万くらいはまだ残ってると思ってたからだ。元手は遺産なんだし、それだけあれば、ちょっとした贅沢は出来る。
「失ったお金は、勉強料として諦めて、これからは堅気に生きなさい」と教え諭すつもりだったのに……。
「怒野さん、ちょっとここで待ってて。飲み食いは好きにしてていいから」
「どうかしたんですか?」
「ちょっと、急用を思い出した。すぐに戻ってくる」
僕は一旦この場を収めて、うるるに連絡を取ろうと決めた。コンシェルジュさんに彼女の事を頼み、空いていた別の部屋に入る。すぐに、うるるのスマホに連絡を入れ、いつもどおりの挨拶を交わした。
「おー、全力さん、久しぶり。ちんちんの調子は最近どうだい?」
「絶好調だよ。昨日も朝まで、アイツを寝かせなかったぜ!」
「そりゃあ何より。こっちは、もう何年もカワカワだよ」
これは別に冗談じゃない。僕とうるるの間で、必ず最初にやり取りする【符丁】だ。勿論、第三者のなりすましを防ぐためである。このやり取りをして初めて、僕らは互いが本人であることを確認し、本題に入るのだ。
ちなみに、僕が無理やり誰かにしゃべらされていたり、危機的な状況にある場合には、符丁を「全然ダメだよ。どっかに、ちんちんに効くいい薬売ってないかな?」に変えて、自分のピンチを伝える。
そしたら、うるるは、「ああ、それなら友達がいいの持ってるから、ちょっと聞いてみるよ」といって電話を切り、僕の顧問弁護士の稲見さんや、師匠の娘である吉田さんに、助けを求める手はずになっているのだ。
僕は、この電話のお陰で命を救われたことが数回あるし、うるるの危機を救うために、拉致先まで金を運んで行ったことも何度もある。『持ちつ持たれつ』っていうのは、ようするにこういう事だ。僕は、うるるの銘柄には乗らないし、金だけは絶対に貸さないけど、奴がピンチになれば出来る限りの事はしてやるし、それは向こうも同じだと思う。
ちなみに、うるるがこっちにかけてくる時の符丁は、もっと内容がえげつない。こう見えて、育ちがいい僕には書くに忍びないから、後は皆が自由に想像してくれればと思う。
(続く)
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興味のある方はご参照下さい。うるると僕のこの後のやり取りと、プライム産業の杜の伝説が読めます。楽しんでもらえると嬉しいです。