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竜に対し必要以上に畏まる必要は無い。
こちらの態度によって、竜からの評価が変わる事はない。
”気に入られるか、そうでないか”。
それは、竜のみが知る摂理。人間が考える小手先だけの小細工等、竜にとっては些末な事なのだ。
「………………。」
理想を言えば、黒竜からの反応が望ましかった。
黒竜はこちらを見ている。見ているだけだ。オレに対し、どの様な評価を下しているのかは判断が付かない。
「竜よ、いくつか問いたい事がある」
黒竜からの反応はない。だが、オレには切り札があった。
「お前は、闇竜とどう関係している? 何故、黒竜と名乗る」
竜の目が、見開いたような気がした。
「オレは、お前に殺された者だ。お前が滅ぼして来た、多くのモノの一人だ」
『それは、我ではない』
竜の声が、頭に響いた。それは、竜と対話する資格を得たという事を意味する。
「それについて、いくつか聞きたい事がある。答えて欲しい」
『………………。』
「黒竜とか何か、闇竜と何か違うのか?」
『何も変わらない。変わったのは、世界の摂理。その在り様の方だ』
背筋に、嫌な汗が出る。
目の前に居る竜は、やはり闇竜であった。
「世界の摂理が変わったとは……どういう意味だ?」
『マナの祖が、そう定めた。発端は光だ、知りたくば奴に聞け。我は知らぬ』
マナの祖。世界を構成するマナ。即ち、火、水、風、土、そして光と闇のマナ。
では、そのマナを創り出したのは? 昔の人間は、その存在を神と定めた。
世界を創りし神。マナの祖とは創造神の事を指す。
光とは光竜の事だろう。それに聞けとは、無茶を言う。
「闇竜……いや、かつての様な闇竜の存在は、もう出ないのか?」
それは、聞かなくてはならない事では無かった。ただ、自分が知りたい事だった。
闇竜による天災が無くなれば、人々は恒久的な繁栄を得るだろう。自ら、争わぬ限りは。
少なくとも、かつて祖国を襲った悲劇はもう起きない。
『我は、一部に過ぎぬ。他の闇がどうするかは、知る所では無い』
ふと、竜の加護が増えた事を思い出した。
書斎で読んだ本だけで、火竜の加護を得ている貴族家は五家もあった。
一つの大きな存在が、幾つもに分かれている。それが、変わった摂理か。
「そうか……」
世界は未だに、闇竜の脅威に晒されていた。それは事実だ。
だが、それは人が乗り越えて来た脅威なのだ。今も昔も、これからも。
『聞きたい事は、それだけか?』
「オレの身に起きた事に、何か心当たりはないか?」
聞かなくてはならない事。それは、今この身に起きている異変だ。
人の力の及ばぬ所業。人智を越えた竜であれば、何かを知っている可能性が高い。
逆に言えば、竜をも知らぬ事態であったのなら、オレに出来る事は無い。
『言っている意味が、理解出来ぬ』
「オレは、アランだ。アルフレドでは無い。死んで目覚めたら、この身体になっていた。その理由を知りたい」
『………………。』
沈黙が流れ、手に汗が滲む。
唯一の手掛かりなのだ。この瞬間に、全てが決まる。
『有り得ぬ。魂はマナへと還り、世界に溶ける。それが、祖が定めた真理だ』
「ま、待ってくれ! ならば何故……オレはアルフレドになった! アルフレドはどうなる!?」
『それは、我が関与する事ではない』
あっさりと、望みは絶たれた。謎は深まり、事態は何一つ好転しない。
全ては振り出しに戻り、手掛かりは潰えた。これ以上、何が出来ると言うのか。
『我は眠る。去れ、人間よ』
「…………アルフレドは何故、飛竜に避けられる」
光竜に聞け。それだけを言い残し、黒竜はこちらに反応を示さなくなった。
オスクリタには伝えないで欲しいという言葉だけを残し、その場を後にした。
空を仰ぎ、天に問う。
神よ、見ているなら教えてくれ。
何故オレなのだ。何故、この事態を招いた。
摂理に反しているのなら、裁きを与えるべきではないのか?
神の御業とするならば、何故道を示さない。
祈りは虚しく、空へと溶けて行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夜が明け、朝食の席でオスクリタと向かい合う。
正直、誰とも話したくは無かった。だが、そうする訳にはいかなかった。
欺き得た平穏を、偽りの希望を、オレが壊していい筈がない。
「顔色が優れない様だが、辛ければ休んで居てもいいのだぞ?」
昨日の事から未だに立ち直れていないオレに、オスクリタが優しく問いかける。
よく出来た人物だ。尊敬に値するが、その優しさに甘える資格は無い。気持ちを切り替えなければ。
「いえ、問題ありません。昨日はご心配をお掛けしました。正直に言うと、姉上に会うのが怖かったのです」
「……何故?」
「僕は未熟者ですが、自分の犯した罪の大きさは理解出来ます。拒絶をしておいて、受け入れろと思うのは、余りにも都合の良い話ではありませんか」
「私は、一度とてお前を見限った事はない。家族ではないか、そう思われる方が……私は悲しい」
オスクリタは、姉であり、母であり、父であった。
それが彼女の美点であり、欠点でもあった。と言うか、弟に甘すぎる。
「光栄に思います。しかし、逆に心配になってしまいます。その優しさに、付け入る者が居るのではないかと」
「案ずるな、公私は弁えている。私が甘やかすのはお前だけだ」
自覚あったんかい。
事情が事情なだけに、弟を溺愛するのは仕方が無いと言えば、それまでなんだが……。
恋人の一人でも出来れば、多少はマシになるのかねぇ。
容姿端麗。地位も名誉も十分にあり、おまけに人格者と来てる。引く手あまただろうに。
いや、逆に高嶺の花過ぎるのかもな。本当に綺麗な女は、求愛すらされない。
揃いも揃って様子を見ている内に、のほほんとした、女の魅力も分からないような奴とサラッと結婚しちまうんだ。
この人だけが、私の内面を見てくれた~とかなんとか言って。あの時は、酒場で死ぬほど呑んだっけかな。
ふと、疑問に思う。
それは、平民だったらの話だ。
貴族は違う。貴族の婚姻は大きな意味を持つ。
血を残す事。それが、貴族に生まれた者に課せられた使命の一つである筈だ。
特別な事情が無い限り、オスクリタは世継ぎを産まなければならない。当主であれば尚の事。
クランクライン家が断絶するという事は、黒竜の庇護を失うと言う事だ。国がそれを容認する訳がない。
オスクリタと婚約するという事は、黒竜との繋がりを得るという事だ。竜の加護を持たない貴族からすれば、それは喉から手が出る程欲しいだろう。
「そういえば……──」
そこまで口を開き、重大な落とし穴に気が付く。
そんな当たり前の事をアルフレドが”知らない”筈がない。
聞けない。聞ける訳がない。
十数年に渡って、積み上げて来た関係の欠如。その弊害が重くのしかかる。
「どうした? 急に固まって」
「あ……いえ、今日は、何をしようかと……」
なんとも間の抜けた話題が口から滑り落ちる。
当たり障りのない話題。それだけが、今のオレに許された、ただ一つの道なのだと。
歪んだ存在なのだと、改めて思い知らされる。
その後、オスクリタとの会話は何一つとして頭に入って来なかった。
ただ最後に、翌朝には騎士団に戻るという言葉を聞いて、酷く安堵してしまったと言う事だけが、オレの心に影を落としていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「国を出る……ですと!?」
静かな書斎に、ギャレットの声が響く。
朝食を終えた後は、自習すると言って書斎に来ていた。
「大きな声を出すな。姉上に聞かれたらどうする」
地理や風土に関する書物を眺めながら、ギャレットに釘を刺す。
「申し訳ありません……しかし、どうしてまた……」
「見聞を広める為に諸国を漫遊する。可笑しな話ではないだろう」
ギャレットは、とても納得した風には見えなかった。無理もない。
それはあくまでも方便であって、本当の理由ではないからだ。
「僕は、姉上の事を何も知らない。好きな食べ物も、嗜好も、産まれた日さえも」
ギャレットは黙ったまま、オレを見ていた。
こちらの真意を測ろうとしているのだろう。
「二人の間にあった会話の全てを、知る術はない。それは、本人達にしか知り得ぬ事だ」
「……それは、しかし…………」
「凡その事は、お前や、他の者と話し合えば分かる事だろう。ただそれは、他者から見た二人でしかない」
姉弟が何を話し、何を感じ、何を培って来たのか。
他者が全てを知り得るのは不可能だ。それは、屋敷に古くから仕え、姉弟が幼い時から見守っていたギャレットとて例外ではない。
その中には、二人だけの時間が必ずあるのだから。
「遅かれ早かれ、事は露見する。今回はどうにかなったかも知れん。だが、その次は、その次の次は。回数を重ねれば重ねる程に、その危険は増す」
それは、分かり切っていた事だった。そうならない為に、多くの事を話し合った。
その時間が無意味だったとは思っていない。しかし、現実は甘くは無かった。今朝の会話で、それを思い知らされた。
「アラン様のお考えは分かりました。ですがそれは、致し方ない事であると存じます」
本のページをめくり、文字を見る。内容は全く頭に入らない。
「逃避である事を否定はしない。そもそも、解決に至るにはアルフレド本人を取り戻すしか道はない」
「……はい」
「昨夜、黒竜と話をした」
本を閉じ、ギャレットの方を向く。
「オレは、光竜を探しに行こうと思う」
最後、アルフレドの体質について尋ねた時、黒竜は『光竜に聞け』と言っていた。それは、今の事態とは全く関係のない事なのかも知れない。
残された謎は、アルフレドが持つ体質だ。それが全ての問題に関わっていると、縋るしかなかった。
「宛は……あるのですか?」
「無い」
竜の加護が蔓延している世界。ただ唯一、光竜だけがその所在を明らかにしていない。
世界の摂理を変える切っ掛けになった竜。アルソニア王国の興りに、深く関わっていた竜。探す価値は大いにある。
「……聖竜教の聖地に行けば、何か分かるかもしれません」
聖竜教。アルソニア・ソーリス・ルクス女王陛下が御され、光竜が天に還った後に開かれた国教。
この国は、未来だ。オレの生きて居た時代から、遥か遠い未来。祖国は、滅んでは居なかった。
机に置かれた本の表紙に描かれている、見慣れた大陸の図が。窓の光に照らされて、淡く映し出されていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「では、私は行く。後の事は任せたぞ」
明朝、騎士団に戻るオスクリタを見送る為に、全員で屋敷の外に来ていた。
「オスクリタ様が留守にしておられる間の事は、私共にお任せ下さい」
「心配はしていない。お前達が居てくれるからこそ、私は安心して任地に赴ける」
「その信を裏切らぬ様、一層の努力を重ねる所存でございます」
ギャレットのお辞儀に続き、屋敷の使用人一同が深く頭を下げた。
「アルフレドも、達者でな。世界を巡る事は、今にしか出来ぬ事だ。見識を広め、存分に楽しむと良い」
「快く承諾してくださった事、深く感謝申し上げます。姉上も、どうかご無事で」
旅に出る事は、昨夜の夕食の席で話してあった。
諸国を巡り、見聞を広めたいという名目で。
「為すべき事もせず、我が儘ばかり言う愚弟を、どうかお許しください」
「良いのだ。やはりアルフレドも、男なのだと思う。お前は知らなかったと思うが……父も、かつて同じ事を言っていた。叶わなかった父の分まで、お前が叶えてやってくれ」
オスクリタの言葉に、深く頭を下げて答える。
反対はされたが、最終的には認めてくれた。その背景には、今は亡き父の姿があったようだ。
「次に帰るのは、早くて二週間後になる。何かあれば知らせてくれ」
「いってらっしゃいませ! オスクリタ様!」
声を揃えて挨拶をする使用人達に、片手を上げるしぐさで応えると馬車に乗り、連れ伴う使用人と共にオスクリタは屋敷を後にした。
その姿を、地平線に紛れて見えなくなるまで見送った。
黒竜は、最後までこちらを見る事は無かった。だが、それでいい。
この身に起きた異変も、どうすればいいのかも、何も分からない。
それでもまだ、全てが終わった訳ではない。
オレが、前を向いている限りは。