4
「さて、と」
便所から戻り食堂の椅子に座ると、ギャレットが新しいカップに紅茶を注いでくれた。
飲むとまたトイレに行きたくなるので、口は付けないでおく。
それよりお茶菓子みたいな物が欲しい。朝食が終わった直後だと言うのに腹が減って仕方がない。
「取りあえず、座って欲しいんだが」
話し合いだつってんのに、ギャレットはオレの右斜め後ろ45度に位置取っており、非常に話しにくい。
「そう言う訳には……」
「オレが困る。話し辛い」
そう言って、無理矢理座らせた。
オレだって王に同じ事を言われればギャレットと同じ反応をするし、その気持ちも判る。
だが、人と話す時は極力目を見て話したい。そっちの方が相手が何を考えているか分かりやすいし、落ち着くからだ。
「今のオレは、アンタの主人の皮を被ってるだけの別人だ。主人と同じ扱いをする必要はない」
言葉や態度もあえて砕けたモノにした。その方が、目の前の状況を受け入れやすいだろう。
「ふむ……」
これまで通り、ギャレットが髭を弄り始めた。
緊張している訳でもなさそうだし、一安心と言った所か。
「手始めに一つ、ハッキリとさせておきたい事がございます」
こちらを見る視線が鋭くなった。敵意から来るものではなく、真意を見極めようとする良い目だ。
存分に見極めてくれ。そして見極めたら協力してくれ。
正直、何をするにも人手が足りない。知識も足りない。アルフレドを慕っているギャレットなら、オレという存在が気に入らなくても協力してくれると思うが、出来る事なら信頼関係を築きたい。
「貴方様……つまりは、アラン様は、一体どうされたいのでしょうか」
オレの目的は、先程皆の前でも話した。
しかし、それは演説という形であり改めて問い質したいのだろう。
「さっきも言ったが、この身体を本人に返したい。それを本人が望もうが、望むまいがな」
望む望まないに関しては、オレなりに導き出した推論だ。
アルフレドが人生を楽しんで居たのかを知る術は今の所ない。だが、使用人達の反応を見る限り順風満帆な人生を歩んでいたとは考えにくい。
食う物と住む場所に困っていないのは恵まれている環境とも呼べるだろう。だが、それは幸福には直結しない。
王には王の、貴族には貴族の、民には民の尺度がある。
「その後、貴方様はどうなさるおつもりで?」
「恐らくだが、返した後は消えるんじゃないか? オレと言う存在が」
仮に、この身体をアルフレドに返せたとしてその後オレの魂がどうなるのかは正直分からない。
オレの身体は闇竜のブレスによって消滅した筈だし、元の身体に戻れると言うのは考え辛い。
アルフレドの魂とこの身体を共有し合うのも勘弁願いたい。他人の人生をのぞき見する様な趣味は無い。
「────! ……アラン様は、それでよろしいのですか……?」
驚愕と困惑、か。
そう思うのも無理はないだろう。なにせオレが言っている事は自殺すると言っているのと同じ事だ。
このままアルフレドに身体を返さなければ、オレは第二の人生を歩む事が出来る。それも、貴族の嫡男として。
「オレはもう既に死んだ身だ。それに未練もない」
無論、そんなつもりは毛頭ない。
あの日、あの場所に戻り国を救えるのなら、オレは喜んでそうするだろう。
だが、守るべきモノも守れずオレだけが救われた世界で生きる意味はない。
……失くしたモノが多すぎる。叶うのであればあの日、あの場所でオレも一緒に死にたかった。
「オレに帰るべき場所は無い。オレを待つ者もな。借り物の身体で自死するのも憚れる。返せる物なら、さっさと返したいのが本心だよ」
「しかし、もしかしたら生き延びている者も……」
それは”有り得ない”何故ならば、この執事はアルソニア王国を”知らない”。
ギャレットは明言こそして居ないが、アルソニア王国は四つの公を持つ大陸随一の大国だ。
今居る場所が辺境の可能性も大いにあるが、ここまで文化水準が高い国の貴族の執事が知らないのは違和感があり過ぎる。
「一つ聞きたいんだが、最後に闇竜が現れたのは……いつだ?」
薄々と感じては居たのだが、この問いに返ってくる答えでそれはハッキリとするだろう。
「数百年前に……猛威を振るい、国が割れたという伝承は伝わっておりますが……」
……正直な所、聞くのが少し怖くもあった。
だが、これで一つハッキリとした。過去なのか未来なのかは知らんが……今居る時代はオレが生きて居た時代とは異なる。
闇竜……闇のマナの化身にして、世界を脅かす天災。闇竜が現れた前後では、闇のマナが強まる影響で妖魔が大量に湧く。
そのせいで、闇竜に直接襲われていない場所にも大きな被害が出る……。
その割に、この屋敷に居る使用人達には一切の悲壮感が無かった。
ターニャもそうだ、闇竜が顕現して居たならばいくら主人が気に入らないと言っても仕事を辞める訳がない。
非常に優れた軍を有しており、妖魔の被害から国土を完璧に守り切り民の生活になんら支障が出ていない……?
”そんな大国を、オレが知らない訳がない”
辺境の小国ならいざ知れず、腐っても騎士。他国の情勢もある程度は把握している。
こんなご立派な屋敷を有する貴族を養える国なんて、オレの時代にはアルソニア王国くらいしか存在しない。
この時代に置いて、アルソニア王国は存在しないと考えるのが自然だろう。
虚しすぎて泣けてくる。
「まぁ、オレの話は置いといて、だ。もう少し前衛的な話をしよう」
「……と、おっしゃいますと?」
「大陸の地図だとか、歴史書等があればオレの確かめたい事はある程度判明するんだが、それはただの確認作業に過ぎない。それよりも、今オレが置かれている立場を鮮明にしておきたい。この国の法や、この国におけるクランクライン家の立場、クランクライン家の内情と、その中でのアルフレドの立場……後はアルフレド自身の性格とかその他諸々だな」
知らない事が多すぎる。
貴族の立場であるならば多少のヘマはお目こぼしして貰えるだろうが、知っていればそもそもヘマなんてしないで済む事だ。さっきのターニャの時みたいに。
「国内の情勢については、私もあまり詳しい事は申し上げられません。法に関してであれば、書斎に関連する書物がありますので、必要でしたらご案内いたします」
書斎もあるのか! いや、そりゃあるか。
本を読むのはあまり好きではないが、大分手間が省けるな。ありがたい。
「クランクライン家はナハル公国に置いて有数の貴族家でございます。特に、アルフレド様の姉君で在らせられるオスクリタ・クランクライン様の信望は厚く、ナハルシュタッド公爵も一目置いて居られるそうで、我ら一同誇りを持ってお仕えさせて頂いております」
但しアルフレドは除く。みたいな
ナハルシュタッドは、確かナハル公国の大公だったか。
んで、姉の名前はオスクリタ……と。
「爵位はないのか?」
ナハルシュタッドを公爵と呼ぶように、貴族にはそれに準ずる爵位があった筈。
だが、聞いてる限りではクランクラインは”家”でしかなく、爵位が不鮮明だ。
侯爵であればクランクライン侯爵家になる筈だし、伯爵なら伯爵家になる。
「爵位……ですか。私も昔話としてしか聞き及んではおりませんが、かつて大陸を揺るがす戦乱があり、その戦乱が終わる際に廃止されたと」
爵位を巡る戦乱? いや、爵位が戦乱の火種になったのか? 屋敷を取りまとめる執事長であれば、歴史についてもある程度の教育がなされている筈だし、そのギャレットにも口伝でしか伝わっていないとすれば、正しい歴史は失われてしまっているんだろう。
まぁ、爵位が消えた理由なんざどうでもいいんだが。
「かつてこの地には偉大な王がおられ、その王が御された後に国が割れたと言われております。割れた国を治めたのが公であり、公はその偉大なる王に遠く及ばぬ戒めとして王を自称致しません。故に、この大陸に存在する国は全て公国であり治める者は大公と呼ばれております」
偉大なる王、素敵やん。我が王とどちらが偉大かな! ふっふっふ……
…………すげー嫌な予感がしたが、気付かない振りをしよう。いや、一応聞いて置くか。
「その偉大なる王と言うのは、一体誰を指しているんだ?」
「王は、王としか。王が御され国は荒れました。偉大なる王が築き上げた国を、いとも容易く瓦解させてしまった。当時の者達はそれを恥じたのでしょう。名を残すことも、憚れる程に」
……なるほどな、王に顔向け出来ない歴史的な背景がこの大陸にはあると。
外で王様王様言ってたら反感を買いそうだな、知れて良かった。
しかし、ほんの少しではあるが……その偉大なる王が、アルソニア王国の王なのではないかと思ってしまった。よくよく考えればアルソニア王国は王と共に国も滅んでいる。そんな筈は無かったか。
王の事を考えると気持ちが沈む……やっぱり聞かない方が良かった…………。
「……良く分かった、助かる。しかし、複数の貴族が軒を連ねるのであれば爵位が無いのは少し不便ではないのか?」
爵位とは簡単に言えば物差しだ。
公・侯・伯・子・男の順に位が高く力も大きい。
それぞれの家が持つ功績や影響力、戦力、資産等々、一々目に見える形にして比べるのは手間が掛かり過ぎる。
だから国は爵位を与えて、その爵位である程度のランク付けがされる。
代が変わっても、家が持つ力には左程影響がない。繁栄も衰退も緩やかに進むのが普通なのだから。
「多少の不便はあると、そう聞き及んではおりますが……そう言った話はあまり」
勿論、無い事の利点もある。
馬鹿が爵位を継いだら国が荒れるが、かつての功績を重んじて簡単には処罰出来なくなったりもするらしい。
アルソニア王国? 国民皆国王大好き主義だから、そんな事は起こりません。少なくとも、オレが知っている限りでは。
「それに、力ある貴族家には代々竜が仕えておりますので、それが一つの指標となっておるのでしょう」
………………………………は?
………………………………は?
聞き捨てならない言葉が聞こえたんだが? は?
竜が……仕える? え?
「竜……が?」
「えぇ、我がクランクライン家にも代々黒竜が仕えていらっしゃいます。姉君で在らせられるオスクリタ様は歴代の中でも特に黒竜の寵愛を賜っておられます故、他国に置いてもその名を知らぬ者は居ないとまで言われております」
こくりゅうって、なに?
思考が停止し、頭の中が真っ白になる。
竜が加護を与える、これは分かる。アルソニア王国の初代女王、アルソニア・ソーリス・ルクス女王陛下が光竜の加護を賜ったのが国の興りなのだから
代々仕える、これが分からない。竜の加護は一代限りで、子孫には受け継がれない。
ただ、その血が竜に祝福された血として、その子孫は飛竜に好かれやすくなる。
そして黒竜……何だお前! 竜は火竜、水竜、風竜、土竜、闇竜、光竜の六種類じゃ! 飛竜入れて七種類じゃ!
竜はマナの化身で、精霊ですよ精霊。伝説になるほど人前には姿を現さないの! 長い歴史を誇るアルソニア王国ですら、加護を得たのはアルソニア・ソーリス・ルクス女王陛下ただ一人だぞこの野郎!
まっ! オレは火竜と水竜に会った事があるけどね! 一度でも一緒に戦ったんだからもはや戦友と呼んでも差し支えあるまい! 闇竜は強敵と書いて強敵と呼べる関係───…………ではないな、調子に乗った。
「……どうか、されましたか?」
あまりの衝撃に茫然自失としてしまい、ギャレットに心配される。
……つーかこれ、オレの識ってる世界だよな? 言葉は通じてるし…………。
「いや……すまない。受け入れがたい話に少し衝撃を受けた」
「ふむ……でしたら、一度中断致しますか?」
正直言うと、かなり混乱している。願ってもない申し出だが、そう言う訳にはいかない。
世界の在り様の変化は、それはそれは重大な事柄の様な気がしてならないが、目下知って置かなければならない知識ではない。
どうにかして、それを頭の片隅に追いやる。
「ありがたい申し出だが、遠慮したい。肝心のアルフレド本人の話題がまだだしな」
「左様でございますか。しかし、そろそろ日も昇り切りました。申し訳ありませんが、流石に空腹も気になる所存でありますので、ここは一つ私の為に中断して頂ければと存じます」
もう、そんな時間になっていたのか。
腹の虫は朝からずーっと鳴り止まないので気が付かなかった。
ギャレットの空腹も本当の事なのだろうが、恐らく気を使ってくれたのだろう。
ともすれば、断る方が無礼か。
「それは気が利かず、申し訳ない事をした。ならば昼食にしよう」
その意を汲み、申し出を受ける。
準備の為に席を立とうとするギャレットだったが、それを手の動作で抑えた。
そういえば、一番肝心な事を聞き忘れていた。
「どうして、オレの話を信じようと?」
虚言癖のあるアルフレドは、度々似たような事をしでかしていた疑いがある。
そのお陰で、ただでさえ理解して貰えない話が更に拗れてしまった。
だが、何かを境にギャレットの中でその話は信憑性を帯びた。その理由が知りたい。
「…………アルフレド様は、竜の話題を嫌います。それが飛竜の話であれば尚の事。貴方の口から飛竜の話が出た時に、それは実感として私の中の疑惑を確信へ変えました。あぁ……目の前に居る方は、本当にアルフレド坊ちゃんでは無くなってしまったのだと……」
「それ程までにか?」
「…………はい」
何かを原因として、アルフレドは心的外傷を負った。
その理由は後でみっちり聞くとして、オレがそれをあっけからんと踏み越えたから信じるに至った、と。
アルフレド君さ、抱えてる闇が多すぎないか? おじさんには荷が重いよ。
「今、こうしてお話をさせて頂いた事で、確信はより強固な物へとなりました。今朝は、大変な失礼を致しました。ご無礼をお許しください」
そう言って、深々と頭を下げる。
最初から信じろと言われて信じられる話では無かったし、遅かれ早かれ気付くだろうとは思っていたので失礼だったとは思っていない。
むしろオレの方が色々と問題を起こしている。
使用人の一人を恫喝し、風呂ではのぼせて倒れ、朝から使用人を集めて業務を滞らせた。
あれ? 朝に目覚めてまだ昼だぞ? 短期間にやらかし過ぎだろ……。
「こちらこそ、朝からその……色々とお騒がせして申し訳ない。ギャレット殿には気苦労をお掛けしたが、これからも掛ける事になるだろう。アルフレドの件、どうか協力をお願いする」
オレも、深々と頭を下げる。
ギャレットの心の内はハッキリとは読めないが、悪感情は持たれていないと願いたい。
「そう言っていただけるのが、何よりの救いでございます」
ギャレットは間違いなくアルフレドを敬愛している。
今の所アルフレドの良い話は微塵も聞かないが、昼食後のやり取りでそれも分かるだろう。
ギャレットにとっての救いとは、オレがアルフレドになり替わろうとしているのでは無く、返す方向に考えている事だ。
皆目見当も付いていない事柄ではあるが、方法が見つかる事を切に願う。
「これから、よろしく頼む」
お互いの状況を正しく認識した事で、改めて挨拶を交わす。
握手の為に差し出した手を、ギャレットは両手で包み込んだ。
「こちらこそ、どうかよろしくお願いいたします…………」
食堂を出ようとするギャレットに、昼食は大盛りで頼むとお願いしたら、なんか知らんけど含み笑いをされた。
了承は得られたので、気にしない事にした。だって腹いっぱい食いたいし。
オレが食う事で、アルフレドの身体は成長する。それは即ち、クランクライン家の繁栄に繋がると言う訳だ。なんの問題もないな!
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昼食を終えた後も夕食の時間までギャレットと話し込んだ。
途中、ギャレットが抱えている家令としての仕事が気になったりもしたが、一日潰れた程度では、特に支障はないそうだ。
夕食を終え、今は自室に戻って今日起きた事を振り返っていた。
昼食も夕食も、霞の如き朝食に比べると大変満足のいく出来と量だった。
胃の大きさどころか、身体そのものが違うので流石に生前と同じ量を食べた訳ではないが、満腹感を得られる食事はやはりいい物だ。
副次的産物として、その食事量を見た使用人達も今朝聞いた世迷言がいつもの狂言ではないと思い始めたと言っていた。
性格が変わった振りをしても、食事量は誤魔化せないしな。
ギャレットからも話は通されていた様だが、ギャレットがアルフレドに甘いのは周知の事実なので、無理を言われて付き合わされてるのではないか? と信じるに信じられなかったそうだ。
アルフレドってほんと罪深い。
肝心のアルフレドの事だが、多くの事が知れた。
この国でも先陣に立つのが貴族の責務らしく、飛竜を駆る精鋭はその中でも花形と呼べる。
やはり飛竜は素晴らしい……と、いかん考えが逸れる。
アルフレドは意外にもその傾向が顕著だったそうで、幼い頃から竜騎士になるのが夢だったそうだ。
アルフレド君の唯一の利点である。
小さい頃から英雄ごっこに余念が無かったアルフレドはそれはそれは大層愛されていたそうだが、大きくなっても英雄ごっこに付き合わされるのは変わらなかったので、そこで評判を落としていた。
ただ、持ち前の明るさと憎めない性格が幸いし、左程嫌悪感を抱かれてはいなかったが、
学院……つまりは、軍のエリート養成施設の様な物に通う事になってからは一変したらしい。
黒竜を有するクランクライン家は勿論の事、竜の加護を得ている貴族は竜騎士になる事を義務付けられている。
義務なので、そうしなければならないと言う訳ではないのだが、周囲の貴族からはそういう目で見られる。
竜を有する名家がまさか落ちこぼれる訳ないよな?と
加えて、自身の姉であるオスクリタは歴代の中でも特に黒竜と相性が良かったらしく、アルフレドに寄せられる期待もそれに比例して大きくなっていった。
周囲からの期待、名家の誇り、憧れ続けた夢への一歩。
胸一杯の自信と、期待と、羨望を抱えて乗り込んだ学院生活であったが、最初は順調に行っていたらしい。
同世代の貴族とも交流を深め、教師陣が称賛する姉の話に胸を躍らせ、今か今かと待ち焦がれた飛竜との対面。
そんなアルフレドが、初めて飛竜を目の当たりにした瞬間。
飛竜は、アルフレドの事を猛烈に避けた……らしい。
すんなりと受け入れて貰える者、馴染むのに時間が掛かる者、残念な事に認められなった者。
飛竜の選別には、様々な結果を伴う。
最初は威嚇され警戒された者でも、時間を掛けてゆっくりと信頼を築いていけばいずれは飛竜に認めて貰えるケースもある。
貴族の血を持たなかったオレでさえ、飛竜は受け入れてくれた。……一年以上掛かったが。
アルフレドはそれすらも許されなかった。
飛竜は気高い精霊だ。気に入らない相手が近づけば威嚇して追い散らす。自分からは決して退かない。
アルフレドが近づくと、飛竜は瞬時に距離を取った。しまいには竜舎に居る飛竜が全頭拘束器具を粉砕して空へと逃げた。
尋常じゃない逃げっぷりである。
ただ、アルフレドは諦めなかった。
何度も、何度も近づこうと努力した。竜舎への接近が禁止されるまで、それは続いた。
周囲の期待は侮蔑に変わり、抱いていた誇りは重たい枷になり、希望は絶望に染まった。
自分を形容していたモノが全て裏返り、アルフレドは壊れた。
塞ぎ込み、姉には憎悪を抱き、使用人に当たり散らす。
時折、狂った様に明るくなって、周囲を巻き込んでごっこ遊びに興じる。
アルフレドが”そう”なってから、今日に至るまでの期間は半年程だ。
屋敷の使用人はそれまでの間、毎日毎日毎日毎日……延々とそれに付き合わされていた。
「……どうにもならんな、これは」
頭を掻きながら、一人ごちる。
オレの目の前には、かつてのアルフレドが書いたであろう日記が置かれていた。
希望に満ちていたで前半のページは全て引き裂かれ、残されているページには姉、自分、世界の全てに向けた呪詛がびっしりと書き綴られていた。
いっそ死んでやるのが、アルフレドが最も望む結末に思えてならなかった。
確実に、この場に戻る事は望んでいないだろう。
記憶の継承がなされるのかも疑問だ。
このままアルフレドの身体で生活を続けたとして、アイツに身体を返せる方法が見つかったとしても、この身体がオレだった間の経験や記憶は果たして引き継がれるのだろうか。
仮にもしそれが出来たとしても、そうやって得た借り物の経験に意味はあるのだろうか。
かつてのオレの様に、竜騎士に憧れを抱いていたという共感から何とかしてやりたいとは思わないでもない。
そんな事があっても失望せず、慈愛をもって接していたギャレットに報われて欲しいとも思う。
「考えても、始まらんか」
アルフレドに身体を返すと、ギャレットにも約束しちゃったしな。
返した後でアルフレド本人がどうするのか、それはオレが決める事じゃない。
ただ、やれるだけの事はやって置いてやるさ。
次から次に湧く問題に頭を抱えつつ、最初の一日は幕を閉じた。