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…………一体、どれほどの時間そうしていたのだろうか。
窓に映る他人の、そして間違いなく自分の姿を見て、受け入れられない現実から目を反らす。
呆然としていたせいか、いつの間にか傍に立っていた初老の男に声を掛けた。
「…………オレは、誰だ?」
「ふむ……」
初老の男は、上品に整えられた髭を撫でながら簡潔に答えてくれた。
「僭越ながら、アルフレド坊ちゃんにしか見えませんが」
「違う!」
知らない名前が耳に入り反射的に拒絶する。
「オレはアランだ! アラン・マークス! 王国の騎士の…………アランだ……」
「ふむ……」
消えてしまいそうなオレの声を、否定する訳でもなく初老の男は髭を撫で続けていた。
「目が覚めて、まだ意識が朦朧としておられるのでしょう」
「……っ! そうだ、オレは夢を……見ているのか?」
やはりオレはあの時に死んでいて、今こうして見聞きしている世界は……夢の中……なのか?
縁も所縁もない場所の、どこの誰かも知らない男になる夢……?
「………………。」
顎に手を当て考え込む。
今、目に見える景色に思い当たる節がないか、記憶を探る……。
「……ここは、何処だ」
「貴方様の家にございます……と言う答えがお望みではなさそうですな。ここは、クランクライン家の本宅でございます。そして、貴方様はクランクライン家嫡男、アルフレド・クランクライン様でございます」
王国に名を連ねる貴族の名は頭の中に入っている。
クランクラインと言う名に聞き覚えはなかった。
「この国の名を……教えて頂きたい」
ご老人……服装から見るに、この家の執事であろう初老の男にそう尋ねる。
恐らくは、この執事にとってもあの使用人が感じたようにちぐはぐな質問をしているのだと思う。
それでもこちらの質問の意図を読み取って、知りたい情報を与えてくれる執事と話す事で対話における最低限の礼儀は取り繕う事が出来るまでには頭が冷えていた。
「ナハル公国と申します。国名はナハルシュタッド公爵家から取った物で、治世で言いますと……今は二世でございますな」
……ナハルシュタッド公爵家にも、ナハル公国と言う名にも聞き覚えはなかった。
考えられるとすれば、別大陸の他国まで飛ばされてしまったという事か。
しかしそれでは、この身に起きた変化に説明がつかない。
「……私の祖国は、アルソニア王国といいます。聞き覚えは……ありますか?」
「…………ふむ」
執事はまた、髭を撫でていた。
考え込む時にとってしまう癖なのだろう。そしてその癖を出すと言う事は、少なくともオレの言葉を真摯に受け止めてくれているように感じ、嬉しかった。
「ともあれ、湯浴みへ向かう途中でしたな。どうでしょうか? ここは一つ、身体を清めた後で朝食を取りながら話をするというのは」
「しかし……」
「こうして長々と立ち話をするのも老体には堪えます故。また、アルフレド……アラン様が朝食を終えぬ限り、他の使用人も朝食を取る事が出来ませぬので」
「……それは、申し訳ない」
執事に言われ、自分が何をしに部屋を出たのかを思い出した。
それに理由は分からないが、今のオレはアルフレド・クランクラインなる人物になっていて、そのクランクライン家の嫡男が食事を終えない限りは使用人は飯も食えないらしい……。
貴族のしきたりに疎いとはいえ、迷惑を掛けている事は嫌でも理解出来た。
「そうですね、おっしゃる通りです。申し訳ありませんが、浴室まで案内して頂けますか? 何分……土地勘がない物で」
「……えぇ、勿論ですとも」
そう言うと執事は胸のポケットから小さなベルを取り出し、チリンチリンと二回鳴らした。
すると、通路の角からタオルと仕立ての良い服を携えた先程の使用人とは別の使用人が姿を見せた。
「こちらです、どうぞ」
使用人は優雅な足取りでオレの目の前まで来ると軽く会釈をし、そのまま踵を返して歩き始めた。
執事は先程の使用人が落としてそのままになっていたタオルと服を拾い上げると、オレに会釈をして別の方向へ歩き始める。
「あの、手間でしょうしその落ちていたタオルと服で構いませんよ」
そんなオレの気を遣っているのかどうかも分からないような申し出に、「それでは私共が困ります故」と苦笑いを浮かべながら答え、再度会釈をして去っていった。
浴室までの道のりで、前を歩く使用人に話しかける事はしなかった。
幾らか情報を得て頭が冷えているとはいえ、同じような失態を繰り返す訳にもいかなかったし
なりより、使用人の背後からは微かな緊張感が見え、話しかけるのが憚られたからだ。
流石に、平然と浴室に入ろうとして来た時には丁重にお断りしたが。
不要である旨を伝えると
「かしこまりました」
と、すんなり引き下がってくれたのが幸いだ。
そういう文化なのかもしれないが、この歳になって身体を他人に洗って貰うのは受け入れがたい。
「ふぅ…………」
身体を清め、浴槽に身を沈める。
風呂に浸かるという行為は初めての事ではなかった。
遠征の任務が終わり王都へ帰還した時には、王の計らいで王家の浴場を開放してくださっていたし、湯治が盛んな地方へ両親を連れて行った事もある。
肩まで湯に浸かり、自分の記憶へと思いを寄せた。
まるで、自分がまだ自分であると縋りつくように────────
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意識を現実へと引き戻す。
思い描いたのは若い頃の苦い思い出であったが、今でも鮮明に覚えている。
間違いなくオレはオレだ。
まやかしでここまで鮮明に過去を振り返れる訳がない。
同時に、疑問が一つ頭に浮かんでいた。
オレがオレだとするならば、この身体の本来の持ち主はどうなっているのだ。と
正確な年齢は分からないが、青年と呼べるまでには成長している。
あの日、あの場所で死ぬ筈だったオレの魂が、なんらかの理由でこの身体に乗り移っているのだとしたら……。
この青年の魂は……”何処にある”。
考えた所で、答えが見つかる筈もない。
だが、考えずにはいられなかった。
オレは、自分が歩んできた人生に悔いはない。
口惜しい最期ではあったが同時に恵まれた最期でもあった。
少なくとも、誰かの身体を奪ってまでやり残した未練等はない。
……駄目だ、考えがまとまらない。
「あの使用人の子にも、キチンと謝罪をしないといけないな」
この屋敷で働く者にとっては、オレは主人のような立ち位置にある。
酷い誤解ではあるが……その主人が急に世迷言を喋りだし、あまつさえ突如として怒り狂ったのだ。精神的な負荷は相当の物であろう。
少女の不安に胸を痛めつつ、湯船から上がる。
すると、こちらを凝視していた使用人(此処まで案内してくれた人)と目が合った。
「………………。」
「……申し訳ございません……普段より長湯でしたので……不安になり、呼び掛けはしたのですが…………」
裸を見られたからと言って、悲鳴を上げるような真似はしないが、予期せぬ出来事に顔が紅潮していくのを感じる。
いや……これは……恥ずかしいからではないな…………。
「本当に、失礼を……────」
のぼせ…………た。
「アルフレド様!? アルフレド様! 誰か! 誰かいませんか!?」
使用人の悲鳴のような叫びが段々と小さくなるのを感じながら、オレは意識を失った。