2.ハムカツサンドの夢
わたしはその日、初めて授業をサボった。
そして浅間君に連れられて駅裏の古い喫茶店の前に立っていた。
「ボロいだろ」
「う、うん」
お世辞にもお洒落で近代的とは言えない。
小さな木製の立て看板が店の前にあって『ロビン』と店名が書かれていた。
「でも、美味いからさ」
気軽な調子でそう言って扉を開ける。
カラン、といい音がした。
中には初老の紳士、そう、紳士というのが相応しい上品さをたたえた人が身なりの良い格好でカウンターの奥に立っているのが見えた。紳士は浅間君を見て動きを止める。
「航、学校はどうしたんだ」
「うん、友達連れてきた」
紳士は呆れた顔をしていたけれど、浅間君の背後にいるわたしを見ておや、という表情をした。優しい声で「いらっしゃい」と言ってくれる。
「なんだよじいちゃん態度変えて」
浅間君が不満げにふん、と鼻息をもらす。
「これ、俺のじいちゃん」
小さい声で言って浅間君がさっさと窓際のテーブルの席に座った。「白瀬も座って」と言われて向かいに座る。
店内をきょろきょろと見回す。
表から見た時はなんだかボロいなぁと思わなくもなかったけれど、店内はアンティークなテーブルと椅子が揃えられていて、どれもきちんと磨かれている。
窓際やカウンターの奥にはレトロな置物や、名前を知らない植物や絵画がうるさくない程度に飾られていたりする。奥に小さな本棚もあって、そこには海外の有名文学が綺麗に並んでいた。
少し薄暗いけれど、空調が行き届いていて、磨かれた窓からの光が柔らかい。
お洒落過ぎないけれど、決して野暮ったくはない。大人向けって感じがした。
コーヒーの良い匂いが充満するそこは落ち着いていて、異国のように感じられた。
「いい店でしょ」
「うん!」
「気に入って頂けたならよかった」
浅間君のおじいさんがそう言ってお水を置いてくれた。
「調子いいの。いっつも鬼の形相で追い返すくせによ」
「お前のことだからいつもの騒がしい奴らかと思ってね。あんなの連れてこられたら営業妨害もいいとこだ」
「まぁいいや。じいちゃん、ハムカツサンド作ってよ。なるべく薄味で。あと、カラシは入れないで」
「ハムカツサンド?」
「そこの白瀬が生まれてから一度も食べたことないんだ。記念すべき最初のハムカツサンドだから、そこんとこよろしく」
浅間君の祖父であるマスターはわたしを見た。どうしたらいいのかわからず頭を小さく下げる。マスターは上品に微笑んでテーブルを離れた。
そしてわたしはメニューをじっと見て、変な汗が出そうだった。
「あ、浅間君……め、メニューに……ハムカツサンドなんてないんだけど……」
「あぁ、うん。気にしなくていい」
「い、いくらお支払いすれば……」
「そんなのもいいって。友達んちで飯食べて料金支払う?」
「……そんなこと……なかったから」
「……あぁ、そっか。でも、そういうことだから」
それからちょっとの間沈黙がおりた。浅間君は黙って窓の外を見ていた。
「浅間君は……わたしのお母さん、酷いと思う?」
浅間君は窓の外からこちらへ顔を戻してわたしの顔をじいっと見た。
「……思わない」
「どうして?」
「うん……白瀬の親は白瀬の親で、白瀬のことを思ってやってることだろうし……そこら辺はよく知らないから、わからない」
「……うん」
「まぁちょっと極端だなとは思うけど……白瀬はどう思ってるの?」
「……うん」
返事をしようと思ったけれど、言葉にならなかった。喉が詰まったようで、なかなか声が出ない。あの日、わたしのお弁当と門限の話になった時、浅間君と真奈ちゃんは言わなかった。「酷い」「最悪」と。
わたしはお母さんのやり方がちょっと極端だということは、もう気付いている。ところどころではあるけれど、行き過ぎな部分もあると。
だけど自分の家を異常だと言われるのはやっぱり落ち込むし、自分のお母さんのことを他人に「酷い」とか「最悪」とか言われるのも傷付く。
わがままで、面倒くさい感情だとわかっている。本当は遊びにいきたいし、いろんなものを食べてみたい。みんなと一緒になって「酷い」と言って突き放せたら、楽だろうとも。でも、それはなんだか、簡単にはできない。優しいところだってたくさんあるし、やっぱり好きだから。
「わたしの……お母さんの家は結構放任だったんだって。ご飯の時間とかも、ほとんどなくて、みんな適当にすます、みたいな」
「うん」
「それで……お母さんのお姉さん、わたしにとっての伯母さんが、ちょっと……その、良くない方向に行っちゃって……」
その先を言うのにまた声がつまる。
「その……た、逮捕されたりしてて……お母さんは伯母さんのことを物凄く嫌っていて……だからわたしを厳しく躾けたかったのかなって……想像なんだけど……」
浅間君はやっぱり黙って聞いていた。
「中村は知ってるの?」
「うん。真奈ちゃんは全部知ってる」
「……でも、それで白瀬の友達付き合いに制限が出るようなら、少し話してみてもいいんじゃないかな」
「……うん」
その時マスターが来てわたしの前にお皿を置いた。メニューにはなかったのに、もうずっと前からそんなセットがあったみたいに綺麗に盛り付けられていた。
こんがりしたきつね色のカツが柔らかそうなパンから覗いている。それから脇には丸く盛られたポテトサラダとトマトも。商売だからそんなの簡単にできるのかもしれないけれど、わたしのためにそうやって出してくれたのがすごく嬉しかった。
「美味しそう……」
本当に美味しそうだった。でも、本当に食べていいんだろうか。なんとなく顔を上げて浅間君の顔を見た。
「食べなよ。たかがハムカツだし、一流の料理人でもないけど、できたては絶対美味いよ」
「いただきます」
パンを手に取ってひとくち齧る。
あ、なんだろ。ぼんやり想像していた味と違う気がするけれど、じゃあどんな想像してたのかって思うと、もう全然思い出せないまま、今感じてる味に上書きされていく。
「美味しい……」
初めて食べたハムカツサンドはさくさくで、噛むと肉の味がじわっとひろがる。パンと混じり合って甘く溶ける。ソースはべっちゃりじゃなくて控えめで、作った人を表しているように上品で優しい味だった。
「美味しい……美味しい……」
夢中で食べた。目の前の食べ物に集中して、味わう。そんなの、久しぶりな気がした。綺麗に食べようとか、そんなのも頭から抜けて、指に少しだけついたソースをぺろりと舐めて、動物みたいにがつがつ食べた。
食べてるうちにいろんな想いが胸に広がって、涙が出てきた。
真奈ちゃんのこと。お母さんのこと。目の前の浅間君のこと。上手くやれない自分のこと。
悲しいのか、嬉しいのか、一体何に対して泣いているのか、それすらわからないまま、涙をボロボロこぼしながら、わたしは目の前のハムカツサンドを食べ続けた。
朝は予想もしていなかったけれど、今わたしはここにいて、作りたてのハムカツサンドを、生まれて初めて食べている。
口の中いっぱいのまま顔を上げて、目の前にいた浅間君と目が合った。
浅間君の髪が窓から射し込む午後の日差しで茶色く透けている。頬のあたりに当てられたちょっとゴツゴツした手。それから前髪の下の瞳。そんなものを見て、唐突に気付いてしまった。
あ、わたしは、この人のこと好きだって。
口の中いっぱいにいろんな気持ちを含んだまま、わたしは突然恋に落ちた。
初めて食べたハムカツサンドのせいなのか、いつも食べていた味まで急に細かく意識してしまうかのように、わたしはなぜだか初めてちゃんと彼の顔を見たような気持ちになった。
好きだ。好き、好き。
生まれたばかりの気持ちが喉元まで上がってくる。わたしはそれを口の中にあるハムカツと一緒にごくりと飲み込んだ。
食べ終わって、お皿の隣に置かれたオレンジジュースを飲み干した時にはなぜ泣いていたのかも思い出せなくて、まるで夢をみていたみたいだった。ハムカツサンドの夢。でも、お皿には夢の残骸がまだ残っている。目の前には浅間君もいる。店に入った時とはもう違って見える顔で。
「ごちそうさまでした」
今日食べたハムカツサンドのことを、わたしはいろんな意味で一生忘れないと思う。