12.学食
文化祭直前、わたしの生活はバタバタしていた。
お父さんがお母さんに話をしようとした矢先、お母さんが、体調不良で入院した。
これから細かく検査をするようだけれど、お母さんは食事の量が減っていたし、あまり寝ていないように見えたので、どこが悪いというよりは、全体的に弱っている感じだろうとお父さんは言っていた。
気分転換と言うとなんだけれど、一週間ほど入院して、きちんと食べて、休むことになった。お母さんは午前中はパートをしていたし、フラフラでもきちんと家事だけはやっていた。完璧主義というか、なかなか手を抜けない性格なので、なおさら。
そこにちょうど週末の文化祭がぶつかって、わたしは学校ではその準備に追われ、家では慣れない家事をお父さんと分担して、なんとかやっていた。
別にお母さんを裏切るつもりがなくても、お父さんの作る夕食は帰宅時間の関係で冷凍食品とかも混ざるので、だいぶだらしない生活になった。
こうなってみるとわかる。厳しくする方にも相当な手間があったということ。それが正しいか正しくないかは別問題で、わたしのためを思ってそれをやってくれていたこと。
当たり前に用意されてたご飯。掃除の行き届いた部屋。綺麗に畳まれた洗濯物。
でもそんなひとつひとつをお父さんとワタワタしながらやるのは、辛いことではなかった。
お母さんはもともと自分以外の人がやる家事に納得がいかないタイプで、お父さんがやったお皿洗いに文句を言ったりする。
だからわたしもお父さんも、これまでそれを言い訳にあまりお手伝いをしてこなかった。
けれど、これからは、ちょっと文句を言われてもお手伝いをしてみようと思う。
わたしは最近外で遊ぶことに夢中で、家から逃げることの方に意識が向いていた気がする。だから、お母さんが体調を崩す前にもうちょっと色々できなかったか、お父さんと反省会をした。
入院自体は良くはないけれど、このことがあって、お父さんはお母さんと久しぶりにいろんなことをじっくり話したみたいだったし、日常に変化のきざしがあって、それは悪い方向には行っていない気がした。
*
「和歌子、行くよ!」
「うん」
勇ましい掛け声と共に真奈ちゃんが一歩を踏み出す。
「入るの? 本当に入るの?」
「さっさと行くよ。入口で止まってると迷惑」
「あ、真奈ちゃん入った! 世慣れた足取りで券売機の方角へ……!」
「解説はいいからさっさと来なさい」
真奈ちゃんにぐいと手首を引っ張られて中へと入る。
「こ、ここが……学食……! いわゆる学生食堂」
きょろきょろと辺りを見まわす。ざわめきの中、多くの生徒達が慣れた感じにトレイを持ってうどんや定食などを運んでいた。
「和歌子はなんにする?」
「実はもう決めてて……」
「えー、なに?」
聞かれた時にちょうど順番がきたので、へらりと笑ってボタンをぽちと押す。
『醤油ラーメン』と書かれた札がぱらりと落ちた。
真奈ちゃんが覗き込んで「ははん」と鼻息を漏らした。
「浅間に話した?」
「え、なにを?」
「今日ラーメン食べるって」
「……そんなのしないよ」
「メールしてみなよ」
「なんで……そんなことを」
というかわたしは実のところ浅間君にメールを、結局したことがない。直接言えばすむことを、日常のどの場面でメールを使えばいいのかわからなかった。そして浅間君からも、なかった。
「いいからしなって。大丈夫だから。絶対あいつ来るよ」
真奈ちゃんに言われて、困惑しながらも、メールしてみた。
『今から学食でラーメン食べます』
わたしの、好きな人への初メール。
本当にこれでいいのだろうか……。
ウキウキでラーメンを受け取ってテーブルについた時、入口に浅間君が現れた。
本当に来た……。
これから浅間君に会いたい時は『ラーメン食べる』って言えば来てくれるんだろうか……。
浅間君は焼きそばパン片手にわたしの正面の席に座った。
「ど、どうしたの?」
「白瀬がメールくれたから」
したけど。それで、どうして……。
隣を見たけど真奈ちゃんは知らん顔でカレーを食べ始めている。
「食べなよ。冷めちゃうよ」
「あ、うん」
ラーメン。うちでは大抵お蕎麦かうどんなので、滅多に遭遇しない食べ物。学食で食べることに決まってからこれにしようと思っていた。実は前からショーケースのメニューを穴が空くほど見ていたのだ。ラーメンは見た目が可愛いと思っていた。本物が今、ここにある。
上に乗っているものを眺める。見本の通りだ。これが、メンマ。これがナルト。そしてこれがチャーシュー。部分別に名称を確認。匂いを確認。そして再度、眺める。
琥珀色のスープの上に整然と鎮座するそれらを見てわたしは静かに感動を覚えた。ラーメン。すごく可愛い。食べるのもったいないくらい可愛い。
でも、もちろん食べる。
「いただだきます!」
「だ、が一回多いっちゅーの」
真奈ちゃんの冷静な突っ込みもスルーして、まずはれんげでスープを掬って飲んでみる。
「どう?」
浅間君が身を乗り出して聞いてくる。
「おぉう……」
しかし、まともな日本語は紡げなかった。
麺を箸で少量持ち上げる。
そして、スープが絡んだ麺を、口の中に運ぶ。
これが……ラーメン。
「うぅ……」
「和歌子……どうした? 美味しいの?」
「張り切り過ぎて……味がよく掴めない!」
「じゃあ落ち着いてもう一口いきなさい」
「はい」
メンマ。思ってたより柔らかい。麺は、うどんとも蕎麦ともちがう味がする。
麺をつるつるすすっているうちに、何か慣れてきた。
「うん……わかった……」
「どう?」
浅間君が期待に満ちた表情で聞いてくる。
「美味しいけど、わたしはうどんの方が好きかもしれない……」
「そっかー」
浅間君がなぜか少し残念そうに頷く。
「ラーメン、なんだかご飯な感じがしないような……」
期待値がよほど高かったのか、割と普通なような……。
そのままスープをもう一口飲む。
「あれ? でもやっぱり、好きかも!」
「えっ、そう?」
浅間君がぱっと顔を上げて嬉しそうにする。
「別に浅間はラーメンじゃないんだから一喜一憂すんなよ……」
真奈ちゃんが突っ込みを入れる。
「してねーし!」
「やっぱ美味しい! ラーメン、掴んだ!」
「そんな複雑な味じゃないっての」
みんなで笑いながら食べる。学食がこんなに楽しいものだったなんて。絶対また来たい。
「食べたら授業かー」
「それ終わったら文化祭準備」
嘘の文化祭委員ほどじゃないけれど、今週は本当の準備で少しだけ遅くなる。
「あ、そうだ。帰ったらお父さんが帰るまでにお風呂掃除して、わかさなきゃ。あと、洗濯物も……たたまなきゃ」
全然できてない、ってわけじゃないと思うけれど、まだ慣れてないのでスピードを重視すると質が下がり、質を重視すると無駄に時間がかかる。洗濯物を綺麗に早くたたむのが、特に苦手。
「和歌子のお母さん今週末まで入院だっけ? 家ぐちゃぐちゃ?」
「お父さんと協力してなんとか人の住処っぽくとどめてるよ」
「その言い方だと兎小屋になる日は近いな……」
「白瀬のお母さん、どっか悪いの?」
浅間君が心配そうに聞いてくれる。
「ううん。ちゃんと検査したけど、病気とかじゃなかったから」
お母さんも入院して三食きちんと食べて、昔の友達が来て話したりしているうちに調子を取り戻してきていた。
「あ、テラどこ行ってたの。ごはん、それだけ?」
テラ君がおにぎりとペットボトル片手に浅間君の隣に座った。
「委員会の用事……もうちゃんと食べる時間ないよ」
ぶつくさ言いながらわたしの目の前にあるラーメン丼に視線をとめる。
「なに白瀬さん、ラーメン食べたの?」
「え、食べたよ」
「……なんで言ってくれなかったの……」
「え、言った方がよかった?」
困惑していると浅間君が「安心して。ホームランじゃなかったから」と笑う。
「そうなの? 一塁打?」
「うーん、二塁は行ってたかも」
真奈ちゃんが呆れた顔でテラ君を睨む。
「テラまでそんなこと言うようになって……和歌子におかしあげるのはあたしの役目なんだからね」
ペットのうさぎみたいになってるけど。
「僕は見学できれば。飼育はお任せするし」
「飼育て……」
最近なぜだかみんな、わたしが普段そんなに食べないものを食べるのを、何かのショーみたいに見たがるようになっていた。でも、困ったことにそれが嫌ではないし、わたしも楽しい。
少し話しているとだんだん学食に人が少なくなってきた。
「そろそろ戻ろう」
「あ、やばいやばい」
のんびり食べていた真奈ちゃんがカレーの残りをかきこむ。
「郡司君は?」
「晃は、午前中に弁当とパン食べちゃって、さっき見たら外で寝てたよ」
……郡司君のフリーダムさにはいっそ尊敬の念を覚える。
*
放課後になって文化祭準備をした。
「晃、そっちの木材どけてよ」
「お、ああ……」
「晃、これちょっと持ってて」
身体が大きい郡司君は割とテラ君に使われていた。というか、テラ君以外はみんな、ちょっと怖くて郡司君に命令なんてできない。
でも、郡司君の方もテラ君がいないと黙って突っ立っていることになりがちなので、助かっているんじゃないかと思っている。別にテラ君は自分の損得のために命令したりしないので、たぶんきっと、みんな助かっている。
「テラ君と郡司君て、仲良いよね。いつからなの?」
ポスカで看板の色を塗りながら隣のテラ君に尋ねる。
「幼馴染なんだ。僕の方が身長高かったこともあるんだよ」
「そうなんだ。どうりで……」
「なに?」
「えっと、なんだろ……。だからカタコトでも会話が通じてるんだね」
郡司君とテラ君の会話は切れっ端の単語が多くて、側から聞いていてもよくわからないことが多い。でも本人たちはそれで通じてるらしく、笑ったりしている。
「白瀬さんと真奈ちゃんだって似たようなもんだよ」
「え、そうかな?」
「この間だって、蛇のぬけがらがどうとか言ってすっごい笑ってたじゃない」
「あぁ……あれ」
小学校時代の共通の珍体験を元に話していたので、周りから見たら何をそんなに笑うことかと思ったかもしれない。なるほど。そういうことか。
真奈ちゃんはともかく、わたしも郡司君も、友達が多くてコミュニケーションを得意とするタイプじゃない。
浅間君は人見知りはしないけれど、そういう相手はいないと言っていた。
彼はいつも愛想が良くて、誰とでも話す。あんなに社交的なのに、人と深く関わるのが苦手と言っていた。
教室の反対端で人と話しながら作業する浅間君を見ながら、世界が裏と表で重なり合っているのを感じた。




