決意
ここはどこだろうか。目の前は真っ暗。何も見えない。少し怖いし、寂しい。自分はずっとこの闇に独りで閉じ込められるのだろうか。
自分はなんだったろうか。記憶は空っぽ。何も思い出せない。だが、何かとても大事なことを忘れている気がする。自分だけにしかできない重要な役目があった……はず……?
「おはよう。突然だけど、君には二つの選択肢しかありません」
どこからともなく聞こえる女の子の声がぼんやりとした僕の意識に呼びかける。闇の中、心細かった僕に安らぎをくれるような優しく温かい声だ。
「これから消えるか。それともまた戦うか」
唐突に彼女から投げられた二択に、僕は5秒程悩み、消えるぐらいなら、と後者を選んだ。
そうすると彼女は嬉しそうに、よかったと言った。もしこの選択肢たちに正解、不正解があるとすするなら、そこまで喜んでくれるのだ、間違いではないだろう。
そんな思考が頭を巡るうちにいつの間にか強い眠気が襲ってきた。心地よく意識が遠のいてゆく。その感覚に不思議と不安や恐怖はなかった。
「今度はきっと上手くいくよ」
完全に意識が途切れる前にそう聞こえた気がした。
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鼻でゆっくりと空気を吸い、次に目を開けた。僕の意識は完璧に覚醒した。目線だけを動かし、辺りを見渡す
静かに上半身を起こす。酷い頭痛がして、僕は不意に両手で頭を押さえた。なんだか長い夢を見ていた気がする。
「目が覚めたのね。よかったわ」
その女性の優しい声音の主を探すように視線を動かす。見つけたその姿は紺色のローブに身を包み、同じ色の布を被っている。首には拳程度の大きな浅黒い透き通った石を下げたネックレスを身につけている。
「少し待ってて」
そう言って駆け足で静かに部屋を出ていった。
しかしドアを閉める力が弱かったのだろうか。少し開いたままになってしまい、そのドアの隙間から廊下の様子が少し見えた。
先ほどの名の知らぬ女性の後ろ姿が駆け足で奥のドアを開ける。そして、その静かな雰囲気からは全く想像できないほど明るい表情が横顔からちらっと見えた。そのドアから出てきたのは真っ白なドレス姿の女性だった。
離れすぎていて会話が全く聞き取れないのがもどかしい。
「ここどこなんだろ」
聞こえないものは仕方ないので、いい加減ベットからおりて部屋を探索する。とはいってもあるのは、今まで寝ていたベット、光が差し込む小さな窓、天井からぶら下がっている照明、四冊の本が雑に積んである机と椅子。
気になったというより、他に見るものがないので積み重ねてある一番上の本に手を伸ばした。金色の模様で施されたそれは想像以上に重い。
題名を探してもゴテゴテした表面には見当たらなかったので、仕方なく開いた。目に入ってきたのは全く読めない言語で書かれていた文章。それがびっしりとページいっぱいに広がっている。どこを開いても変わらない風景だ。
しかし、なぜなのか、一箇所だけ読める場所があった。
「『ケイセルグトゥルグ』……?」
その言葉を声に出した瞬間、本が光り、僕の視界はあらぬ方向に飛んだ。否、僕の首が飛んだのだ。そして意識も。
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気がつくとベットの上にいた。
「あっ、起きた起きた」
真っ白の女性は僕の顔を覗くように見下ろしていた。真っ白な肌に真っ黒な唇。真っ白なドレスに真っ黒な髪。白と黒のコントラストが目に痛かった。だがそれ以上に雪のような肌の至る所に縫ってある黒い刺繍が痛々しかった。
「えっと……、おはようございます?」
「はい、おはようございます」
わけもわからず、とりあえず挨拶をするが何となく気まずく感じる無言の間は埋められなかった。
「……あなたは誰ですか。ここはどこですか。私は誰ですか……」
そして、今まで感じていたことを吐き出してしまった。感じていたのは疑問だけではない、大きな不安もだった。そんな僕は涙を流してしまっていた。
「おーい、サリー。少年が泣き出した。助けてくれ」
めんどくさそうに顔を歪め、人を呼ぶ白黒の女性。
そして、エプロンの姿で駆け足気味にきたのは最初にここで目覚めた時、声をかけてくれた女性だった。
「大丈夫。ここにはあなたの味方しかいないわ。だから、安心して」
大丈夫、大丈夫。と、そう囁きながら抱きしめられ、僕は不思議と不安や心配という感情を忘れていた。
何分経ったのだろうか。いや、もしかしたら、何時間かもしれない。ずっと抱きしめられていた。涙も引き、ただぼーっと何物にも変え難い時間を過ごしていると、彼女は「そうだ、お腹すいたでしょう」と微笑み、僕を部屋から連れ出した。
厨房に向かった彼女と別れ、席に着いた僕を一瞥し、やっとかとため息をつく白黒の女性。その手に持っている本をテーブルに置き、口を開いた。
「少年。君は少年だが、もう少し大人になるべきだ」
そのセリフは僕の忘れていた羞恥心を煽った。そうだ。人前であれほど泣き、女性に甘えてしまうなんて死ぬほど恥ずかしいことなのだ。
「分かってます!」
そんな思春期真っ盛りの僕は紅潮した顔を隠すように頬杖をついてそっぽを向いた。
それを見た彼女はクスクスと静かに笑う。
馬鹿にされているようで気分が悪く感じた僕は慌てて、そういえばと話題を変えようと試みる。
「その本に殺されました、夢で」
ああこれねと彼女が左手で持ち上げた本は、まさに夢の中で僕の首をはねた忌々しいその本であった。
「夢じゃない」
「……え?」
「だから、夢じゃない」
「でも、僕はこうして生きてますし、首にもそんな傷は……」
そう言いながら顔を上げ、喉仏を突き出すように彼女に首を見せる。
「その程度では少年は死なない」
「は? ……僕、自分が誰かもわかりませんが、人間であることだけは自信ありますよ?」
表情一つ変えずにそう言い放った彼女を、僕はキチ〇イ認定しかけていた。
「少年の思考が手に取るように分かる。私を頭のおかしい人だと疑っているでしょ」
なぜバレている。
「分かった。ではここで証明しよう」
彼女は本を開き中のページを僕に向けてくる。
「何をムキになっているんですか。やめてくださいよ、危ない真似して本当に死んだらどうするんで……」
「『ケイセルグトゥルグ』」
僕の馬鹿にするように吐いた言葉を遮ぎったそれは夢の中で僕が口にした言葉。その言葉に呼応し本が光り出す。
咄嗟に首から上を守るようにクロスした腕を、難なく切り裂き僕の首を落とす謎の発光。
「死ぬ! ……あれ……?」
しかし、彼女の言葉は真実であった。僕の意識ははっきりとしており、椅子の下に落ちた首は、未だに座っている僕のからだを見上げている。傷口からの出血もない。痛みも感じない。
これは確かに僕の知る人間からは程遠い存在だった。
「私に言うことは?」
顔は見えないが得意気なその声から察するに、ドヤ顔で言っているのだろう。
「馬鹿にして申し訳ありませんでした」
「よろしい」
そんなやり取りをしているとローブ姿が厨房から出てきていた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃったわ」
そう言いながら両手で持つ鍋をテーブルに置く彼女は、漸く僕の姿に気づいたのか、綺麗な声で悲鳴をあげた。
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「本当にやめて頂戴、ああいうのは。どれほどあなたが不死身に近いとはいえ、私の心臓が死んでしまうわ」
ローブの女性が不機嫌そうに言う。
まあ、確かにさっきまで会話していた人間の肉体がバラバラになっていたら、下手なホラーより怖いしびっくりするだろう。
僕の身体はと言うとローブの女性に、破片といえば無機物のようだが、切り離された首、手首を拾い上げてもらい、まるで工作のようにのりもなしにくっつけると、見事に傷一つ無く繋がっていた。
彼女が言うにはわざわざそのようなことをしなくても、時間が経てば勝手に修復するらしい。驚く程、僕はバケモノだった。僕にとってはこっちの方がよっぽど恐ろしくホラーだった。
正直、気が狂いそうだ。本が殺しに来たり、身体がバラバラになっても死ぬどころか痛みも感じない。事実は小説より奇なりとはこういうことだろうか。だが、これが常識なのであれば僕自身の感覚が狂っているのだ。治していく他ない。
「そんなことより、サリー。ご飯にしよう」
「そんなことってあなた……。まあ、そうね。話さなきゃいけないこともあるし。晩ご飯にしましょう」
早く早くと急かす白黒女に呆れながらも、促されるまま話題を捨て、ご飯の挨拶をするローブの女性。
そんな気の置けないやり取りをする二人を見て僕は何故か安堵していた。だが、僕は食後にされるであろう、僕のこれからの話に一抹の不安も感じていた。
しかし、まるで家族のように食卓を囲い、団欒とする食事はとても温かいもので、そんな不安もいつしか忘れてしまっていた。
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食事が終わり、テーブルに広がっていた食器を片すと、席でぼーっとお茶を啜る僕達にローブの女性が「それじゃあ」と開始の合図をする。
僕は柔らかな優しい表情から一変した真剣な表情を見せるローブの女性を見て、固唾を飲んだ。
心做しか表情の変化が薄い白黒女も真面目な顔をしている。
「とりあえず、あなたの疑問質問に答えるのは置いておいて。現状だけを話しましょう。……私達は現在、一つの勢力から狙われている状態です」
「えーっと……、狙われているというのは」
「命を、です。もしかしたら、身柄を拘束され、死ぬより辛い目に遭うかもしれない」
その言葉を聞き、ただ唖然としていた。僕は誰かから殺そうとされている? 記憶を失う前の僕はどんな非道な人間だったのだろうか。大罪人だったのかもしれない。そう考えると、震えが止まらない。
しかし、涙はどうにか抑えようとした。白黒女のもう少し大人になるべきという言葉が弱虫泣き虫の僕をどうにか男らしくしていた。
「おそらく、あと数日でここも追手に見つかってしまう。なので私達は世界を逃げ回りながら、旅をするの。明日から」
そう言って、微笑むのだ。まるで、大丈夫と安心させるように。しかし、そんな震える僕の右手をゆっくりと包む彼女の手も少し震えていた。
ああ、この人も怖いんだ。だってそうだろう。僕より年上なんだろうが、この人も若い。多分五つ、六つくらいしか変わらないだろう。そんな年端もいかない女性が命を狙われるのだ。僕と同じように恐ろしく不安で仕方ないに決まっている。
もしかしたら、僕のせいなのかもしれない。それなら、それならせめて。
「あなたのことは僕が必ず守ります」
僕は決意した。柔らかな彼女の手を左手で強く握り返す。
もし本当に僕が大罪人だったとしたら、これで犯した罪を消したりはできないだろうけど、せめてもの罪滅ぼしにしたい。僕は傲慢にもそう考えていた。