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それぞれの場所(1)

 辺りはぼんやりと暗くなり始めていた。

 回覧板を隣家の黒崎家に届けようと家を出、郵便受けにそれを入れようと手を伸ばすと、黒猫がちょうどその門から出て来るところだった。

「あら、クロ」と富貴は声を上げた。

 そのクロの後ろから続いて女が出てきた。富貴はとっさに身構えながらも軽く会釈をした。そして「こんばんは」と言ってみた。

「こんばんは」と都記子が答えた。

 そんな二人のやりとりを無視するように、クロは夕方の散策に出かけて行った。

 二人はお互いに名前を知らない。ただ、富貴の方では、最近黒崎家に出入りしているこの女性をはっきりと認識できるようになってきており、都記子の方では、黒崎の元に通うようになってすぐに、都記子のことを認識していた。

「あ、回覧板ですね」

 と都記子が聞いた。

「はい」と郵便受けにそれを落とした富貴がうつむき、戻ろうとすると

「あの…」と都記子が声をかけた。

「東野さんの奥様ですよね?」

「はい」

 富貴は立ち話というものが好きではない。よく知りもしない人と話するのはもっと苦手だ。返事をする以外には言葉を思いつかなかった。

「あの、あたし…、東野君とは同級生なんですよ」

 と都記子に言われても、「ああそうですか」としか答えようがなかった。

「あの、ご存知だと思いますが…、黒崎君も同級生なんです」

「ああ、そうでしたね」

 と言いながらも、富貴には会話を続ける意志はなかった。

「東野君のお母様は、お元気ですか?」

 都記子は富貴のそんな様子を察するでもなく、親しみをこめて話しかけた。

「え? ああ…、母は…、元気にしています…」

「そう、そうですか。それは、良かったわ」

「おかげさまで…」

 帰ろうとしている富貴に都記子はさらに何か言おうとしていた。

「お母様は…、まだ、洋裁をされているんですか?」

「え? いえいえ、もうそれは…、もう、とうの昔にやめてしまいました」

「あ、そうですか」

 黒崎が庭へのガラス戸を開けた。

「都記子! どうした?」

 その呼びつけの言葉が都記子の背中に刺さり、富貴の足を止めた。

「なんでもない。お隣の東野さんが回覧板をね、持っていらしたの。郵便受けにね、入れて下さったわ」

 都記子は言いながら、

「失礼します」

 と黒崎の言葉の余韻を断ち切るように歩き始めた。

「おい! 都記子」

 と黒崎がまた呼んだ。富貴は怪訝に思いながらも都記子の背中を見ながら自分の門へと帰って行った。


(まったくいやだわ。黒崎君たら。いい年して)

頭の中で思いながら、都記子は店へと足を速めた。朝のうちにあらかじめ店に出す料理の用意はして出て来てはいたが、黒崎家に少し長居をしてしまった。このところいつもそうだ。平田がいようといまいと、黒崎は都記子を呼び出し、呼び止め、自分の元に引き留めようとする。

 都記子はそれを振り払いたいのに、なかなかきっぱりとはいかない。そんな自分のもたついた心がもどかしかった。

 それに、店に出れば出るで、今度は平田がやって来る。それだから店を開ける。それはわかっているのだけれど、それをどこかで求めている自分の心がもどかしかった。


 数日前の休日、都記子が黒崎の元を訪れている時に、黒崎の長男夫婦がやって来た。その時、都記子はいいようも知れない疎外感を感じた。

 都記子がキッチンに立ってシンクに残された食器を片付けている時で、玄関の扉が開く音で身体が固まった。

「お父さん」

 と息子の新が呼びかけた。

「だれ? だれか来てるの?」

 というやりとりが背中で聞こえた。

「や、同級生の宝田さんって人」

「だれそれ?」

 とさらに新が聞いた。

「ほら、駅の近くで店をやっている人だよ」

「なんだよ、店って」

 都記子は水道のコックを下げて水を出し、言葉が耳に届かないようにした。さて、次にどんな行動をとったらいいのか? 見当もつかなかった。とにかく、ただ今目の前にある食器を片づけよう。そこだけに気持ちをつなぎ止めようと心掛けた。

「あ、お世話になっています」

 と新の妻がキッチンに入って来た。

「あ、どうも…」

 都記子の顔は固まっており、笑顔を作ることはできなかった。

「あ、もう、あたしここ片付けますので、大丈夫ですよ」

 そう言われても都記子は一瞬どうしたらいいのかわからなかったが、その人が何やら背中で紙袋をガサゴソ言わせて、

「お義父さん、今日は、お義父さんの好きな稲荷寿司作って来ましたから」

 と言うのを聞き、もうその場に居られないのだ、と悟った。

「それじゃあ、あたし、失礼します」

 そう言って黒崎の前を通って玄関に向かおうとしたら、黒崎は都記子と目も合わせず、

「ああ、お世話さまでした。じゃあ今日はこれで」

 と数千円を差し出したのだ。

 都記子はその黒崎の手を見つめた。

「また何かあったら電話するから、今日はこれで」

 まるで邪魔者を追い払うような感じだった。何か期待していたわけでもなかったけれど、そのひんやりとした空気が都記子の胸を刺し、都記子はやりきれなくなった。

「あの…、失礼ですけど、これからは通いのヘルパーさんをお願いしようと思っているので、もうお手伝いに来ていただかなくても大丈夫ですよ」

 そう新が言い、

「あ、そうですか」

 と振り切るように黒崎の家を出た。

 今まで金など要求したこともなければ、くれたこともないのに、何なのか?

 もちろんそんな金、受け取りはしなかったが、息子夫婦にアピールするように急にその場を繕った黒崎のことが憎たらしかった。


 自分の店へ帰るその道すがら、だんだん怒りが腹の底から湧いて来ていた。黒崎を誘って店にやって来た平田にも、この間までメソメソして自分にすがってきていた黒崎にも、黒崎の息子夫婦にも、「華やいだ」なんて言われていい気になっていた自分にも腹が立った。

「もう二度と行かないわ」と自分で言い、言い聞かせたはずだった。

 それなのに、今朝また黒崎から電話がかかってきて、泣き言が始まり、その電話をただ切ればいいものを、

「ヘルパーさんが来ているんじゃないの?」と確認すると、「今日は来ない」だの、「来てもちゃんとはしてくれない」だのと言い、また泣きごとだ。

「もう、あたし知らない。この間、息子さんが来なくていいと言ったんだから、もう行かない」

 と言うと、

「そんなこと言わないで。今日だけでいいから、来てくれ、お願いだ」

 とこの間とは人が違ったようにすがって言う。都記子にはそれを振り切れない。それがわかっているからきっと黒崎も平田もずるずると都記子を引き留めるのだ。


 ふと目の先の道を見ると、黒い猫が前を歩いているのに気が付いた。その猫は道を良く知っていると言わんばかりに、迷いもせずよその家の門に入って行った。それはさっき黒崎の家から出かけて行ったクロだろうか? なんだか気になりその家の表札に目が行った。「高田・桜田」と二つの名前の表札がかかる家だった。

入り口の南天の木に身体を摺り寄せている黒い猫は、はやりクロのようだった。

「まったく、お前はいいね、自由にいろいろな家を出入りして」

 家の中から声が聞こえた。その声がわかったというように、クロはちろりと都記子の方を見て、そのまままた中へと入って行ってしまった。


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