黒崎家(3)
高校時代、都記子は翔太に憧れ、つきあってみたことがあったのだ。東野家はその時のままのように見える。補修され古さを感じさせない。東野の家の前を通るたびに都記子は不思議な感覚に襲われる。
あの頃はまだ黒崎はここに家を持ってはいなかったのだ。では、ここには何があったのだろうか? きっと同じような家があっただけだろうとは思うのだが。さっぱり思い出せない。
高校時代からこの場所を知っていたのに、記憶の中のその場所にたどり着けない。東野の家の前を通り、黒崎の玄関にたどり着くたびに、都記子は首を傾げるのだった。
クロが家に上がり、左の前足をなめ始めた。その前にキャットフードを差し出すと、ジロリと都記子を見て、キャットフードには目もくれず、毛づくろいを続けた。
「なんなの?」
と都記子はクロに話しかけた。
『へ? なんなのか?』
とクロが答えたように思えた。ときどきそんなことがある。クロの口から言葉がもれ聞こえているように思えることが。
「都記子、来てくれ」
と黒崎がまた呼んだ。平田は都記子ちゃんと言うのに、黒崎は呼びつけだ。
「そうだよ。都記子ちゃん、ここに来て。皆でお茶しよう。いいことしよう」
その平田のいやらしい笑いが、都記子を苛立たせた。どこにも行く所もなく、ずるずる黒崎の家に出入りするようになってしまった自分にも腹が立った。
「あたし、やっぱり帰るわ」
「なんでだよ。いいじゃないか」
と平田がべったりとまとわりつくような声を出した。
「いいじゃないか。ここで、ほら。君がいてくれるとこの場所が華やぐ。女性はやっぱりいつまでたっても女性でいいね。華やいで」
平田がまた続けて言う。
「華やぐ?」と都記子は思った。あたしがいることで華やぐ? へえ。
都記子は「帰る」と言いながらも、帰れなかった。結局平田の言葉が都記子を引き留め、自分はそれを待っていたんじゃないのか? そう思うとそれがくやしかった。だけど今日はここで三人で過ごそう。今日までは。
一時でも人と絡み、接していて、何かしら自分を受け入れ認めてくれる瞬間が愛おしい。それがこれまで自分が描いていた理想の形とは違っていても、今という瞬間にそれを感じているとそこから逃れられなくなる。
都記子のどこを引っ張ればいいのか、平田はその場所を心得ている。それが憎たらしいしいやらしい。でもいいのだ。逃れられないのだからそのままにしておけば。引っ張られているということ自体に安堵している自分を発見して都記子は目を閉じた。そして成るがままに流れる時間を味わった。