黒崎家(2)
都記子は午前中だけ数駅離れた少し大きい乗り換え駅の雑居ビルの掃除の仕事もしていて、年金ももらっている。
三度目に勤めた東京の商事会社に定年まで勤め、五十歳の時にこの店を買った。定年までは平日は会社に通い、週末だけスナックを開くような生活だった。
スナックは格安で手に入れた。カウンターに六席、そのほかに小さいテーブルが二つと椅子がそれぞれ二つ。やはり同級生だった霞美穂がやっていた店だった。
ずっと母と二人の静かな生活を続けていたのだが、一駅先の病院に母が入院していたある日、たまたま美穂と出会ったのだ。美穂が店を手放そうとしていたので、流れに従って都記子がそこを手に入れた。何かに押されたわけでも引かれたわけでもなく、ただなんとなくそうなった。
特にこれといった趣味もなかったのだけれど、小料理屋をやるというぼんやりとした夢のようなものはあったのだ。だからスナックでいくつか料理を作り、それをカウンターに並べ、お客が来るのを待ち、その料理を「おいしい」と言ってくれる、それが趣味のようなもので楽しみにもなっていた。
美穂はいわゆる顔立ちの整った美人だったのだけれど、結婚に失敗して地元に戻り、ここで「かすみ」というスナックを始めたとのこと。
「新築の時はね、満員になったこともあったのよ」と言っていた。
都記子はずっとこの界隈に住んでいたのだけれど、実家は駅の正面に続く道から住宅街に入ったところにあったので、線路沿いに歩いたことがなかった。だから近くであってもこの場所の存在を知らなかった。
美穂の話に出てくる新築の頃を想像しようとしてみたのだが、想像できなかった。そんな時期はなく最初から寂れていたように思える場所だった。
都記子の店は買い取った時のまま「かすみ」という看板になっている。
美穂とはその後疎遠になり、今はどうしているのかよくわからない。もともと特に仲が良いというわけでもなかった。
そういう意味では都記子には特に仲がいいという友人はいなかった。まあ、平田とは仲が良かったと言えるだろうか? 男女の関係ではあるし、けんかをしたこともなく、たんたんと添うようにもう六年もずるずるとつきあっているということでは。
貯金もそれなりにはしていたがどこに行きたいとか、何をしたいとかいうことはなかった。今のままで良かった。今のままの収支を守れば、どうにか老後をやり過ごせるだろう。
母が病気がちになり入院などが続くうち、家と違う場所で隠れるように店にただ座っている時間が好きになった。電車が通るとそれを直に身体に感じる。その振動がどこかにつながっている感覚を思い出させてくれた。
母が亡くなってからは、家にはほとんど戻っていない。少しずつ店の二階の細長い空間が自分の居場所に変わっていった。母の物を片付け終わったら、いずれ実家は処分しようと思っている。
ふと、都記子は今この店の自分の椅子に座っているその時を「華やいだ」という言葉に変換できるかもしれないと思った。
美穂と会うたびに「華やいだ」という言葉を思い出し、そんな言葉と自分は無縁だと思っていたのだが…。
いいんじゃないか? 「華やいだ」で。今までの生活と違う流れがやって来て、落ち着ける場所があって、何か作ったり並べたりしたいという気持ちが持てるということでは?
それは平田が通ってくれているからなのか? ほとんど平田のためだけに開いているようなものだったし、また平田かと思うとうんざりもするのだけれど。
平田は駅前のパチンコ店を経営している弟を手伝っているらしい。チェーン経営の大きなパチンコ店ができてしまってからは押され気味だとは言っていたけれど、生活に困っている風ではなかった。
散歩から帰って来た黒崎の飼い猫、クロが廊下から、ガリガリ『開けてくれ』とねだっていた。雑種の毛足の短い黒い猫だった。都記子はあまり猫が好きではなかったけれど、黒崎の家に出入りするようになって、クロの世話をするようになった。
平田、黒崎、都記子、三人とも中学の同級生だ。しかも隣家に住んでいた東野翔太も同級生だった。高校からはそれぞれ別の場所に通い、つきあいがあったわけではないのだけれど、七十歳になろうという頃になると、この駅のこの辺りに残り、ただ生活しているというだけで何か特別な関係があるように感じてしまう。それは何なのか? 慣れ合いとか、不変とか、そんなものだろうか。皆口に出してそんなことを確かめ合うこともないけれど、漠然と感じられる何かがこの人間関係をつないでいた。
黒崎を都記子のスナックに誘ったのは平田だった。好美を亡くしてからふさぎ込み、ぼんやりしてきて悲しみに浸っている黒崎を景気づけようというようなことだったか、ふと駅のあたりで、黒崎を見つけて、「どうだい?」と言い、何をするあてもなかった黒崎は、ふらりと平田と一緒に都記子の所に通うようになった。
店に備えてあるカラオケで歌い、適度に酔った黒崎を平田と一緒に家に送り、そんな日が数日続いたあと、黒崎に頼まれるままずるずると黒崎の家に通うようになり、簡単な身の回りの世話を手伝うようになっていた。




