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黒崎家(1)

 この駅は六十年ほど前、古くからあった駅と駅の間に新しく作られ、電車の開通に合わせて開拓された住宅地がある。黒崎がそこに自分の家を手に入れた時は結婚して十数年経っていた。


駅前というのは不思議な空間だ。駅から町へ続くその入り口の顔ではあるのだけれど、ここに住んでいる人にはただの通りすがりの場所にすぎない。道は駅の前の小さいロータリーから三方に分かれ、人はその道の先にある自分の目的の場所だけを目指してさらに振り分けられて行く。


黒崎の家も実家も駅から歩いて二十分ほど。実家はこの駅ができる前からあったが、まだ田畑が点在しており、区画された住宅地にはなってはいない。

人口増加に伴って新しくできた中学校には中学三年生の時に移った。それまで通っていた中学は隣駅に近い場所にあったのだ。

今黒崎の暮らす住宅地ができた時に引っ越してきた学友も多くいた。


高校からはずっと都心の方へ通っていたので、出かける時はいつも「約二時間」というのが「移動」という概念と一緒に頭に入っていて、それが長いとか短いとかは考えたことがなかった。

仕事をリタイアしてからは、どこかに出かけることがどんどん少なくなっていた。


「しょうがないね。じゃあ、私がやるわ」

 と都記子がガラス戸を磨き始めた。

「それどうしたんだい?」

 とソファベッドに横たわっていた黒崎は首だけ回して聞いてみた。レジ袋に入った掃除道具のことだ。

「昨日、ここを磨くと決めてね、持って来たの」

 都記子は振り返ってニコリと笑った。

「ガラス戸なんか、どうでもいい、ここに来てくれ」

「いやよ」

 そして都記子はガラス戸を磨き続けた。

 黒崎はめそめそと泣き始めた。

「いやあね。そんなに長いこと悲しんでいて、どうするつもり」

 それには答えず、黒崎は泣き続けた。


 チャイムが鳴った。

「ああ、面倒くさい。平田君だわ」

 都記子はガラス戸を拭き続けた。

 しばらく音が無く、またしばらくしてチャイムが鳴った。

「いやだいやだ。ねえ、黒崎君起きて見て来てよ」

 黒崎はまだ悲しみの中にいて戻って来られそうもないみたいだった。

 

妻の好美が亡くなってから一年。黒崎はまだ喪失の暗闇から脱け切れないでいた。そればかりか、悲しみはもっと深くなっていくようにも見えた。

またチャイムが鳴った。

「どこかで答えられるでしょ? どこ?」

 と都記子が聞くと、黒崎がキッチンの方をアゴで指した。

 キッチンの入り口にあるインターフォンをのぞくと、玄関のカメラに平田が写っていた。

「はい」

「あ、都記子ちゃん。やっぱりここにいたのか。ぼく、そう思って来てみた」

 平田は花束となんだか、紙袋を持っていた。


 都記子は面倒くさそうに手を洗うと、玄関に回り、平田を招き入れた。

「やあ、やっぱりガラス磨きをすることにしたんだね」

 平田が屈託なく笑い、その笑いが都記子をいらっとさせた。

「だったら平田君ガラス戸を磨いてよ。あたし、帰る」

「まあまあ。そう言わんと。ほら、都記子ちゃんが好きなまんじゅうを買って来たしさ、ここで皆で茶、しよう」

 平田の着ているコーデュロイのシャツ。カーキ色の地にえんじのチェック柄。それがなんだか哀しかった。もうすっかり春めいているというのに。

「やっぱり、あたし、帰る」

「まあ、そう言わんと」

 平田はぐっと都記子の腕を握った。そして、それをおもしろがるように、都記子の顔を覗いた。


駅前から左に折れ、商店街を抜けた線路沿いに建てられた細長い二階建て長屋の一角で、都記子は小さいスナックを開いている。

長屋は四つに分かれていて、寂れてしまった飲み屋が並ぶ。開いている店が二軒、開いていない店が二軒。開いている店も、扉を開けてみるまでは本当にやっているかどうかよくわからない、そんな店だった。

いつも客は少なく、平田は小学校からの同級生で、この店の常連だった。


都記子も平田も結婚しなかった。そのまま地元を離れず、都記子がこのスナックを始めた頃から通いつめ、二階にある都記子の部屋に時々は上がり、なんとなく泊まり、ずるずると都記子と関係を持つようになった。


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