東野家(2)
今、この現実世界でミロが「ニュア」と小さい声を上げ、魔法から解放されたように感じ、救われたような気がした。
「おまえが、何かを持って行くなんて、そんなことない、ね、ミロ」
富貴はミロの首をおおうふわふわの毛玉に指をなじませながら言った。
『そうかな?』
とミロが言った? まさか。富貴はミロからぱっと手を放した。
『おまえって…、おまえはおれのことをおまえなんて呼びつけにできるのか?』
とミロは言った。
「やめて、ミロ! あなたのごはんを買ってきているのはわたしなのよ」
『ふん、本音がでてきたな』
ミロは悪意のこもった目でギロリと富貴を見つめていた。
『ばあさんはわかっているんだよ、おまえが翔太を殺したってな』
「やめて!」と富貴は耳をふさいだ。
「私は何もしていない!」
『まあいいさ、ばあさんがいなくなれば、おれとおまえだけの世界だ。おまえはこの屋敷をもらい、財産をもらい、この屋敷に守られた静寂をもらうのさ。秘密はもれない。いい気なもんだな』
「あなたは何が欲しいの?」
『べつに…、おれは、おれのメシが食べられればいい』
富貴はミロを追いやり、自分の身体を抱きしめた。
末期癌という宣告を受け、翔太は富貴に急に「離婚したい」と言ってきたのだ。
「財産を分ける。おまえがこれから生活するすべては保証できると思う」と。
「なぜ? わたし、何をしたの?」
「何もしていない」
と翔太は言った。
「本当によくできた人だったと思っている。母の面倒を見、食事を作り、家庭を守り、いつもきれいに何もかもを整えてくれた」
富貴は泣き崩れた。
「じゃあ、いったいどうして、なんで、そんなことを言うの?」
「わからない」
翔太は痛みをこらえているような悲痛な表情を浮かべた。
「痛いんだ」
と胸を押さえた。
「知っていたんだろ? 未知との関係を…」
「え?」
「知っていたはずだ」
それはたぶん、翔太の部下の堀江未知のことだろうと察しがついた。だけど、いったい何を知っているというのか。
「未知は苦しんだ。おれもな」
「どういうこと?」
「おまえとこの家庭を守るために、おれは未知をあきらめたんだ」
「だって…」
「わかっている。それはおれの勝手だということは」
富貴は途方にくれていた。
「おまえは、女神のように人の上に立って、それで全部わかっているような顔でながめている。さぞかし、ご満悦だろうよ」
「な、なんでそんな…」
翔太は胸を押さえ、うずくまった。
「すまん。そんなことを言う気はなかったんだ。聞かなかったことにしてくれ。ただ、おれは君の顔を見ていると苦しめられるんだ。だから、顔が見えない所に行って欲しい」
「そんなこと、できません」
と、富貴はきっぱりと言った。
「ここはずっとあなたのお城だったかもしれない。でも、今は私のお城でもあるの」
まだ胸を押さえてうずくまる翔太の背中を優しくさすって富貴は続けた。
「堀江さんに何か伝えたいのなら、ここにお呼びしましょうか?」
翔太は布団をかぶり、黙ってしまった。
「そうしましょうよ。堀江さん、結婚なさったんでしょ? きっと、もう新しい生活を始めて忙しくしていらっしゃるわ。でも、あなたの方に何か未練がおありなら、良くないと思うの。堀江さんに聞いていただいたら? 電話をかけましょうか?」
「出てけ!」
翔太は、いまいましそうに声を荒げると、富貴を追い払った。
今、ひととき夢から覚めた富貴は、ミロを呼び、すり寄ってくるミロを愛おしげに抱えた。
「ミロ、翔太さんはただ自分で病気を抱えて亡くなったの。殺すなんて、失礼な言い方ね」
ミロはギロリと富貴を見つめ言った。
『ふん、どうだっていいさ、そんなこと。どうせおれには真相を暴くことなんかできないんだから』
「あなたの言葉が誰かに通じるかしら」
『さあな。あのばあさんは、おれが翔太をどこかに連れて行ったと思ってる。なにもかもおまえの思い通りだな』
「思い通りだなんて、そんな…」
富貴は笑いをこらえた。
「わたしはただ、与えられたものを守っているだけで、ほかには何もしていない」
『ふん』
ミロは富貴の相手に飽きたのか、しっぽを立てて、富貴のそばを離れた。