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それぞれの場所(10)

 久しぶりに実家のあるマンションに着くと、日傘を閉じ、富貴はふっと長い息を吐いた。富貴の住んでいる所から、約一時間ほどの距離だというのに、須恵見の介護を理由に、ここ二年は全く訪ねておらず、電話さえほとんどしていなかった。

 もうだいぶ古ぼけたマンションになってしまったけれど、人の出入りがあってどこか活気があった。

 藤野という表札のある五〇三号室のチャイムを鳴らすと、

「久しぶりねえ!」

 と母の可南子がうれしそうに出迎えた。

「あら、素敵なワンピースね」

 と可南子は富貴の着ているワンピースのスカートの部分を引っ張って、

「涼しそうな生地ね、いいじゃない」

 と言った。以前はそんな馴れ馴れしい母のやり方に、いちいち苛ついていたこともあったのだが…、なんでだろう、懐かしいような愛しいような思いがあふれてきているようだった。

「これ、東野のお義母さんが作って下さったものよ。もう古いの。前にも着ていたことがあるでしょ?」

「あら、そうだった?」

 可南子はいつもこんな感じだ。いつも陽気に富貴を誉めるが、特に何かを気に留めているわけではない。

「皆で、食べようと思って、作って来たの」

 と、富貴は三段になった弁当のお重をテーブルの上にドンと置いた。

「あら、いいわね!」

 可南子はうれしそうにそれを包んでいる風呂敷を解いた。

 相変わらず、家の中は雑然としていた。富貴はまずテーブルの上のものをまとめて、重ねて、置き場所を探し、とりあえずの食卓を整えた。

「すごい! こんなお弁当、運動会みたいだね! ねえ、お父さん来てごらんよ」

 と可南子が夫の同仁を呼んだ。

「どらどら」

 下着のようなメリヤスの白いシャツに、白いすててこのような物を着て、父が奥から出てきた。

「やあ。たまにはいいね。こういうの」

「ね、いいね、いいね。健人も呼ぼう。きっとお昼まだだし、暇にしてるし、こんなにたくさんあるんだもの、いいよね、富貴?」

 このざわざわとした空気を忘れていたな、と富貴はぼんやりと思った。

 富貴? と聞いたわりには、富貴の答えも待たず、可南子はもう健人に電話をかけていた。

「お姉ちゃんがね、ごちそう持って来てくれたのよ! すごい久しぶりよ。来てごらんよ、びっくりするよ」

 富貴の弟の健人が、妻の美弥を連れて、すぐにやって来た。ざわめきが倍にふくらんだ。

 皆で食卓を囲み、父が缶ビールを開け、富貴以外の皆に注いだ。

「わたしも、ちょっといただいてみようかな」

 富貴が言うと、母がおどけたように、

「え! 富貴、飲めるの?」

 と言った。

「健人ね、今年定年退職したけど、嘱託でまだ仕事行っているのよ。ありがたいことだわ。動けるうちに動いておくのが一番よ」

 母はいつものように、何でも笑い飛ばした。

 富貴の頭の中には蜘蛛の巣が張ったようになっており、皆が話す言葉の強弱がもわもわと絡まって耳に入ってくるようで、意味を取るのが難しかった。

「お義母様は、どう? お元気? おいくつだったかしら? どこかに行ってらっしゃるんでしょ?」

 母が一度にいくつかの質問を投げて来たので、富貴は目がくらんだ。

「あ、お義母さんは、九二歳になりました。ええと…。元気だけれど、もう一人ではあまり動けないの。デイサービスに三日も通うようになって…」

「いいこと、いいこと」

「東野さんのお義母さんがもう九十歳かあ。じゃあ、母さんはもっと長く元気でいそうだな、百歳までは行くかな」

 と健人が言うと

「そうだな、おれのが早くあっちに逝く」

 と父が言った。

 それから、親戚のだれがどうとか、健人の息子、娘が家を出て自活して、娘が結婚しそうだとかこうだとか、近所のだれがどうとか、ぐるぐると富貴の頭の周りを意味を含んだ言葉が行き交い、わははと笑い声が起こり、だめだとかいいとか、そうそうとかいやいやとか、相づちが行き交い、富貴は頭がくらくらしていた。

 席を立ち、トイレに入ると、声が少し遠のき、息が楽になったような気がした。

 身体の中に軽いしびれがあるようで、それが心地良かった。

 結局、富貴は話の中には入れず、かといって、弾き出されることもなく、ふんわりとその場に居座ることができた。

楽しかった。

「あんたもいい年なんだしね、身体にはとにかく気をつけてね。それが資本よ」

 母がからからと笑って見送ってくれた。

 その言葉は暖かく心に届き、ポンポンと母が叩いた自分の肩から、さらに暖かい何かが体の中に染みた気がした。

 はて、富貴が昔嫌っていた物はなんだったのだろうか? さっぱり思い出せなかった。


 須恵見がデイサービスから帰って来るまでに家に戻り、須恵見の帰りを待った。玄関の扉、上り口のマット、下駄箱、傘立、電気、その何もかもが愛おしかった。

『なんだい、うっとりしやがって』

 とミロが出て来ていつものようにイヤミを言った。

「ただいま!」

 ミロに言うと、その自分の声が入り口に響き、自分の耳に入って来るまでに、ずいぶんと時間がかかったように感じた。


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