それぞれの場所(5)
連休に旅行しようと平田が言い始めたのはもう五月になろうという時だった。返事を渋っていると、平田が続けて言った。
「どうせ、休みの間、ここ…、この店は閉めるんだろ?」
「そうだけど…」
「ちょうどいい宿が取れたんだよ。こんなに急には取れない所だよ。いい温泉なんだ」
都記子が煮た長ひじきと厚揚げの惣菜をつまみながら、平田は「うまい」と言った。そして、「黒崎は、誘うのはやめよう」と続けて付け足しのように言ったのだが、都記子はそれをどうとらえていいのかわからず、顔をしかめた。
なんなんだ、この人は? 元々黒崎を誘って、この店に来たのは、平田じゃないか。
「それとも、都記子ちゃんは、誘いたいの?」
何が言いたいのだろうか? 返事をするのが億劫だった。
「ね、行くだろ? キャンセルしたくないなあ」
あちこちから言葉を探して、都記子を誘ってくる。都記子は苦笑して、
「そうね、たまにはいいかもしれないね」
と言ってみた。
場所は熱海だった。月並みなのか? 最近は寂れているのか? 心の中では(なんだかなあ)と思いつつも、そのままきっと着いて行ってしまうのだろうな、と都記子はぼんやりと思った。
「あの…、霞さんとはもう連絡していないの?」
と平田が唐突に聞いた。
「え?」
「霞美穂だよ」
「ああ」
と言いながら、都記子は美穂と最後に会った病院でのやりとりを思い出していた。
確か、美穂は乳がんの手術をすると言っていたっけ。その後どうしたのだろうか。店を買い取って手続する数日間、なんとはなしに会っていて、何か話をしたのだろうが、その内容はさっぱり思い出せない。
「霞さんは、もう、この辺にはいないのかしら?」
急に不思議に思って、都記子はなんとはなしに言った。
「いないだろ」
と妙に平田がはっきりしたことを言う。
「知ってるの?」
「いいや、知らないけどさ。いるんなら、いるだろ。ほら、うちのさ、弟の家の並びだったんだ。霞さんの実家は…」
「へえ」
「そこに戻って来ていただろ。ほら、このスナックの所まで、霞さんは通っていただろ。だけど、どうもいないみたいだな」
都記子の頭の中でぐるぐると実態のないものがかき回された。
「ああ、平田君、ここに通っていたのね、霞さんがやっていた頃から!」
「え? な、なんだよ急に」
急に何かがつながったような気がした。
「そんな風に思いもしなかった」
「だって、それだから、ここを知っていたんじゃないか。あたりまえだろ? 今だって、店の名前は同じなわけだし」
「そういうことか…」
と、都記子は平田をまじまじと見つめた。
「な、なんだよ」
「霞さんとも…、つきあっていたってこと?」
「ま、まさか」
「何、まさかって」
こんな平田みたいな男に対して、嫉妬心を持っている自分が、なんだか情けなかった。
「あんなきれいな人、おれの相手してくれるわけないじゃないか」
じゃあ、都記子はいったい何なのか。
「どうせ、あたしはあんたみたいな、しょぼくれ男しか相手にできないってそういうことか…」
「おい、なんなんだよ」
それからなんだかつまらないような気分になって、都記子はぶすっとしていた。
「いいじゃないか、ほら、ちょっと旅行にでも行って、気分転換しよう。そうすりゃあいいことあるよ」
にやっとしたその笑顔にぞっとしながらも、今、この男を振り切れない自分がさらに情けなく思えた。
ふいに、東野の家を初めて訪ねた時のことが思い出された。高校を卒業したての頃だった。
「ちょっと寄って行かないか?」
と言われて、都記子の胸は高鳴った。東野と自分がつきあっていることが、誇らしかった頃だ。
家に入ると母の須恵見が玄関に出迎え、じろりと都記子を見た、その目の冷たさが忘れられない。ただそこにいるというだけですごく威圧感があった。
「あら、今おつきあいしてるお嬢さん?」
とするりと須恵見は言い、
「この間までおつきあいのあった、あのきれいなお嬢さんは、どうしたの?」
とここまで聞いて東野は「お母さん!」とたしなめたが、都記子は耐えられず、「失礼します」と言って、玄関を出た。
その後、東野と会った時に東野が言った。
「いやあ、女ってわからないもんだな。母があんな風に言う人だとは、わからなかった」
「そうなの?」
「いつも、誰かおつきあいしている人がいたら、連れていらっしゃい、と言っていたのに」
「ふうん」
「この間まで付き合っていたきれいなお嬢さんって、だれ? その人を連れて行った時はどうだったの?」という言葉が口もとまで出そうになっていたのだけれど、それを言うことはできず、
「東野君は、どうしたいの?」
と聞くと
「大学が決まったし、まずは勉強だろう。そういうことが言いたかったんだと思うよ。母は」
「へえ」
東野のことが好きでたまらなかったのに、なにかすごく冷たい物にぶち当たって、自分の頭も冷めていくのを感じた。特に別れようとか、そんなやりとりはなかったけれど、どんどん距離が離れるだろうという予感はあった。
都記子は短大に進学し、東野をたまに駅で見かけることがあってもただ挨拶するだけになり、時にはすがるような思いを抱いたり、誘って欲しいと願ったこともあったけれど、それをかき消すように、ほかの楽しみを探すようになった。
「おい、何考えてるんだ?」
と平田が都記子をこっちの世界に呼び戻した。
「別に…」
と答えながら、
「ね、どういう所? その宿って?」
と平田の話に乗ってみた。
「これ、有名な大きい旅館で、海に面している部屋がいいらしいんだ。弟が…、行ったことがあって、それで…」
平田は得意げにその旅館のパンフレットを広げ、都記子に見せ、
「露天風呂が部屋ごとについている。海が見える所に」
とうれしそうにその写真を指し示した。
「じゃあ、平田君が持ってくれるのね、旅行の費用は」
「そりゃあそうさ」
胸を張って言う平田の単純さが、都記子の気分をなだめた。
「いいかもね。たまには」
「ね、そうだろ。そういうもんだよ、旅行ってものは」
そこに行けば何か新しい物が見えるだろうか。この人の中にも? まさか…、でもまあ乗ってみてもいいのではないか。ただこの男が浮かれているその気分に着いていってもいいのではないか? 都記子はパンフレットに目を戻して、
「どんな食事が出るのかしら?」
と言ってみた。その言葉が呪文になって、なにかすごく楽しい物がそこにあるような魅力ある場所に変えてしまうような気がして、不思議に思う。こんなたわいのないものに、ときめくものを見つけられるなんて…。都記子はふっと笑みをもらし、他に訪ねてみたい所はどこか、などと平田との話をつないだ。




