それぞれの場所(4)
それからもくもくと夕飯の支度をして、須恵見の元に夕飯を運び、食べさせ、自分も食べて、須恵見が起きている間は須恵見の見えるところでキルトを作り、うつらうつら居眠りをしている須恵見を立たせ、ベッドに寝かせてから、ふっとため息をついた。
ミロはそのため息を聞きのがさなかった。
『ふん、お疲れか』
須恵見はミロを見つめるとニッコリと笑った。
「疲れている? たしかに疲れているかもしれないわね。でもこれは心地良い疲れなの。今日一日、頑張りましたという、印のようなものね」
『ふん』
ミロは、富貴にかまい飽きたのか、横になっている須恵見のそばに寄り添い、じっと目を閉じた。
富貴は浴室の扉を開けた。もう須恵見はこの浴室を使えないかもしれない。そう思うと少し寂しかった。湯船に身を浸し、ゆっくりと湯を浴びて、一日の汚れを洗い落とすと、さらに快い疲れが身体全体に行き渡っていくのを感じた。
寝支度を整え寝室に入ると、暗がりに翔太が立っていた。ここ数日、富貴には翔太が見えるようになっていた。
最初はぎょっとした。ミロがそれをおもしろがって
『小娘じゃあるまいし、怯えやがって…、ふん』
と言ったので、はっとした。
翔太は何も言わず、ただ立っていて、そばに行って触ってみようとしても触れなかった。これが幽霊というものなのだろうか?
「どうしたの? あなた? 何か言いたいことでもあるの?」
翔太は確かにそこにいる。はっきり富貴の目に見えている。だけれどそれは実態のない影のようなもので、翔太自身ではないということも富貴にはわかっていた。
翔太は何も言わずに、ただそこにいるだけだった。
「いやあねえ、あなた…。何か言いたいのなら、言ったらいいのに」
翔太の目の焦点は合っていないようだった。ぼんやり、どことも言えないどこかを迷うように見つめていて、うつろだった。
「そんな風にずっと立っていらして、疲れないの?」
何も答えない。そんな翔太を見つめていると、富貴の目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。
「こんな風だったわね、ずっと。あなたはいたけれど、いないようだった。今、あなたはいないのに、いるように見えるのね」
富貴が布団に入り込んでも翔太はそこに立っていた。
ミロがふらりとやって来て、富貴の布団に滑り込んだ。
「あなたには翔太さんが見えるの?」
と富貴が聞いた。
ミロは確かにその言葉がわかったと言うように翔太の方を見つめ「ニャア」と返事をした。
「そう。なんなのかしら、翔太さんはあたしのことを責めに来たのかしら」
ミロはそれには答えず、まどろみはじめていた。
ミロをそっとなでていると、昔の記憶がよみがえった。十年くらい前のことだろうか。堀江未知と翔太がつきあっているとはわからなかったが、誰か翔太には思いを寄せる女性がいるのではないかと、ふと思い当る日があったのだ。
なにげないことだった。
ある日洗濯をしていて、翔太の下着が新品であることに気が付いたのだ。
結婚してからずっと、富貴は翔太の下着を揃えていた。それが自分の仕事だと思っていたし何か疑問に思ったことはなかった。何年もの間、同じメーカーの同じ下着を買い揃えていた。けれど、まず必ず水通しをしてからタンスにしまっていた。新品の下着を翔太の手の届くところに用意しておくことはないはずだった。
富貴は自分が試されているように感じ、心の中に小さい怒りの炎が起こった。
翔太を注意深く見てみたのだけれど、何もわからなかった。翔太は何も変わったそぶりを見せず、結婚した時から何が違っているのか、さっぱりわからなかった。いつも同じようなものだった。
それから、翔太の帰りが遅くなる時があると、富貴はじりじりとするようになった。自分が疎まれ、弾き出されようとしているように感じた。そして、ある日、翔太の入浴中に翔太の携帯を開き、電話帳を確かめたのだ。
まったくどこの誰ともわからないし、何の手がかりもなかったのだけれど、ただ「M」と記されているその電話番号が気になった。
富貴は高鳴る胸を鎮めて、自分の怒りに集中した。そして、その名前を選び、電話番号を選び、メニューの「発信」を押したのだ。声を聞くのは恐ろしかった。富貴は電話を耳には当てなかった。
「はい? 東野さん? どうしたの?」
女性とわかる声が携帯電話からもれて聞こえた。
富貴の心臓は痛いくらいに波打っていて、怒りを抑えることができなくなりそうだった。その時、何をどうしたらいいのかはわからなかった。ただ、電話を切り、元の場所、翔太がいつも充電をしている充電器にそっと戻した。手が震え、呼吸が乱れていた。富貴は深く息をして呼吸を整えた。電話を投げつけないように押し止める理性は残っていた。
そのたった一回の無言電話が翔太と堀江未知の間に何か波紋を残したのか? どうか? 富貴は知らない。ただその時に自分が帰属しているものがわかったのだ。富貴はただ、自分の居場所が揺るぎなくここにありさえすればいいのだ、と悟ったのだ。
「あなたも苦しんだのね。でも、あたしも苦しんだのよ」
富貴はまだそこに立ち尽くしている翔太をしばらく見つめていたが、やがて目を閉じた。
『ふん。苦しんだなんて、大げさな。見て見ぬふりってやつだろ?』
ミロはふてくされたように言うと、富貴に寄り添い、目を閉じた。




