表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

それぞれの場所(3)

 黒いレース地に白い縁取りのあるお気に入りの日傘を閉じ、富貴は家の扉を開けた。

『ふん、気取っていやがる』

 とミロが玄関口で出迎えた。

「なんとでも」と言いながら、富貴は浮き立つ気持ちを鎮めようとしていた。

 須恵見がデイサービスに通っている間に、陶芸教室に通うことにしたのだけれど、これが思いのほか楽しく、日々を彩るように感じていた。

『とにかく、飯にしてくれ』

「ちょっと待ってちょうだい。あたしにだってやることの順番ってものがあるのよ」

 浮き立つ足を一歩一歩確かめるように、家に上がり、富貴はミロに話しかけた。

『ふん』

 いつもながら、ミロは悪意のある眼差しで富貴を見つめ、富貴は陶酔しているように天井を見つめた。

「あんなところに!」

 ふと掃除を怠っている間に、そこに蜘蛛の巣がはっていた。

『ふん』

 ミロはそんな富貴にはかまわず、その場でぐっと背中を伸ばした。

「いやだわ。いつもきれにしているのに」

 富貴は苛立ちながら、モップを持って来て、その蜘蛛の巣をからめ取った。

「今度のお休みにちゃんと脚立を用意して、掃除をするわ」

『ふん、いつだって休みみたいなものなのにな』

 富貴はミロの悪態には答えず、陶芸教室からの道すがら、買って来た果物などをしまおうと、うきうきとキッチンへ行った。もうすぐ、須恵見が帰って来る。それが楽しみだった。


 こまめに時間を確認しながら夕食の支度を始め、デイサービスのバスが着く予定時刻の四時半には鏡をのぞき、身づくろいをし、玄関先のふき掃除をしながら、バスの音を待った。

 家の前にバスが止まる音が聞こえた。


 富貴はドアを開け、須恵見の乗った車いすが玄関先に到着するのを笑顔で迎えた。

「お帰りなさい」

 須恵見は、表情のない目で富貴を見つめ、

「ただいま」と答えた。

 デイサービスの職員と次回の日程などを確認し、連絡事項を確認した。

 玄関口から、いつもの居場所になっている揺り椅子まで、須恵見は一歩一歩確かめるように、富貴につかまって歩いた。

「もう、行きたくないのよ」

 と須恵見は言った。

「あら? 何かあったんですか?」

「だってね、知らない人ばかりなの。いろいろ誘って下さっても、ちっとも楽しくはないわ」

「そんなことないでしょ、山口さんが、今日はお食事もちゃんと食べて、皆と一緒に歌を歌って塗り絵をしましたって、報告して下さったわよ」

「食べた? 何を?」

「お昼ご飯よ」

「さてね。そんなもの出してはくれないのよ」

「お風呂にも入れて下さったでしょ?」

「お風呂? そうね、そうだったかしら」

「さっぱりしたでしょ?」

「さっぱり? そうね、そうかしらね」

 須恵見は富貴にたより、ゆっくりと揺り椅子に座った。

「ここでいいわ。翔太が帰って来たら教えてちょうだい」

「はいはい」

 と須恵見は言い、鼻唄を口ずさみながら、ミロを見た。

『しょうがねえな』

「あら、そんな言葉使い、やめてちょうだい」

 須恵見は大袋からシャラシャラとキャットフードをミロの皿に注ぎ入れると、一息ついた。

「お腹が空いたよ」

 と須恵見が言った。

「はいはい」富貴は楽しそうに、冷蔵庫を開けて、須恵見が好きな水羊羹を皿に乗せた。

「どう、お母さん。これなら、好きでしょ? ご飯まではまだ少し時間がかかるから、ちょっとこれをいただきましょ」

 須恵見は富貴が口に運ぶ水羊羹を味わいながら、

「翔太は遅いねえ」

 とポツリと言った。

「そうね。遅いですね」

「何をやっているのかしら」

 と、富貴は空を見つめ、「そういえば…、翔太さん、歌を歌うのが好きだったわね」と言った。

「ええ、ええ、とってもね上手なの」

 須恵見はやっとにっこりと笑った。

「ほら、玄関にあるでしょ。もらってきたの」

「トロフィーね」

「翔太はいろいろな物を持ってきたわ」

「そう」

「でもね、わたしはね、きれいなものが好きなの。色々な色がつながって、きれいなものがいいわね」

 富貴は作り始めているキルトを須恵見に見せた。

「ほうら、こうやってお母さんが作って下さったような、きれいな物を作っていますよ」

 須恵見はぼんやりとその布に目を泳がせた。

「汚い物はね、捨ててもらったの。いつでも翔太はよくやってくれた。とても聞きわけが良かったのよ」

「それは良かったですね」

「どこに捨てたのかしら。全部なくなってしまったのよ。捨てた所がわからないの」

「捨てたものは、いいんですよ。わからなくなっても」

「いいもんですか! そんなことがいいわけがないわ!」

 須恵見は険しい表情を作ると、口を固く閉じた。富貴が水羊羹の乗ったスプーンを唇に当てても開こうとしない。

「いいんですか? お義母さん? もう食べないの?」

 須恵見は何も答えず、一点をじっと見つめ、動こうともしなかった。

 富貴は須恵見の口に水羊羹を運ぶのをあきらめて、須恵見の肩を優しくたたくと、

「もうすぐ、ご飯ですからね」

 と言った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ