それぞれの場所(3)
黒いレース地に白い縁取りのあるお気に入りの日傘を閉じ、富貴は家の扉を開けた。
『ふん、気取っていやがる』
とミロが玄関口で出迎えた。
「なんとでも」と言いながら、富貴は浮き立つ気持ちを鎮めようとしていた。
須恵見がデイサービスに通っている間に、陶芸教室に通うことにしたのだけれど、これが思いのほか楽しく、日々を彩るように感じていた。
『とにかく、飯にしてくれ』
「ちょっと待ってちょうだい。あたしにだってやることの順番ってものがあるのよ」
浮き立つ足を一歩一歩確かめるように、家に上がり、富貴はミロに話しかけた。
『ふん』
いつもながら、ミロは悪意のある眼差しで富貴を見つめ、富貴は陶酔しているように天井を見つめた。
「あんなところに!」
ふと掃除を怠っている間に、そこに蜘蛛の巣がはっていた。
『ふん』
ミロはそんな富貴にはかまわず、その場でぐっと背中を伸ばした。
「いやだわ。いつもきれにしているのに」
富貴は苛立ちながら、モップを持って来て、その蜘蛛の巣をからめ取った。
「今度のお休みにちゃんと脚立を用意して、掃除をするわ」
『ふん、いつだって休みみたいなものなのにな』
富貴はミロの悪態には答えず、陶芸教室からの道すがら、買って来た果物などをしまおうと、うきうきとキッチンへ行った。もうすぐ、須恵見が帰って来る。それが楽しみだった。
こまめに時間を確認しながら夕食の支度を始め、デイサービスのバスが着く予定時刻の四時半には鏡をのぞき、身づくろいをし、玄関先のふき掃除をしながら、バスの音を待った。
家の前にバスが止まる音が聞こえた。
富貴はドアを開け、須恵見の乗った車いすが玄関先に到着するのを笑顔で迎えた。
「お帰りなさい」
須恵見は、表情のない目で富貴を見つめ、
「ただいま」と答えた。
デイサービスの職員と次回の日程などを確認し、連絡事項を確認した。
玄関口から、いつもの居場所になっている揺り椅子まで、須恵見は一歩一歩確かめるように、富貴につかまって歩いた。
「もう、行きたくないのよ」
と須恵見は言った。
「あら? 何かあったんですか?」
「だってね、知らない人ばかりなの。いろいろ誘って下さっても、ちっとも楽しくはないわ」
「そんなことないでしょ、山口さんが、今日はお食事もちゃんと食べて、皆と一緒に歌を歌って塗り絵をしましたって、報告して下さったわよ」
「食べた? 何を?」
「お昼ご飯よ」
「さてね。そんなもの出してはくれないのよ」
「お風呂にも入れて下さったでしょ?」
「お風呂? そうね、そうだったかしら」
「さっぱりしたでしょ?」
「さっぱり? そうね、そうかしらね」
須恵見は富貴にたより、ゆっくりと揺り椅子に座った。
「ここでいいわ。翔太が帰って来たら教えてちょうだい」
「はいはい」
と須恵見は言い、鼻唄を口ずさみながら、ミロを見た。
『しょうがねえな』
「あら、そんな言葉使い、やめてちょうだい」
須恵見は大袋からシャラシャラとキャットフードをミロの皿に注ぎ入れると、一息ついた。
「お腹が空いたよ」
と須恵見が言った。
「はいはい」富貴は楽しそうに、冷蔵庫を開けて、須恵見が好きな水羊羹を皿に乗せた。
「どう、お母さん。これなら、好きでしょ? ご飯まではまだ少し時間がかかるから、ちょっとこれをいただきましょ」
須恵見は富貴が口に運ぶ水羊羹を味わいながら、
「翔太は遅いねえ」
とポツリと言った。
「そうね。遅いですね」
「何をやっているのかしら」
と、富貴は空を見つめ、「そういえば…、翔太さん、歌を歌うのが好きだったわね」と言った。
「ええ、ええ、とってもね上手なの」
須恵見はやっとにっこりと笑った。
「ほら、玄関にあるでしょ。もらってきたの」
「トロフィーね」
「翔太はいろいろな物を持ってきたわ」
「そう」
「でもね、わたしはね、きれいなものが好きなの。色々な色がつながって、きれいなものがいいわね」
富貴は作り始めているキルトを須恵見に見せた。
「ほうら、こうやってお母さんが作って下さったような、きれいな物を作っていますよ」
須恵見はぼんやりとその布に目を泳がせた。
「汚い物はね、捨ててもらったの。いつでも翔太はよくやってくれた。とても聞きわけが良かったのよ」
「それは良かったですね」
「どこに捨てたのかしら。全部なくなってしまったのよ。捨てた所がわからないの」
「捨てたものは、いいんですよ。わからなくなっても」
「いいもんですか! そんなことがいいわけがないわ!」
須恵見は険しい表情を作ると、口を固く閉じた。富貴が水羊羹の乗ったスプーンを唇に当てても開こうとしない。
「いいんですか? お義母さん? もう食べないの?」
須恵見は何も答えず、一点をじっと見つめ、動こうともしなかった。
富貴は須恵見の口に水羊羹を運ぶのをあきらめて、須恵見の肩を優しくたたくと、
「もうすぐ、ご飯ですからね」
と言った。




