7 母親
「さぁ、正直に教えなさい」
家に着くなり、母親はソファに座るように促した。
言われるがままに座ると、俺の隣にどかっとスーツを着たまま座り、がっと俺の肩に腕を回して顔を近づける。
「さぁ、さぁ」
肌荒れてきてるなぁ。もう四十代後半になるんだもんなぁ。
「肌をじっと見ない。そこはぼかして見るのが、優しい人の在り方よ」
「はい……」
読まれた。さすが、親。
「利樹君から多少は聞いたけど、いつから眠れてないの?」
どう言い逃れしようかと考えていたら、すでに利樹がげろっていた。
「利樹め……どうしてくれよう」
「あなたが早く私たちに相談しないから、こんなことになるのよ。倒れたのが学校で、ぶつけた頭も大したことなかったからよかったものの、道路とか、階段とかで倒れていたらどうなるのか、簡単に想像できるわよね」
「……」
「佐潟先生のところ行きたくなかったから、言わなかったんでしょうけど」
その通りだ。親に言ったら、絶対にあそこに行けと言われるから話さなかった。
「大丈夫だって」
「もう電話しておいたから。明日は学校休んで、佐潟先生のところに行きなさい。あなたが来なかったら連絡してくださいって、ちゃんと言っておいたから」
「そこまで構わなくても大丈夫だよ。確かに今日は失敗したけど、ちゃんと俺やれるから」
「あら、こんなこと言いたくないけど。お母さん、今日の会議ドタキャンしたのよね」
「……」
「今日締め切りだった仕事もあるから、これから職場に戻らないといけないのよねー」
ちらりと、テレビ台にある時計を見ると、時刻は六時だった。母の仕事場まで、家からは片道一時間半はかかる。
「もちろん。息子が優先よ。上司ににらまれたし、アホな後輩には子がいると大変ですねぇって皮肉言われちゃったけど、そりゃあ家族と楽しく暮らすために働いているんだもの。だから、あなたはその点に関しては、一切悪いだなんて思う必要はない。だけど、心配させたことについては申し訳ない程度には感じてほしいわね」
ぎゅっと肩を抱きしめられる。
逃げたい。
この年にもなって、母親からこういうことされるとか、本当に嫌だ。
でも優しくない抱擁は、俺の体を痛いくらい締め付ける。
「電車が止まった時には窓を壊して出てやろうかと思ったし、学校の先生に病院に連れてってくださいとお願いしたのに、いや、でも、とかそればっかり言うし、教育委員会の電話番号を検索して、かける一歩手前で電車が動き出して、みんな命拾いしたわね」
恐ろしい話だった。
俺の学校は家から電車で三十分、母親の職場とは逆方向である。その時間ずっと、母親がどんな気持ちだったかを想像するだけで申し訳なさが募った。
「さて、さっと晩御飯を食べましょう」
「……すぐに仕事戻らなくて大丈夫なのか?」
「電車の中である程度片づけられたから。残りは社内でしか触れないものの整理くらいだから大丈夫よ。カレーを息子と食べる時間ぐらいはあるわ」
最後に俺の髪をガシガシと乱暴にかくと、「よし」と呟いて立ち上がり、キッチンへと向かう。
「父さんも八時頃には帰ってくるから」
「えっ!」
思わず声をあげてしまった。最近、父は零時をまたいで帰ってくる日がほとんどだった。
「珍しい……」
母はあくまで仕事は家族の利益のためだが、父は仕事大好き人間だ。遊ぶ約束などを事前に入れとかないと、余計な仕事まで入れて休日もずっと働き続けるほどのワーカーホリックだ。
「それほど父さんもあなたのこと心配してるのよ。大人になって来たからって、ちょっと目を離しすぎてしまったのかもしれないって、落ち込んでたわよ」
「……」
「お母さんも反省したわ。耀大は大人になって昔より強くなって来たけど、まだ子供だものね。気づけなくて、ごめんなさい」
「やめてくれよ、そんな」
真っすぐに見られると、目を逸らしてしまう。親に言わなかったのは本当にあの先生に会いたくなかっただけ。それだけの子供っぽい動機だった。
「来月、行くんだろ。ヨーロッパ旅行」
二年かけて計画した、十日間の海外旅行。そのために最近、両親は根を詰めて、仕事を消化させている。
大学に入ったら家を出て一人暮らしをするかもしれない。その前に、大学受験が始まる前のこの時期に家族で旅行したいというのが両親の意向だった。
「わかってるし……その、ちゃんと先生の言うこと聞くよ」
感謝とかそういうことも言いたかったけど、言葉にならず言えたのはそれだけだった。
でも母親は満足したようで。
「よろしい。ではカレーに冷凍ハンバーグを加えてあげよう」
なんて、嬉しそうに笑って言った。