祭壇のベッド
アンの部屋に来るまでの記憶は、薄く靄がかかっていた。ただ彼女に手を引かれ、ここまで辿り着いた。家に入った時、玄関でアンの母親と会った。その人は私を見ても何も言わなかった。きっと私が、自分の娘と同じドールだという事に気づいていたんだと思う。ただ私をそっと抱きしめ、頭を撫でてくれた。体全体の細さと、優しげな目元がアンに似ていた。
部屋はまるでアンの為に作られた祭壇のようだった。清潔感のあるフローリングを敷いた十畳ほどの部屋の中心に、大型の医療用ベッドが置かれていた。沢山の本とぬいぐるみが、それを取り囲んでいた。まるでそこに眠る人間を応援するかのように。寂しくならないように。
空間全体が死後の世界に送り出す為の準備を整えているように、私には見えた。
アンが私の手を取り、ベッドにそっと寝かせてくれた。そして二人で向かい合い、制服を着たまま横になった。
私には眠ったという記憶が無かった。睡眠を必要としない私の体は、常に命令の為に動いていた。命令が無い時は、檻のような殺風景な部屋の隅で、膝を抱えてただじっとしていた。
目を閉じる事が怖かった。暗く深い穴の中に落ちていくような気がした。
アンが私の両手をそっと握ってくれた。私は指を絡ませ、その細い指にしがみついた。
私は彼女に願った。
「名前を呼んで…」
「レナ…」
私はゆっくり目を閉じた。
アンは語ってくれた。これまでの人生を。私は目を閉じてそれを聞いた。
四角い部屋の中が、アンの人生のほとんどだった。彼女の命を救った子は、初めから自分の命を誰かに託すつもりで逃げ出していた。病院の待合室のベンチで、その子とアンは出会っていた。治る見込みの無い病を抱え、生きる事を投げだそうと思っていたアンの隣に座り、その子はこう言った。
「私の命を、もらって欲しい」
私も話した。これまでの行いを。アンは私の手を握って、それを聞いてくれた。
たくさんの仲間の命を奪ってきた。たくさんの『助けて』という言葉を無視してきた。たくさんの未来を暗闇に落としてきた。
窓の外から静かな雨音が聞こえてきた。いつのまにか雨が降り始めていた。話を終えた私は、その音を聞きながら眠りへ落ちていった。初めての眠りだった。
夢をみた。私は小さな女の子だった。母親に手を繋がれ、買ってもらった新しい赤い靴を履いて歩いていた。繋いだ手の先を見上げてみても、顔は見えなかった。どこか懐かしい手の感触と、お腹が空いて夕飯を待ちわびている気持ち。反対の手に買い物袋を持ったその人と、夕陽を浴びた団地へ向かうその光景は、消されたはずの記憶の断片だった。
雨は止み、静かな朝を迎えた。窓から差し込む日の光が私たちを優しく照らした。アンはベッドの上で体を起こし、私を抱きしめた。
「レナ、もう、傷つかないで…」
「………」
「一緒に逃げよう…」
「うん…」
私も彼女を強く抱きしめた。私は人間になった。
次の日の早朝、アンの父と母にさよならを告げた。私たちが旅立つ事を告げると、二人はそっと涙を流していた。いつか別れる日が来ることを、ずっと以前から受け止めていたようだった。
涙と共に何度も『元気でね』と繰り返す両親に、アンも同じように涙を浮かべて『今までありがとう』と答えていた。そしてアンの両親が最後に私の名前を呼んでくれた。私は自分の両親の顔も名前も憶えていない。でも、本当の父と母に名前を呼んでもらえたような気がして嬉しかった。
小さなボストンバッグを一つだけ持って、私とアンは始発電車へと向かった。




