胸の中心
アンと出会ってから、生徒の情報を集める事は滞りがちになった。誰と話をしていても、いつも彼女の事が頭のどこかにあった。
そして、アンという女の子の存在が、たびたび私の頭の中でいっぱいに広がった。それは日常のふとした瞬間。自宅の鍵を開ける時だったり、制服に袖を通す時だったり、彼女に似た後ろ姿を目にした時だったりした。妄想の中のアンはいつも私の名を呼んだ。『レナ…』甘く透き通るような声で。それを聞くと体全体が彼女を求めるように仄かな熱を帯びた。本当の口で、本当の声で、優しく名前を呼んで欲しくてたまらない気持ちになった。
そんな時は携帯のカメラで密かに撮っておいた彼女の横顔を、じっと見つめ続けた。そうやって、おかしくなりそうな自分を何とか押さえつけた。
そんな子に出会ったのは生まれて初めてだった。
私はアンの事をユイに言うことができなかった。アンがまるで、私だけが見つけた秘密の宝物のように思えた。
お昼休みの体育館裏での時間は、少しづつ沈黙に支配されるようになった。ユイは心配そうな顔で私を見るようになっていた。その事に気づいてはいたけれど、ユイに何と言っていいか分からなかった。
隣に座るユイが、私に体を預けながらつぶやいた。
「レナ…つらそうな…顔してる…」
「十七歳の女の子でい続けることに、少し疲れただけだよ…」
「そうなの…?」
「うん…」
「何か…隠してる?」
「…隠してないよ」
私は精一杯の優しい声で、ユイに嘘をついた。
ユイが私の胸にしがみついて言った。
「自分に嘘をつくのって…つらいよ……」
「そうだね…」
「友達は…レナだけでいいよ……」
「それじゃ、だめだよ…」
私は精一杯の励ましの手つきで、ユイの頭を撫でた。
五月の体育館裏の日陰は、まだ少し肌寒かった。
私は少し怖かった。いつかユイが自分に与えられた役目から逃げ出してしまう気がした。もしその時が来たら、私はユイを…殺さないといけない。
私にも与えられた役目がある。そこから逃れることはできなかった。
次の日の休み時間、N組を訪れた私は、初めてアンに声をかけた。
「橘さん、だよね?」
「うん…」
「私、A組の日暮レナっていうの。よろしく」
「うん…」
「私、手相占いに凝ってて。今いろんな人の見てるんだ。それで、橘さんのも見てみたいなって思うんだけど。どうかな?」
「ありがとう……でも、ごめん……」
「そっか…」
橘アンは手を触らせてくれなかった。
その日の放課後、下駄箱で私はまた彼女に声をかけた。
「ねえ、橘さん。一緒に帰らない?」
「うん…」
二人きり、無言のまま並んで歩いた。
会話の話題はいくらでも思いつくことが出来た。口数の少ない子とも何度か距離を縮めてきた。でも私はただ二人だけで歩く事を選んだ。彼女の近くで同じ時間を過ごせればいい。ただそれだけを思っていた。
一日の終わりを告げる昼と夜の狭間の光が、私たちの影を長く引き伸ばした。影は歩くたびに不安定に揺れた。
人気の少ない住宅街の交差点にたどり着いた。そこが私たちの帰りの分かれ道だった。
私は胸の横で小さく手を振って、アンに言った。
「じゃあ、またね…」
「うん、また明日…」
アンも私と鏡写しのようなポーズでそう言った。
『さよなら』でなく『また明日』と言ってくれた事が嬉しかった。
それから私の放課後は変わった。
いろんな子に話しかけるのを止め、毎日下駄箱でアンを待つようになった。そして帰り道を一緒に並んで歩いた。アンはずっと無言だった。そして別れる時はいつも寂しげな表情を浮かべた。まるで私が一歩踏み出すのを待っているかのようだった。
ずっとこのままでいたかった。でもそれはできなかった。
私は決意した。
「待って…」
五日目の分かれ道に差し掛かった時、私はアンを呼び止めた。
私たちは向かい合って、まっすぐ見つめ合った。アンは悲しげな表情をしていた。でもどこか覚悟を持った眼差しだった。その瞳を見て、私は彼女が全て気づいていると悟った。
私はアンに近づき、彼女の胸の中心にそっと手を当てた。抵抗はされなかった。
アンの胸は鼓動していなかった。
私は探していた女の子を見つけた。
彼女が口を開いた。
「あなたは…ドールなの?」
私は答えた。
「そうだよ…」




