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心の色―2

作者: 林檎

かなり暗いです。読んで気分を害す方も居るかもしれません。書いてる私も暗い気分になったので…。ご注意下さい。

 「夕日って、綺麗なんですね」

初めて見たかのように、ほうとため息を吐きながら貞雅が言った。

栄養失調気味の、広くて痛々しい肩が頼りない。

「なんで、敬語?」

口を動かすと漏れる煙草の煙が、目の前の夕日を滲ませた。

「お前にじゃなくて、夕日に言ったんだよ」

貞雅の目はどこか遠くを見つめていた。夕日を見ているんじゃない気がした。

私は呆けたような顔で煙草を吹かす。

「ねぇ貞雅。夕日に、心はあると思う?」

私が言っても、貞雅は表情を変えない。だからこんな突拍子もない質問も、ごく普通の会話として空気中の粒子となる。オレンジの光に負ける。

「夕日様」

唯でさえ低い声を、もっと低くして貞雅は呟いた。

「僕に新しい心を下さい」



 貞雅が首を吊ったのはその翌日の午後で、多分貞雅がロープに首をかけたであろう時に、私は大学で講義を聞いていた。

電話の向こうから告げられた突然の訃報にも、私はさほど驚かなかった。

「通夜は明日の夜。葬式は明後日の午前10時からだって」

トーンを抑えた友人の控え目な口調が鼓膜を震わせ、私はスケジュール帳に時間を書留めた。ごく事務的に。



 貞雅がおかしくなったのは一年半ぐらい前の事だ。

原因はよく知らない。理由なんか尋ねた事がなかったから。

一緒に居ても、何か一人でブツブツ呟いている事が多くなった。時折、堪らなくなったようにしゃくりあげて泣いた。螺子が外れたように馬鹿食いする時もあれば、水一滴口にするのを嫌がる時もあった。私はそんな貞雅を少し気味悪く思いながらも、何かにつけていつも一緒に居た。

貞雅はいつも一人ぼっちだったし、私も一人ぼっちだったからだ。

 ある日、貞雅は言った。

「お前、幸せの作り方を知っているか?」

私は即答した。

「知るわけがない」

貞雅は少しうなだれたようにして、

「分かった時は教えてくれ」

とゆっくり目を閉じた。




 出棺の直前、見知った沢山の人間が、棺桶の中を覗き込んでおえつした。それが興味本位の行動に見えて、私はひどく嫌悪する。

私は見なかった。貞雅の抜け殻など見たくもない。

 驚く程短い時間で貞雅の身体は煙になった。激しい雨にかき消されるような黒い煙。

貞雅は雨が嫌いだったから、可哀想だと思う。



 貞雅が近いうちに死を選ぶことを、私は早くから予感していた。でも貞雅の人生に踏み込んでねじ曲げる権利は私には無いのだから、どうしようもなかった。

 元気だった頃の貞雅は、人一倍明るくて女の子に人気があった。一緒に草野球のチームを作る仲間も居た。

だけど、おかしくなってからは人間を避けるようになり部屋に引き込もって、みるみるうちに悪化した。そんな貞雅を見舞う人間は一人としていなかった。冷たいものだ。




「みっちゃん」

「何?」

「俺が弁護士になったら、結婚してくれる?」

「は?何さ、突然」

「どうなの?」

「…なんか…貞雅って変」

「答えろって」

「夏川さんと付き合うんじゃないの?」

「だから、昨日断ったって言ったじゃんか」

「…ばか」

「結婚してくれる?」

「…そんな何年も先の話、今からしないでよ」



 どうにも気が進まなくて大学を休んだ。

昨日から降り続いている雨が空気を湿らせている。貞雅が死んでも、世界はそ知らぬ顔で動いていて、なんだか馬鹿らしいと思った。煙草を買いに行くのさえ、億劫だ。外に出たくない。

――新しい心を下さい――

そんなの、無理に決まってるじゃないか。誰も助けてはくれない。誰も分け与えてはくれない。誰も来てくれない。

貞雅。

自分にすら幻滅したら、あんたみたいになるしかないのかな。



 貞雅の葬式の時、まるで自分のそれを見ているような気がした。死んだのは本当は貞雅じゃなくて私で、幽霊になって自分の葬式を傍観している、そんな気分に陥った。不思議な感覚だった。

あまりに一緒に居すぎたのかもしれない。



 貞雅の家に行った。家族の人に頼んで、貞雅の部屋に上げてもらった。

何も片付けられていなくて、一週間前に来た時と同じだった。もぬけの空のベッドが主人を待つように、掛布団を開いている。時計の針の音が嫌いだった貞雅は、デジタル時計を卓上に置いていた。そいつは何食わぬ顔で、緑の数字を刻み続けている。

ベッドに腰を下ろした。

ヤニで黄色くなった壁と、閉めっぱなしのカーテン。音の無い部屋。枕元には彼の服用していた睡眠薬が、半分ほど残されていた。もらって帰ることにしよう。

噂によると、遺書はなかったらしい。きっと言い残したい事など何もなかったのだろう。

貞雅が死ぬ直前に考えていた事など、知りたくはない。死んでからどう思ったかが知りたい。

「悪くはないかい?」

一人で呟いてみたけど、返事はなかった。




 貞雅が死んで一ヶ月が経った。今までちゃんとした人付き合いをしてこなかった私は、びっくりするぐらい一人ぼっちだった。

近頃、脳にチラチラとよぎる考えが怖い。

――私も…――

だけど、そんな勇気がないことが唯一の救いだった。

私は一人暮らしなのでついついご飯を抜いてしまい、みるみる痩せていった。だけど死ぬのが怖いので、なんとかして菓子パンのようなパサパサした物を少しずつ食べた。

大学に行けず、菓子パンをちびちび食べるだけの無為な毎日が続いていた。全身がだるかった。

だけど涙が出ないのは何故だろう。貞雅が死んだというのに、私はまだ一度も泣いていない。

多分、心なんてとうの昔に死にかけているんだと思う。貞雅がまだ居た時から。

貞雅がトイレで吐いている時、背中をさすっていた私。貞雅が暴れた時に、枕を頭に被って怪我するのを防いでいた私。貞雅が腕に躊躇い傷をつけるのをじっと見ていた私。

そんな時から、ずっと私の心は白い布で覆われていたのだ、きっと。何にも期待できないように。




 二ヶ月が過ぎる頃、貞雅の母親から電話がかかってきた。

その頃には私はかなりげっそりしていて、みっともない風貌だった。鏡を見る度に、自分でも引いた。

『遺書が見つかった』

母親はそう言って、

『取りに来て下さい』

と電話を切った。




 貞雅の遺書は私宛だった。

よくお金を集金するのに使うような茶封筒に『みっちゃんへ』と書かれていた。

受け取って帰り道、よく晴れた日だったので河原に寄った。川の流れはきっとサラサラと音を立てていたのだろうけど、全然興味がなかった。涼しい風が吹こうと、木々の新緑が揺れようと。どこかで誰かが面白いジョークを言って笑っていようと、それらは私には全く関係の無いことだった。

封筒を握り占めた手の甲は白く、骨と静脈が浮き出ている。自分の手なのに、気味が悪かった。

 封筒を開くのが怖くて、私はそこで日が暮れるまで立ち尽くしていた。足が痺れて思わずしゃがみこんだのだけど、多分貧血のせいだと気付いた。

『みっちゃんへ』

封筒に書かれた字が震えている。

みっちゃん、なんてずっと呼んでなかったのに。

私は深呼吸して、ゆっくり手紙を取り出した。

しわくちゃの白い紙。

そこには殴り書きされた字があった。

『生きるのには耐えられない。死ぬのは怖い。生きるのには耐えられない。死ぬのは怖い……』

心臓がドクドクして、耳がキーンと鳴った。気を失いそうになった。

『生きるのには耐えられない。死ぬのは怖い…』

何行も何行も、同じことが書かれていた。

息があがる。

ぜぃぜぃと口から変な声を出しながら、私は目をつむった。

ずっと頭の隅っこに追いやっていた貞雅の顔が、ふわりと出てきた。

そっと目を開くと、空があった。オレンジと藍色が混ざった雲が浮いている。

自分が仰向けになっているのだと気付いた。

私はもう一枚の便箋を開いた。

『みっちゃん。夕日はきっと新しい心をくれない。ごめんなさい。みっちゃん。みっちゃん。ごめん。ちょっとだけ冷静になる。みっちゃん、いつもありがとう。お前の事を考えたら、もう少し頑張ってもいいかとも思うのだけど、どうにも参ってしまった。苦しい時間が長すぎた。ずっとお前は汚い俺から離れずに居てくれた。色々ありがとう。』

それで終わりだった。

私は力無く立ち上がり、虚ろなまま足取りもおぼつかず家に帰った。




 あれから一年。

私はなんとか生きている。時々身体を壊しながらも、柔らかくした白米と茹でた鶏肉ぐらいなら食べられるようになった。

大学はやめたけど、まだ一人暮らしをしている。バイトもせず、親からの仕送りで生活している。相変わらず一人ぼっちだ。

部屋の窓から、空の移り変わりを眺めて一日を過ごしている。だけどやっぱり、夕暮れ時にはカーテンを閉める。

 貞雅の遺書は、晴れた日の午後に燃やした。だからもうここには無い。いつまでも持っていても意味が無いし、そんな事きっと貞雅も望んでいない。

 私の心に掛かっている白い布は、剥がれる気配はない。だけど分厚くはならない。その変わり、薄くなることもない。

一年以上も涙を流さない私は、もはや人間では無いのかもしれない。だけど本当に無気力で、何をするにも力がでないのだ。



 コンビニに行って、麦茶と豆腐を買った。雨が降っていて、傘を差しても歩く度にズボンの膝の辺りが湿った。少し熱っぽくて、関節が痛んだ。インフルエンザにでもなったのかな、と思う。

 部屋に戻って体温計を腋にはさむ。ザァザァと騒がしい雨の音。

雨の日は嫌いだ。黒い煙がかき消されたあの日を思い出して気分が悪くなる。

顔が熱い。

少し微熱がある。

面倒くさい。



 横になっているうちに、いつの間にか眠っていた。

 貞雅が夢に出てきた。

意外にも、元気な頃の彼だった。そこでは貞雅が確かに生きていて、私自身も彼が死んだ事をすっかり忘れていた。

よく晴れた日に、貞雅は野球のユニフォームを着てチームの仲間達と河原をランニングしている。

掛け声を上げながら。

数人の男の、低くて威勢のいい声が響いている。

河原には綺麗な女の子が沢山いて、貞雅の名前を呼んで嬉しそうに笑っている。私もよく知っている子達だ。貞雅はいつも女の子に気の効いたジョークを返すので、彼女達はキャァキャァと笑い転げる。貞雅には余裕があって、かっこ良くて、キラキラしていて、私なんかには手の届かない存在だと感じた。憧れた。

私は一人寂しく、橋の上からその光景を見下ろしていた。

――楽しそう。仲間に居れて欲しいな――

ふと、貞雅が立ち止まって私を見上げた。

『みっちゃん』

整った顔は日の光に輝いていて、私の胸はぎゅうっと締め付けられた。

――私、この人が好きだ――

『みっちゃんも、一緒に笑おう』

貞雅が張りのある、よく通る声で言った。

私は嬉しくて、切なくて苦しくて、訳がわからなくなった。

――こんな私を呼んでくれるの?――

貞雅は私に向かって微笑んでいた。

激しい愛しさが胸に込み上げてきて、気付いたら泣いていた。

『ありがとう!貞雅。今行くね』

涙をぬぐって、私は言った。

貞雅が私を呼んでくれた。他に綺麗な女の子が沢山居るのに、こんな私を選んでくれた。

はずむ胸を抱えて、貞雅の所へ降りていく。

貞雅は近寄ってきて、笑って私の手をとってくれた。

背が高くてがっしりした貞雅の胸に、私は勢いよく飛び込んだ。

『貞雅。結婚しようって言ったでしょう?もちろん、いいよ』

半ば必死でそう言った時に、パッと目が覚めた。


 起きた瞬間、夢と現実の区別がつかなかった。頬を不可解な、冷たい涙が伝っていた。

 数分後、突然、現実の闇が私を襲う。

現状が理解できなかった。ただただ、脳みその中を絶望が覆いつくしていた。

心がわし掴みにされて、えぐられる。

息ができない。

苦しい!苦しい!

貞雅!

嫌だ!!こんなの嫌だ!

なんで!なんで!

一人にしないで!!!!

「うわぁぁぁあああ」

叫びながら、私は泣いた。泣いても泣いても、息がまともにできなかった。胸が痛くて、痛くて、どうしようもなかった。

「なんでだよ!なんでだよ!」

誰に言うでもなく、私は大声で叫んだ。

どうしようもなかった。






 大泣きした翌日。私は夕日の見える公園のベンチに座っていた。

あの時と同じ、オレンジの光が辺りを包んでいる。

「夕日って、綺麗なんですね」

私は呟いた。

「貞雅」

煙草を吹かしながら、一人でどこかに向かって話しかけた。どこでもいい。とにかく話したかった。

「貞雅、夕日は新しい心なんかくれないんだね」

煙で夕日がふわふわと滲む。

「だけど、あたし。心の布、少し剥がれたよ。昨日」

煙草を足元に投げて、スニーカーで火を消した。

顔を上げて見た夕日は、滲んだままだった。

三時間弱で書き上げた作品なので、お見苦しい点も多々あったと思います。こんな作品を最後まで読んで頂き、ありがとうございました。感謝、感謝です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 「新しい心を下さい」のフレーズに惹かれ 飛んできました。三時間で こんな作品を…すごいですね。登場人物の説明は 個人的にはなくても解るカンジでした。同じにおいがする…とか そんなカンジでです…
2007/07/25 00:44 宮薗 きりと
[一言] はじめまして! こんにちわ〜  ここまで 誤字脱字ないな〜 よし OK 三時間で書き上げたと書いておられましたけど、冒頭から神経使って書いておられるとおもいました。具体的にいいますと、貞雅が…
[一言] 最後には胸がしめつけられる思いがしました。素晴らしいストーリーです! ストーリーが良いので、文章を見る目が大分厳しいものになってしまいました(汗 心にこみ上げるような情感溢れる作品に相応し…
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