後編
アニエスがルイに惚れたのは些細なことがきっかけだった。それは軍学校時代まで遡る。
ある日、アニエスが軍学校の廊下を一人で歩いていると、ある話し声が聞こえてきた。
「――しかしアニエスを見たか?この間ゲイルを思いっきり伸したの」
「ああ。見た見た。アイツ体もデカいし、ありゃ女じゃねぇな」
「はは。違いねぇ!」
その笑い声に体が凍った。今廊下を歩いていけば、この先にいる話し声の主たちと顔を合わせるかもしれない。
彼らが話していることは嘘でも何でもなく確かに紛れもない事実だ。先日の演習で組み手の相手だったゲイルを気絶させてしまった。それは恐らくたまたま彼の急所に上手いこと入ってしまっただけなのだ。少し思い切りやりすぎたかと思ったが、体が丈夫なゲイルはすぐに目を覚まして謝るアニエスに気にするなと言って笑ってくれた。それで二人の話は終わったのだが、それを見ていた人たちは嫌な見方をするものだと思った。
アニエスは心の中で小さくため息を吐くと、静かに踵を返して違う道を進もうとした。
「お前らそんな馬鹿なこと言ってねぇで訓練でもしたらどうだ?そんなことを言ってるからお前らは負けるんだろうが。アニエスの強さは練習の結果だ。お前らがそうやって喋ってる間もあいつは訓練してるぞ」
「――る、ルイ!」
「アニエスの体の使い方は学ぶところがある。力では俺らの勝ちだろうが、技はアイツの方が上手いぞ」
彼らに声をかけたのはルイだった。彼はアニエスたち同期の中で実技科目がトップレベルで知られ、エリーはもちろん多くの男たちに認められている。彼はパワー型だが、有り余るほどの体力があるおかげで隙が少ない。アニエスは一度も組み手で勝ったことのない相手だ。
人に好かれ、リーダーシップに溢れる彼は貴族出身であるのに身分という括りで人を見ない。いずれは軍を背負って立つ人材になることが約束された人間だ。そんなルイはアニエスにとって憧れの同期だった。アニエスは狙撃に関しては自信があったが、体術に関してはずっと苦手な科目だった。体格は男性並みであっても、基礎体力や筋力に関してはどうしても鍛えている男性には敵わない。しかし、その体術を認めて褒めてもらえたことがとても嬉しかった。
「アニエス。聞いてたのか」
その声にはっと気付くと、ルイがすぐそこに迫っていた。彼らがこちらへ来る前に移動しなければと思っていたのに、ルイの言葉に感激している内に彼らの話は終わってしまっていたらしい。
「……ああ。彼らは?」
「向こうへ行った」
「そうか。……その、ありがとう」
少し悩んで感謝の意を述べると、ルイは人の良い笑みでにかりと笑った。
「いや。俺は本当のことしか言ってねぇよ。じゃあな」
そう言って颯爽と歩いて行ったルイの背中を何となくじっと見つめてしまった時には、きっと恋に落ちていたんだろうと思う。
「――そういえば、ルイ昇格したんだって?今度からヴィルフリート殿下の護衛隊長らしいじゃないか。おめでとう!」
もう何杯目かになったか分からないカップを掲げて言えば、ルイも嬉しそうに笑ってそれに応えた。アニエスは酒のせいもあってすっかりご機嫌だが、ルイの顔に酒に酔ったような色は見えない。
「ああ、ありがとう。ようやくここ、って感じだがな」
「ルイならもっと上に行けるよ。私たち同期の期待の星だからな」
「なんだよ、期待の星って」
「そのままの意味。それにしてもルイ、全然飲んでないだろ?いつもはもっと馬鹿みたいに飲むくせに。――すいません!キリ酒下さい」
ルイのカップを見て、ほとんど入っていないことに気付いて店員にキリ酒を頼む。キリ酒は柑橘系の爽やかな香りのする酒で、飲みやすいがアルコール度数がかなり高い。酒の弱い人であれば避ける種類のものである。だが、ルイはいつもそれこそ店の酒を空にするんじゃないかと思う勢いで飲む男だし、今日はほとんど酔っていないように見える。アニエスは自分だけが酔っているような気がして、あえて強い酒を頼んだ。
「おいおい、キリ酒って。そんな強い酒」
「いつももっと飲んでるじゃないか。それとも私と一緒だと酒が進まないのか?」
カップを口に当ててちびちびと飲んでみれば、優しいルイは焦った様子で受け取ったばかりのキリ酒を飲んだ。小さい器に入ったそれを一気に喉に流し込んで、アニエスを見るのが面白くて思わず笑ってしまった。
「……どうなっても知らねぇからな」
「はは。潰れたらちゃんと送っていってやるから安心して飲めばいい」
そう言って笑ったアニエスに、ルイは一瞬眉を寄せてまた器を空けた。
「――あれっ、隊長じゃないですか!お疲れ様です」
「ん?何だ、お前か。ラモン」
ルイに声をかけたのは、どうやら彼の部下らしい。既に酔っているように見える彼は頬を赤く染めて、ルイに挨拶をしている。
「隊長も隅におけないですね。こんな綺麗な方と一緒だなんて!初めまして。ルイ隊長の部下のラモンです!」
「ルイとは同期のアニエスだ」
ラモンが差し出した手を素直に取って握手をする。ルイとは正反対のタイプの楽しい性格のようだ。酔っているせいもあるのか饒舌に話すのが面白い。
「同期?えっ、アニエスさんも軍に!?隊長の同期にこんな美しい方がいるなんて知りませんでした!あまり本部ではお見かけしませんよね?」
「はは。軍の中にいると数少ない女が綺麗に見えるらしいからな。お世辞でも有難く受け取っておくよ。普段は別の駐屯地にいるんだ。私を見たことが無いのもそのせいだろう」
「……ラモン、いつまでアニエスの手を握ってやがる。お前も酔っ払っているようだが、明日の仕事に差し支えがあるようなら容赦しねぇぞ」
「は、はい!……それでは失礼します!アニエスさん、また今度ゆっくりお話しましょうね!」
ラモンは慌しく敬礼をすると、そそくさと逃げるかのように店を出て行った。
「ったく、油断も隙もねぇやつだ」
「あんまり鬼上官してると部下に嫌われるぞ?」
「男共にはあれくらいでいいんだよ」
ルイはそう言うとキリ酒をぐっと煽った。
「……さっきから酒が進んでるみたいだがペース早くないか?」
「酔いつぶれたら面倒見てくれるんだろう?」
呑めと言ったのは自分だが、些かペースが早い気がする。さっきまでいっぱいだったキリ酒の入った瓶はもう半分ほど空いているのだ。これが別の酒であれば気にならないが、これはアルコール度数のかなり高い酒である。いくら酒に強いルイであろうとも、大丈夫なのかと心配になって顔を覗き込んだ。
「それは、そうだけど――……っ!な、何を」
「何ってキスだな」
「は……?」
ルイの顔を覗き込んだアニエスに顔を近づけて、かすかに触れるだけであっても紛れも無くキスだった。
「理性が利かなくなるから控えてたっつうのに、アニエスときたらそんなことも知らずに強い酒勧めやがるし。しかもラモンなんかと手握ってやがるし」
「な、何言ってるんだ?ルイ?」
ルイはそう言いながら、アニエスの手を握る。
「お前の妹も結婚したって言うし、もういいだろ?俺はずっと待ってたんだ。好きなんだよ、アニエス」
「嘘、だろ?また、お前酔っ払ってるんだろう。水でも飲むか?」
「酔ってるけど、こんなの酔ったうちに入らねぇよ。何回だって言ってやる。俺はアニエスが好きだ。だから、今度は俺と幸せになれよ」
ぎゅっとアニエスの手を握っていた手に力が込められた。そこは大衆食堂のカウンターの片隅だというのに、誰もアニエスたちになんて気付いていない様子だ。アニエスの頭は驚きと嬉しさが駆け巡っていて、完全に混乱しているのが自分でも分かった。遠くのテーブルに座る男性が食べてる料理が美味しそうだなとか、店員の女の子がかわいいなとか関係ないことも一緒に考えてしまっているのだ。
「私、混乱している。ルイの言うことが本当だとしても、ルイは貴族の出じゃないか。私は一般市民で、両親だっていない。いくらなんでも不釣合いだ」
「そんなの何だって言うんだ。家督は俺の弟が継ぐことに決まったし、長いこと結婚を拒んだ俺に親は諦めがついてるくらいだ。むしろアニエスを連れて帰ったら親は喜ぶだろうよ」
「でも」
「何だ?お前が不安に思うことは何だって全て取り除いてやる。だから、諦めて俺のものになれよ」
その言葉にアニエスは白旗を揚げた。どんな理由をあげたって、この男を前にしたら問題にすらならない。アニエスは彼の言葉に頷くことしか許されていないのだ。
「……仕方ないからルイのものになってやる」
「ああ。好きだぜ、アニエス。これからは俺が幸せにする」
彼の言葉はまるでアニエスに拒否権など与えないとでも言いたげであるのに、その表情には優しさと嬉しさで満ち溢れているのが分かる。長いこと付き合ってきたからこそ、彼が本当に自分のことを好きなんだと理解するのにはそれだけで十分だった。
握られたままの手を握り返して、笑う。周りは酔っ払いと安くてそこそこ美味しい料理とお酒。ムードもへったくれもないけれど、それが自分たちらしいとも思う。
「ルイ、私もずっと好きだったよ」
その言葉と一緒に重なる唇を見ているのは自分達だけ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
この後、ルイ視点に続きます。