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前編

 アニエスは自分が好きな男と両想いになったことがない。


 男社会の中に身を置いているせいか、出会いは多い方だろうし友人と呼べる異性も多い方だろう。友人というよりも、仲間という雰囲気ではあるが。それなのにどうやら、アニエスの場合は需要と供給とやらが一致していないらしい。そんな自分を悲しくもあるが、すでに諦めの気持ちも大きい。何よりも今の仕事は自分に合っていてやりがいもあるし、自分が結婚などに縁がなくても目に入れても痛くない妹の子を見れれば十分だという思いもある。


 普段はタリカという田舎町の駐屯地にいるアニエスが、今日ははるばるガルヴァン王都のバラッカにある軍本部に訪れていた。軍本部の廊下は男所帯のせいなのか、その性質のせいなのか飾り気というものがほとんど無い。それでも地方の基地や施設に比べたらマシなのではあるが。特に来客が訪れることのない、軍人たちが使用するプライベートな部分は経費削減のためなのか配管らしきものやよく分からない何かの線が見えている部分もあるくらいだ。


 そんな薄暗い廊下で目の前で褐色の肌と金の髪、それと同じ色の瞳を持つ男が手を上げてにかりと笑っている。鍛えられた肉体と大きな体は軍服の上からも見て取れて、175cmと女としてはかなり背の高い部類のアニエスですら見上げる程度の身長がある。顎に生えた髭は彼の不精そのままなのだが、それがかえって彼の魅力を上げている。


 こういう表現になるというのも、アニエスはもう長いことルイという男を好いているのだ。


「お。アニエスじゃねぇか!久しぶりだな」

「ルイか。久しぶり。調子はどうだ?」

 ルイが手を上げたのでそれに応じるように手を上げると、彼の手がアニエスの手をまるで男同士のようにパンと手を叩いてがっちりと握った。アニエスとこの男との付き合いは軍学校時代まで遡る。それぞれが昇格した今でこそないが、同期だった彼とは同じ訓練も幾度と無くこなしたのだ。

「俺は絶好調だよ。いつ戻ったんだ!タリカの冬はどうだった」

「ついさっき戻ったんだよ。冬はそうだな、しばらく雪はこりごりっていう気分だよ」

 そう言って冗談めかして肩をすくめて笑ってみせる。

 アニエスはつい先日までガルヴァンの最北端にあるタリカという町に派遣され駐屯地において防衛任務に当たっていた。現在戦は起こっていないので防衛任務とは言ってもほとんど形だけのものだ。だが最果てのその町は大変雪深く、一旦冬になってしまうと他の町との行き来はなくなってしまう。その雪害とも言える雪は軍にも容赦なく襲い掛かり、冬期任務のほとんどは雪との戦いだ。

「はは。そうか。バラッカの春を楽しめよ!そうだ。せっかくだし飲みに行こうぜ」

「ああ。非番の時は声を掛けるよ」

「お前そう言って誘いやしないじゃないか。今日は休みなんだろ?」

「そうだが」

「それなら今日行こう。思い立ったら何とやらとかよく言ってるじゃないか。それじゃあ七時にいつもの店で」

 ルイはにやりと笑うとアニエスの背を叩いてさっさと歩いて行ってしまう。アニエスもそれなりに鍛えているので痛くはないが心がちくりと痛む。


 あの男はいつもそうだ。


 アニエスがいくら距離を置こうとしても、それを無視してアニエスが作った壁を易々と飛び越えてくる。物理的な距離を置けばあいつもアニエスのことなんかにかまいもしなくなるかと思い、誰も行きたがらないタリカへの派遣を志願したのにそれも無駄だったようだ。アニエスがこの男を好きになる時間で、彼女は仲間という確固たる位置を彼の中で築いていたらしい。


 いつもの店というのは同期の仲間たちでよく集まった安っぽい大衆の食堂のことである。昼間は食堂として営業していて、夜になれば酒を出す。料理は量が多く、味もそこそこ美味い。私服に着替えてから慣れたように店に入りいつも座る席を見る。どうやら一人早く着いてしまったらしくアニエスは慣れ親しんだ女将に挨拶をして、カウンター席の隅に座る。先に何か頼もうかと考えていると、ルイが店に着いたようだった。

「待たせたか?」

「いや。私も今来たところだよ」

「そうか。それなら良かった。――姉ちゃん、 麦酒を二つくれ」

 ルイが店員に頼んですぐに麦酒が運ばれてきた。比較的安価な種類であるこの酒は量をたくさん飲む人間に好まれる酒だ。苦味のある酒ではあるが、僅かに炭酸が入っているためにただ苦いだけよりはか飲み易い。それでも酒を覚えたての頃はこの酒の味が大変苦手であったが、回数をこなすうちに気にならなくなった。その会は軍の仲間たちとの酒がほとんどで、ほぼこの男と一緒だったと言っても過言ではないかもしれない。

「それじゃ、とりあえず。祝帰還!」

「ああ。ありがとう」

 木でできたカップを乱暴に音を立ててぶつける。口の中に麦酒を含むと、予想通りに僅かな苦味が広がった。

「いつまでこっちにいるんだ?」

「いや。すぐにタリカに戻るよ」

 口元に付いた泡をさりげなく拭いながら応えた。

「任務期間は春までじゃなかったのか?」

「ああ。だから延長の申請をした」

 正規の任務期間は冬が明けるまで。春になれば一旦戻ってきて、違う任務に就く予定だった。おそらくは以前と同じように本部における仕事になるはずだったのだろう。

「は?延長ってアニエス!そんなにタリカの冬が気に入ったのか?」

「まぁ、大変なところだけど必要とされているのは感じるな。あそこは一人でも多くの手が欲しいところだから」

「でもアニエスの専門は俺みたいに戦うことじゃないだろう。それはお前じゃなくてもいいんじゃねぇのか」

「はは。それはそうかもな」

 そう言って小さく笑ってカップを傾けた。確かにタリカに赴くのは私で無くても良いだろう。アニエスは軍学校を卒業してからしばらくしてサポート業務中心の部署へと移った。女である自分がいつまでも現場で働き続けることは難しい。だから様々な資格や講習を取って、いつか前線で働きたがるルイの役に立てればと思った。

 そんなアニエスよりもできれば力のある男性軍人の方が好まれるだろう。それでも、あまり好き好んで行きたがる場所でないあそこではアニエスの存在をとても喜んでくれる。デスクワークばかりでなく外仕事も多いために、本部にいるよりも忙しいくらいだ。それに忙しいくらいの方が余計なことを考えずにすむのでアニエスにとっては都合が良い。

「だったら」

「いいんだよ。今回は任務報告と妹の結婚式のために戻ってきただけなんだ。ん?ルイのカップもう入ってないぞ。――悪いが、麦酒をもう二つ」

 何か言いかけるルイを遮ってそう言い切ると、ほとんど空になったカップをテーブルに置く。そして近くにいた店員に手上げて合図すると声をかけた。

「妹ってセリアか?おいおい。あのお転婆娘が結婚か!そりゃあ、目出度い!」

「だろ?セリアのお転婆には困らされもしたが、今思えばかわいいもんだよ。寂しいが、これからはセリアのことは旦那に任せられる」

 ルイは驚いた顔をしたが、すぐに本当に嬉しそうに笑ってくれた。そんな些細なことでアニエスの胸はふんわりと温かな光が灯る。

 この男にとっては身内でもなんでもない知り合いの妹でしかないのだが、それでもこうして他人に喜びに共感してくれることがこの男の美点だろうと思う。

「そうか……。そういえば、お前が軍に入ったのはあいつを養うためとかじゃなかったか?」

「ああ。そうだな。私もお役ご免というわけさ」

 そう言って肩をすくめて笑って見せた。古い友人であるルイはもう何度となくセリアに会ったことがある。


 アニエスとセリアの両親はアニエスが十五になってすぐに事故で亡くなった。正直その時のことはほとんど覚えていない。両親の葬儀や自らの肩に掛かる妹の将来のことで頭がいっぱいだったのだ。

 その時まだ妹のセリアは七つになったばかりだった。両親が亡くなったので姉であるアニエスがセリアの面倒を見ることになるわけだが、自分一人ならまだしも十五の娘が子どもを抱えて養っていけるような仕事はそうそう無かった。アニエスはまだ成人に満たない娘であったのだ。

 アニエスが妹のセリアと二人で生きていきセリアに人並みの教育を与えられるような金を稼ぐためには、娼館で働くか金持ちの年寄りと結婚するか愛人になるくらいしか方法がないのだ。しかし、アニエスはその時すでに女にしてはかなり体格が良かったためにその方法を取ることには向いていなかった。そこでアニエスが思いついたのが軍人になるということだ。危険は多いが、その分手当てがついて給料は多い。アニエスとセリアが二人で慎ましく暮らす分には十分すぎるくらい稼げるのだ。さらに軍学校に受かってしまえば、学校に在籍している間も給料が出る。幸い体を動かすことが得意だったアニエスにとってこんなに美味しい話は無かったのである。


「アニエス」

 気遣わしげな声がアニエスに掛かる。

「私もこんな職業だからな、いつ何があってもおかしくはない。だが私が死んでもあの子が一人じゃないと思うだけで楽になるよ。まぁ、ようやく肩の荷が下りたというわけさ。――ルイ、今日は付き合ってくれるんだろう?」

「……ああ」

 そして二人の夜は更けていった。

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