君に届いた日 ~ブロークン・ハート~
世界がいつもオレたちに優しいとはかぎらない。
たとえば、傘を持って外出した日に決まって、天気予報がハズれたり。自販機で炭酸飲料水を買おうとして、売り切れランプが点灯していたり。
小さなモノまで数えだしたらキリがないかもしれないけれど、アンラッキーはラッキー以上にその辺に転がっているような気がするんだ。
オレの誕生日だった、二日前の土曜日も例外ではなく。
部活帰りに産院から出てきた彼女を見かけたとき、オレ自身のタイミングのわるさを思い知らされたのだ。
「なあ、聞いたか? 今日の一時限目」
朝練が終わって練習球をカゴの中へ拾い集めていたら、オレと同じく一年生野球部員の誠が話しかけてきた。情報屋を気取るヤツのことだから、また何処かでくだらないウワサでも仕入れてきたのだろう。
「知らん」
朝っぱらから走らされてヘトヘトなのだ。まともに付き合う気はサラサラない。即答する。
「まあまあ、冷たいことを言うなよ」
拾い集めたボールが入ったカゴを一人で持つと、ヤツは意味ありげな笑みを浮かべた。
「あのさ、視聴覚教室に移動らしいぞ。現国から英語に時間割変更なんだってさ」
めずらしいことに、今回はまともなネタだ。いつもだったら、誰と誰がホテルに入ったとか、告ったとか別れたとか、ワイドショーばりのゴシップネタを聞かされるのだが。
「なんでか理由を知ってるか?」
質問は、まだ続く。
「そんなん知るかよ……あ、オイ!」
何を思いついたのか、誠がカゴからパッと手を離し自分の役割を放棄したのだ。自然の法則に従い、ガシャンと音をたててカゴが倒れる。
せっかく集めたボロボロの汚れ球が、あちこちへと転がりだした。
「あーあ。このバカ、何やってんだよ!」
「あのさ、コレなんだってよ」
声を荒げたオレのことなどかまわずに、誠は腹の前へ突き出すように両手で半円を描いた。
「雅ちゃん、やっとオメデタらしいぜ。ウワサなんだけどな。虎、知ってたか?」
オレの心中を量ろうとしているかのごとく、ニッと笑う。
――知っている。この目で見たんだからな。
黙って、首を横に振った。
「なあんだ、虎も知らなかったのか。オレもさっき先パイから聞いたばかりなんだよ。ツワリっていうやつ? 雅ちゃん体調わるいんだってさ。たいへんだよなあ。女じゃなくてよかったよ、オレ」
足元に落ちたボールをかき集めながら、ヤツに背を向けた。誰にも今の顔を見られたくない。だが、そう思うより先に口の方が勝手に動いた。
「なあ、誠」
「んんっ?」
「どこまで……そのウワサ、広まっている?」
「あー、うん。そうだなあ。先輩が知っているぐらいだからな。けっこう広まってるんじゃねえか?」
けっこう広まっている……?
グラリと足元の地面が傾いたような気がした。
「すっげーよな。子供だぜ、こ・ど・も! 一発はヤったことになるんだよな。ま、でも、百発百中とは限らないから、それ以上か。やるなあ、おまえの兄キ……ゲホ!」
誠の胸骨の下のちょうど窪んだ部分に、エルボーをお見舞いした。
「いつまでグダグダしゃべってんだよ! 早くしないと、遅刻するぞっ」
「ぐ、げっ、ゴホッ! おまえ本気でやっただろっ。ちくしょー、覚えてろう!」
誠は、ブツブツ文句を言いながらも、練習球を拾い集めだした。オレの動揺に気づかなかったようだ。
ホッと胸をなでおろしながら、集めたボールの中から一個だけ拾い上げる。
「バーカ、おまえのせいだろう!」
誠の背中めがけて、力いっぱい投げつけてやった。
と、いうことは、だ。オレ、本格的にフラれたんだ。
長かったなあと、今更ながら思う。彼女に片思いをしていた六年という年月を。
彼女に初めて会ったのは、小学三年生のとき。兄キが彼女をウチに連れてきたときだ。
大人と子供ほどの年齢差による体格の違いのために、ケンカで負けっぱなしだった当時のオレは、現国の高校教師をやっているというおカタい彼女の話を母ちゃんから聞いて、積年の恨みを晴らす計画を思いついたのだ。
計画とは、こうだ。
彼女が家に上がろうとした瞬間を見計らって、前もって外でかくれていたオレは玄関に忍び込み、彼女のスカートをめくる。
彼女を迎え入れようとしてパンチラを見てしまった兄キは、「スケベ!」と彼女に引っ叩かれる。と、いう筋書きだ。
ところが、だ。
玄関で立っている彼女の後ろからコッソリと手をのばしたところまではよかったのだが、ガシッと力強く手首をつかまれてしまったのだ。
そのうえ、彼女はスカートではなくてパンツ姿であった。
「ふふっ! こんにちは、虎一クン。こんなところで何をやっているのカナ?」
オレの手首をシッカリつかんだまま、彼女は笑った。思いっきり楽しそうに大きな口を開けて。
彼女は美人と言うわけではないけれど、女の人の笑顔にドキッとしたのはコレが初めてだった。
なのに、オレの口から出た言葉は、
「離せ、ブスッ!」
だった。兄キの鉄拳によって出来たタンコブがなかなか治らなかったことを、今でも覚えている。
彼女がオレのアネキになったのは、それからまもなくのこと。一年後のことだ。オレの思いを彼女に打ち明ける日は決して来ないだろう。
だけど、オレは幸せだった。彼女がオレの名前を苗字じゃない方で呼んでくれたから。「虎一クン」と、いつも優しいエンジェル・ヴォイスで。
鐘が鳴り終わる前に、オレ達は視聴覚室にギリギリ滑り込んだ。誠と別れたあとに一番後ろの列の、一番右端の席へ着く。
――あっぶねえ、ニアミスだったぜ。
腰を下ろしたのと同時に、前方の出入り口から英語の先生が入ってきた。今年の四月に教職についたばかりの新人、まだ二十代の男だ。
「今日は、急な変更で申し訳なかったね~」
「そうだよ、ひでーよ先生!」
にわかに教室が騒がしくなる。
「まあまあ、じゃあテキスト広げてー。二十三ページからね~」
という先生の声で授業が始まった。
言われた通りテキストを広げたものの、授業に身が入りそうになかった。
今ごろ彼女は、何をやっているのだろうか。ひとりで家で寝ているのか。それとも、兄キに連絡して病院に……。
――ああ~っ、くそ! オレには関係ないじゃんかよ!
とっくの昔に、フラれたっていうのに。なんなんだよ、この自覚の無さは。オレはフラれたんだ。フラれたんだ!
『ちくしょう、フラれたーーーーー!!』
机の端っこに、小さく薄い文字で書いてみた。
これを見れば、イヤでも自覚できるだろう。こんなの見られたとしても、誰が書いたのかわからないし、反応すらあるまい。
この思いを兄キや彼女にだけは知られてならないのだ。自分の中だけで処理する必要がある。
――あーあ、ねむ……。朝早かったからなあ。
テキストを真っ直ぐ立てて、オレは眠りについた。眠れば大丈夫だ。きっと消えてなくなる。
ただ、ひたすらに眠った。オレに出来ることは、忘れることだけだったから。
(END)
このあとに彼女視点の物語、「プレゼント」「メッセージ」へと続きます。
あわせてご覧くださると嬉しいです。
読んでくださってありがとうございました。