嵐通り過ぎし朝に
「皇ちゃん、おかえりなさい…」
「ただいま~。…ママ、どうしたの?めのしたに、くまさんがいるよ?」
「うふふ…そうなの。ママ、クマさん飼っちゃったのよ…」
問題なくお泊り保育を終えて、返ってきた愛息子に、亜紀恵は力ない顔で笑う。
皇紀の初めてのお泊り保育を機に、幼馴染である珠姫の皇紀離れ(母離れ?)を決行した次の日の朝であった。
亜紀恵の様子からお分かりのように、今回の機会は想像を軽く超えて、すごい嵐となった。
端的に言うと。
泣く(大泣きだ。近所からの苦情が来なかったのが奇跡に近い…)。
食べない(夕食も朝ごはんも)。
そして極め付けが『寝ない』(幸いなことに、大泣きするのはやめてくれた…)だ。
亜紀恵は物事を軽く見すぎていたと、珍しく後悔していた。
幼い子ではあるから、やはり睡魔に負けてうつらうつらなったが、すぐ目を覚まし、ぐずったのである。
(今日が土曜日でよかったわ…。じゃないと、澪ちゃん死んでたかも…冗談じゃなく)
本日は土曜日。
珠姫の母親の澪も仕事がお休みであった。
もし休みでなければ、一睡も出来ずに憔悴した状態で出社しなければならなかったのだ。
澪のことを思いつつ、昨日の夕方からのことなど当分の間思い出したくないと思う亜紀恵であった。
「ママ~」
皇紀に呼ばれて現実に立ち戻る。
そこにはそわそわとした皇紀が亜紀恵を見上げていた。
「どうしたの?」
「うんとね…」
珍しくも歯切れの悪い息子に、亜紀恵が首を傾げる。
「なあに?」
「たまきは?あいにいってもいい?」
「…」
おずおずと口を開いた皇紀の台詞に亜紀恵は戸惑う。
(ど、どうしたのかしら?いつもならお伺いなんてたててこないのに…)
期待のこもった目で見られるも、一向に返事をしないでいれば、皇紀の顔がどんどん曇っていく。
「…だめ?」
今にも雨が降り出しそうだ。
「ああ!ご、ごめんね?珠姫ちゃんに会いに行ってもいいわよ?」
慌てて返事をすると、途端にお日様が雲の間からその顔を覗かせたかのように、皇紀の顔に笑みが上る。
その様子を見て、亜紀恵もさすがに理解する。
皇紀も口にして言わないが、珠姫に会えなくて寂しかったのだということが。
物分りのいい子といえど、皇紀はまだ4歳児だ。
ほっこりと亜紀恵の胸が温かくなり、笑みが上る。
「珠姫ちゃんも、皇ちゃんに会えなくて、泣いて泣いて大変だったわよ~」
つい、ちらりと本音を零す。
皇紀が目を見開く。
「たいへんだ~!ママ、ぼく、はやくたまきのとこいかなくちゃ!!」
「そうね。皇ちゃんと同じで頑張ったから、いっぱい褒めてあげなくちゃね?」
「…ぼく、がんばった?」
「うん。と~っても頑張ったわよ~。さすが、ママとパパの息子!!」
ギューッと抱きしめると、子ども特有の甲高い笑い声があがる。
亜紀恵と皇紀の愛情確認は簡単には終わらない。
「ギュッ、ギュッ、ギュウ~~♪」と言いながら抱きしめる亜紀恵に、「くるしいよ~~」と文句を言いながらも、全然苦しそうじゃない皇紀のほほえましい光景が玄関先で続いた。
「さあて、珠姫ちゃんも待ってるし、これくらいにしましょうか?」
「あ~!もうママってば!ぼく、いそいでいかなきゃいけないのに!!」
「あらあら?ママだけのせいなの?」
「…ちがうけどちがくない」
「詳しく聞きたいわね~…でも、本当にそろそろ行ってあげないと、澪ちゃんも倒れちゃうわね」
「はやく、はやく~」
家に入って、着ていた制服を脱がせる。
着替える服を用意している間に、皇紀に皇輔―父親を起こしてきてくれるように頼む。
裸で元気に部屋を飛び出していった皇紀を見送って、どの服にしようか悩んでいると、くぐもった悲鳴が隣の部屋から聞こえてきた。
どうやら人間爆弾と化した皇紀に強襲されたらしい。
クスクスと笑いながら選んだ服を出していると、笑い声と共に、部屋のドアが開いた。
「亜紀恵さん…ひどくないかい?」
「おはよう。皇輔さん」
皇紀を抱えあげて姿を現したのは皇輔で、げっそりとした顔での登場だった。
父親に抱え上げられて、更に高いところで揺らされて、皇紀は喜びの声をあげる。
亜紀恵も構わず朝の挨拶をする。
「いいわね~、皇ちゃん。はい、服着ましょうね」
「うん!パパ、おろして」
「…」
情けない顔をした皇輔に、無言で降ろされる。
しかし、それを気にせず皇紀は出されていた服を順に着ていく。
上から下まで準備完了!
「ママ!」
キラキラと期待のこもった目で見られて、皇紀の望みを汲む。
「はぁい。いってらっしゃい」
「いってきま~す!」
お許しをもらった皇紀が、これまだ弾丸のように部屋を飛び出していった。
廊下を走っていく音を聞きながら、昨日から張ったままだった緊張の糸が緩んで、「ふあぁ~」と欠伸が出てしまう。
「お疲れさま」
「と~っても疲れたわ~」
お互いに微笑んで、階下に降りる。
亜紀恵は寝てしまいたいと思いつつも、今回の騒動(?)の顛末を見ないことには寝てもいられないと、朝ごはんと昼ごはんの用意をするために、キッチンに入った。
昼ごはんも用意する理由は、自分がいつ寝ても大丈夫なようにだ。
「さて、どうなるかな?」
新聞片手にダイニングの椅子に座る皇輔の声に、冷蔵庫を開けて中身をチェックしていた亜紀恵は振り返る。
「それは何の心配もいらないわよ」
自信満々に言い切る。
呆れた顔をする夫に構わず、続ける。
「皇ちゃんは珠姫ちゃんにとって『ライナスの毛布』なんだもの」
嵐は過ぎ去り、宮ノ内家に戻った日常。
そして、筒井家に向かった皇紀は、未だ嵐吹き荒れる筒井家に日常をもたらすのか。
それはまた、違う機会にでも。