「好きな香りは?」「この店の香りです」――監察官様、それだけでは選べません
「泣いていたことが、わからなくなる香りはある?」
セルフィーユ香房の本日最初のお客様は、そう言って銅貨を七枚、作業台に並べた。
パン屋の娘のマノンだった。いつもなら扉を開けるより先に挨拶が飛び込んでくるのに、今日は焼きたてのパンの匂いだけが元気だった。
私は並んだ硬貨を数え、その向こうの赤い鼻を見た。
「あるわ。でも、腫れたまぶたまでは隠せない」
「そこは冷たい布でなんとかする」
「よろしい。別々の職人の仕事を、香水一本に押しつけないお客様は好きよ」
マノンの口元が、少しだけ動いた。
棚から小さな陶器の壺を下ろす。昨日仕込んだ練り香の素地は、蜂蜜色に透き通っていた。そこへ薄めた橙の果皮油を落とし、木べらでゆっくり混ぜる。
甘い。けれど、まだ明るすぎる。
細口瓶から杉の香りを一滴。匙の先で掬った安息香をほんの少し。
橙が丸くなった。皮を剥いたばかりの鋭さが引っ込み、陽の当たる木箱に果物をしまったような、穏やかな香りになる。
「薔薇じゃないんだ」
「あなたが急に薔薇をつけて帰ったら、何かありましたって宣伝するようなものよ。パン屋なら橙の方が自然でしょう」
「なるほど」
「ほら、手を」
差し出された手首に、米粒ほどの練り香を伸ばす。
その下には、濡れた鉄に似た匂いがあった。
悲しみの徴だ。
もっとも、私は人の心が読めるわけではない。濡れた鉄が悲しみとは限らないし、焦げた砂糖に似た匂いがしたからといって、必ず嘘をついているとも限らない。痛みを堪えた時にも、言いたいことを飲み込んだ時にも、似たものが混じる。
わかるのは、せいぜい一部屋の中にいる人の、表からは見えにくい変化だけ。
その変化さえ、香りの重ね方次第で見えなくなる。
マノンの手首から濡れた鉄が遠ざかり、橙と温かな木の香りに紛れていった。
「すごい。なんか、ちゃんと立てる気がする」
「立てているわよ、さっきから」
「そうじゃなくて」
「ええ」
私は小さな缶に練り香を詰めた。
告白に失敗したのか、両親と喧嘩したのか。尋ねるつもりはなかった。
お客様が買いに来るのは、話す機会とは限らない。
話さずに済む時間が必要な人もいる。
「銅貨六枚。空いた缶を持ってくれば、次は一枚引くわ」
「七枚あるよ?」
「一枚は冷たい布を借りるために取っておきなさい」
「布くらい家にあるもん」
ようやく、いつもの声に戻った。
マノンが出ていくのと入れ違いに、店の鐘がもう一度鳴った。
黒い上着の男が、扉の内側で足を止めていた。
背が高い。灰色の瞳に、きちんと整えられた黒髪。襟元の銀章は麦穂を抱いた秤の形で、王宮監察局のものだった。
そして、匂いがしなかった。
私は木べらを持ったまま、動きを止めた。
人が一人入ってくれば、革靴、髪、肌、洗濯石鹸、外の空気といった匂いが何かしら増える。どれほど清潔な人でも、生きている以上は匂う。
ところが、その人の立つ場所だけ、何も増えなかった。
棚の薔薇水も、窓辺の乾燥ラベンダーも、私の手についた橙も、全部ある。
彼だけが、ない。
「セルフィーユ香房の店主、リディ・セルフィーユさんですか」
「はい」
「王宮監察局次席監察官、エリアス・ノルデンです」
「何かご用でしょうか」
「泣いていたことを隠す香りを売っているのですか」
私は木べらを置いた。
「ええ。寝不足の顔に白粉をはたくのと同じです」
「嘘も隠せますか」
「場合によっては」
「それを、誰にでも?」
灰色の目は、ひどく静かだった。
こういう時、普通なら不快や警戒の徴がわかる。私はそれを踏まえて、言い方を変えられる。
けれど、この人については何もわからない。
「刃物屋は、包丁を買う人の夕飯を調べません。ただ、今から誰かを刺すと聞けば売らないでしょう。うちも同じです」
「なるほど」
「お役人に嫌われる商売なのは承知しています。ですが、売った香りが隠したものまで、私の罪にはなりません」
「責めに来たのではありません」
彼は上着の内側から封書を出した。
「その香りを、王宮で作っていただきたいのです」
私は封蝋の紋章を見て、次に彼を見た。
王太后の印だった。
「出張費は別ですが」
「見積もりに含めてください」
返事が早い。
匂いもない。
とてもやりにくいお客様だった。
◇
セルフィーユ家に領地がなくなったのは、私が十二歳の時だった。
父の借金と、祖父の代から続いていた不作と、その他いろいろ。子供だった私にはわからなかった事情もあるけれど、八年経った今なら帳簿に書かれていた数字の意味はわかる。
たいした家ではなかった。
ただ、なくすには十分大きな家だった。
母は嫁入り道具の宝石を売って小さな香房を開いた。私が十八歳になった冬に、その店と香りの帳面を残して亡くなった。
だから二十歳の私が最も大切にしている数字は、家名の古さでも、社交界の序列でもない。
家賃の支払日まで、あと何日あるかだ。
「五日後の催しで、王太后陛下が使われる香りを作っていただきます」
馬車の中でエリアス様が言った。
「五日では、いちから十分に馴染ませる香水は作れません。手元にある熟成済みのものを組み合わせることになります」
「それも含めて、直接お伝えください」
「依頼を断る可能性もありますよ」
「はい」
やはり返事が早かった。
王宮の人間は、断られることを想像しないと思っていた。
「どうして監察官が、香りの注文を?」
「昨年の同じ催しで、職人への支払いが三か月遅れました。今年は支出を確認しています」
「それは、とても重要なお仕事ですね」
思わず心から言うと、彼は一度だけ瞬きをした。
笑ったのかどうかは、わからなかった。
王宮で通されたのは、金色の椅子が並ぶ謁見室ではなかった。
南向きの小さな居間だった。窓辺に刺繍枠があり、肘掛け椅子の脇には読みかけの本が伏せられている。
王太后イレーヌ陛下は、薄紫の普段着で座っていた。
「あなたのお母様に、昔、香りを作っていただいたことがあるの」
挨拶を終えた私に、陛下はそう言った。
母の顧客名簿には貴族もいた。ただし、王太后の名前はなかった。
「存じ上げませんでした」
「名を伏せて頼んだから。あの方は、よい職人でしたね」
「恐れ入ります」
陛下の膝には、古びた革手袋が一双載っていた。
小柄な陛下には大きすぎる、男物の手袋。
「同じ香りを、もう一度お願いしたいのです」
私は差し出された手袋を、清潔な布の上で受け取った。
革の匂い。長く閉じた箱の乾いた空気。杉。
その奥に、かすかな甘さがあった。
息を深くしすぎないようにして、端から順に確かめる。
「花だけの香りではありませんね」
「ええ。白薔薇の香りよ」
焦げた砂糖の徴がした。
私は顔を上げなかった。
「正式なお名前が、白薔薇だったのでしょうか」
「名前は覚えていません。でも、あの人がそう言っていました」
陛下の指が、空になった膝の上で重なった。
「あの人は、いつも花の名前を間違えましたけれど」
先王が亡くなったのは、一昨年の秋だった。
葬列は店の前の大通りも通った。私は母の使っていた椅子に座り、閉じた窓越しに鐘を聞いた。
あの手袋は、おそらく。
「五日後、冬の手仕事会を開きます。職人たちの品を王宮で展示して、売上の一部を職人の救済金にする催しです。あの人と始めたの」
陛下は柔らかく微笑んだ。
「今年は、私が皆様をお迎えしなければなりません」
濡れた鉄の匂いが、足元まで落ちるように広がった。
悲しみ。おそらく、それだけではない。
「その時につける香りでしょうか」
「ええ。笑ってお客様とお話しできるように」
陛下は、手袋を見た。
「できれば、あの人が帰ってきたと思えるような」
私は、手袋の縫い目に視線を落とした。
代金の高い依頼だった。
古い香りの再現は、成功すれば評判になる。王宮に出入りできれば、材料の仕入れでも信用がつく。来月の家賃どころか、雨漏りする蒸留室の屋根まで直せるかもしれない。
けれど、できないことはある。
「亡くなった方は、香りでは戻りません」
壁際にいた女官が、息を呑んだ。
「リディさん」
控えていた灰色の髪の女官長が、低く声をかける。
私は陛下を見た。
「思い出しやすくすることはできます。泣きたい時に、涙の徴を隠すことも。でも、寂しくなくなるとはお約束できません」
エリアス様は何も言わなかった。
私を止めることもしなかった。
陛下はしばらく黙ってから、肩の力を抜いた。
「そう。そうね」
膝の上の指がほどけた。
「では、思い出せる香りをお願いします」
「かしこまりました。再現する元の香りがわからないので、調査と試作に代金がかかります。完成しなくても、その分は頂戴します」
女官長が今度ははっきり眉を寄せた。
「王太后陛下のお役に立てるというだけでも、香房にとっては――」
「支払条件は必要です」
エリアス様が遮った。
声は穏やかだった。
「昨年も、同じ説明で職人に着手を求めた記録があります」
女官長の口が閉じた。
陛下が、小さく笑った。
「まあ。私のところまで監察されるのね」
「会の支出ですので」
「結構です。店主さん、おいくら?」
私は持参した見積用紙を広げた。
王太后に仕事の値段を説明している間、エリアス様は少し離れたところに立っていた。
何を考えているのか、最後までわからなかった。
ただ、私の見積書を裏返さず、女官長にも読める向きで置き直したことは、よく見えた。
◇
最初に躓いたのは、母の帳面だった。
店に戻って年ごとの記録をひっくり返すと、十四年前の日付に、それらしい依頼が見つかった。
依頼人は『南の窓の方』。
品名は『帰り道』。
処方の欄には、母の字でこう書いてあった。
いつもの白薔薇は使わないこと。
「正反対じゃない」
私は机に額をつけた。
その下には、香料の量ではなく、短い言葉が続いていた。
橙の皮。乾いた木。火から下ろすのが遅れたもの。
午後、窓は開いていた。
二人分。
母は時々、完成前の印象をこんなふうに書いた。実際の配合は別紙に書いて挟んでいたはずだが、その紙がなかった。
私は帳面を逆さにして振った。
何も落ちなかった。
「振っても出ないものは、出ませんね」
翌朝、店を訪れたエリアス様は、同じことをしている私を見てそう言った。
「もう一度振ったら出る可能性に賭けていました」
「出ましたか」
「ご覧の通りです」
彼は扉の札を見た。
本日は午前のみ休業。
急な王宮の仕事でも、店を丸ごと閉めるわけにはいかない。午後には二件、受け取りの約束がある。
「王宮でお話を聞ける方を手配しました。昼までにお送りします」
「助かります。母の帳面には、白薔薇を使わないと書いてありました」
その言葉にも、彼の表情はほとんど変わらなかった。
「陛下に確認しますか」
「まず、他の方に。記憶は言葉に引っ張られるので、あまり早く答えをお渡ししたくありません」
「わかりました」
私は借りた手袋を箱に収め、道具鞄を持った。
エリアス様が手を伸ばしたので、反射的に鞄を後ろへ引く。
「中に硝子が入っています」
「そうですか」
彼はすぐ手を下ろした。
取り上げない。
それだけのことを、私はなぜか覚えておこうと思った。
王宮で最初に話を聞いたのは、先王付きだった老侍従だった。
「陛下は白薔薇を好まれました」
次の衣装係も同じことを言った。
「礼服には、白薔薇の香りを」
さらにその次の女官も。
「先王陛下といえば、白薔薇でございます」
誰からも、明らかな嘘の徴はしなかった。
全員がそう信じているのだ。
私は試香紙に白薔薇の香りを移した。甘く清楚で、わずかに青い。宮廷の式典で好まれそうな、上品な香りだった。
けれど、手袋の奥に残っているものとは違う。
革から伝わるのは、もっと低い甘さだ。
花瓶の花ではない。
熱を持った何か。
「手袋は、いつ使われたものですか」
老侍従は首を傾げた。
「庭を歩かれる時などに」
「式典では?」
「いいえ。式典にはもっと薄い革のものを。これは古く、何度も修繕しておりますので」
私は手袋を裏返した。
親指の付け根だけ、糸の色が違っていた。
左右で、縫い方も違う。
誰かが慣れない手で繕ったような、小さな歪みがあった。
「こちらを修繕した方は」
「さあ、衣装係ではないと思います。あちらに出されれば、さすがにもう少し」
言いかけて、老侍従は口をつぐんだ。
焦げた砂糖ではなく、ぴりりと胡椒のような気まずさがした。
なるほど。
私はそれ以上尋ねなかった。
昼前に店へ戻る途中、馬車でエリアス様に言った。
「皆さん、王様の話をするんです」
「王ですから」
「そうなんですが。陛下がお求めなのは、たぶん、王様ではない方の話です」
エリアス様は箱の上に視線を落とした。
「では、どなたに聞きますか」
「役職が変わっても、同じ人間として叱っていたような方はいませんか」
「一人、心当たりがあります」
翌朝、案内された先は、王宮の厨房だった。
窓の下で、丸いパンが幾つも膨らんでいた。
◇
「先王陛下の手袋? ああ、そりゃ奥様が繕ったやつだよ」
白い前掛けをした小柄なお婆さんは、粉のついた手で腰を叩いた。
王宮で四十年以上働く菓子職人、ベルタさんだった。
彼女だけが、王太后を奥様と呼んだ。
「左右で糸の色が違うでしょう」
「ええ」
「片方は糸が足りなくなったんだ。新しいのを持ってくると言ったら、これでいい、手を繋げば片方は見えないってね」
私は手袋を見下ろした。
陛下の笑顔が、少し違う顔になって思い出された。
「十四年ほど前、この手袋に香りをつけていた頃のことをご存じですか」
「十四年前。南の温室を直した年かね」
ベルタさんは顎に手を当てた。
指の節が太い。爪は短く、右の手首に古い火傷の痕があった。
「あの年は雨続きで、庭仕事の連中も困ってた。手仕事会の最初の年だ」
「最初?」
「大きな催しじゃなかったよ。仕事をなくした職人の品を、南の温室に並べて売ったんだ。奥様が思いついて、旦那様が机を運んで」
「先王陛下が?」
「机一つで偉そうにしてたねえ」
ベルタさんは容赦なく言った。
エリアス様の方を見たけれど、彼は平然と聞いていた。
「で、奥様まで、自分も何か売るって言い出してさ」
「何を?」
「橙の焼き菓子」
私は、母の帳面を開いた。
橙の皮。
「上手だったのですか」
「最初は」
ベルタさんはきっぱり言った。
「焦がした」
火から下ろすのが遅れたもの。
私は帳面を握る手に力を込めた。
「どんな匂いでした?」
「どんなって、焦げた匂いだよ」
「生地ですか。砂糖ですか。皮は生のまま? それとも砂糖煮に?」
ベルタさんの眉が上がった。
私は一歩近づく。
「型に脂を塗りました? 薪は何を使っていましたか。窓は開けて?」
「待ちな。あんた、急にしゃべるね」
「香りの話なので」
「そうかい」
ベルタさんが笑った。
「砂糖煮の皮を刻んで、生地に入れた。型にはバター。薪は普通の広葉樹だよ。窓は開けたさ、煙を逃がすのに」
午後、窓は開いていた。
帳面の言葉が、少しずつ物になっていった。
「旦那様は焦げた端がうまいって食べてた。奥様が取り上げようとして、二人で一つの菓子を引っ張ってさ。半分ずつ持ったまま、笑ってたねえ」
二人分。
私は顔を上げた。
見つかった。
少なくとも、母が香りにしようとした場面は。
けれど、まだわからないことがあった。
「陛下は、白薔薇の香りだとおっしゃいました」
「白薔薇?」
ベルタさんの笑顔が止まった。
その瞬間、濡れた鉄が香った。
私は思わず、徴を追った。
悲しみの下に、焦げた砂糖がある。
隠している。
何を。
「あの、何か、ご存じではありませんか」
「知らないよ」
焦げた砂糖が濃くなった。
私はもう一度息を吸った。
奥に、酸い匂いがあった。恐れか。後悔か。もっとはっきりさせようと、意識を細くして、その人だけを拾う。
「ベルタさん」
エリアス様の声がした。
「手仕事会が終わった後、何かあったのですか」
ベルタさんはしばらく黙っていた。
私は、まだ匂いを追っていた。
あと少しで区別できると思った。
「奥様は、ここへ来なくなった」
ベルタさんが言った。
「その後、女官長様から言われたんだ。王妃陛下が厨房で菓子を焦がしたなんて、外で話すことじゃないって」
鼻の奥で、火花が散った。
私は反射的に口元を押さえた。
ベルタさんの声だけが続いた。
「悪いことを言われたわけじゃない。あたしも、奥様が笑いものにされたら嫌だった。それだけだよ」
ああ。
これは、罪悪感ではなかった。
大切な人を守りたい時にも、同じ匂いになるのか。
そう思った瞬間、橙が消えた。
焼き上がったばかりの菓子も。
粉も、バターも、厨房の煙も。
全部、消えた。
「リディさん」
エリアス様が、私の方へ体を向けた。
「どうしましたか」
「少し、鼻を」
私は鞄から、確かめるための小瓶を出した。
薄めた薄荷。
いつもなら、栓を抜くだけで涼しい筋が通る。
何もなかった。
私は小瓶を閉じた。
鼻を焼いた。
能力を使いすぎればこうなる。母には何度も叱られた。徴を拾うことと、それを追いかけ続けることは違う。後者をやりすぎれば、数日は普通の匂いまで失う。
知っていた。
だから仕事中は、必ず区切って休むようにしていた。
なのに王宮へ来てから、私は一人ひとりの言葉を、いちいち匂いで確かめていた。
誰も信じず、間違えないようにと。
「匂いが、しなくなりました」
口にすると、恐ろしさが形になった。
手仕事会まで、あと三日だった。
◇
帰りの馬車で、私はずっと膝の上の手を見ていた。
今朝切り分けた石鹸。今日仕上げるつもりだった練り香。明日の受け取りを約束した香水。
納品を延ばすものと、既に完成しているから渡せるものを分ける。
返金が必要な分を数える。
王宮の前金は、もう材料を買うのに使った。
全部返すとなると、家賃が足りない。
「店へ戻りますか」
エリアス様が尋ねた。
「はい。臨時休業の札を出します」
「医師を呼びますか」
「これは、休めば戻ります。前にもやりました」
「何日かかりましたか」
「前は三日。長い時は五日です」
彼はそれ以上、質問しなかった。
大丈夫とも、間に合うとも言わなかった。
ありがたかった。
何もわからない今、大丈夫だという言葉まで自分で疑いたくなかった。
店へ着いて、私は硝子戸に札を掛けた。
調香の新規受付を、しばらくお休みいたします。
書いた紙が、やけに白く見えた。
エリアス様は入口に立ったまま、私が振り向くのを待っていた。
「今回の仕事は、お断りするべきだと思います」
私は言った。
「理由は、私の不手際です。調査分の代金は頂戴しますが、調香の前金については」
「陛下に報告します」
「はい」
「続けられるかどうかは、その後に話し合いましょう」
きっと失望された。
そう思った。
けれど、匂いのない彼を見ていても、答えは出なかった。
「怒っていらっしゃいますか」
エリアス様は、少しだけ眉を動かした。
「何についてですか」
「無理をして、仕事を駄目にしたことです」
「なぜ無理をしたのかは、気になっています」
私は作業台の角を指でなぞった。
「失敗したくなかったので」
「はい」
「母の名前で呼ばれた仕事でしたから。何もかも、ちゃんと確かめないといけないと」
言いながら、目の奥が熱くなった。
泣いている暇はない。
お客様への連絡を書かなくてはいけない。ベルタさんにも謝らなければ。あの人が隠したかったのは王太后の失敗で、誰かを害する企みではなかった。
それを私は、嘘を嗅ぎつけた途端、追い詰めた。
「ベルタの話は、聞けました」
エリアス様が言った。
「ですが、あなたが傷つく必要はありませんでした」
「傷というほどでは」
「三日、仕事ができません」
言い返せなかった。
その通りだった。
「私の仕事の都合で、あなたの明日からの仕事まで失わせたくはありません」
彼はそう言って、作業台の空いている場所を見た。
「座ってもいいですか」
私は頷いた。
エリアス様はお客様用の丸椅子に座った。長い脚の置き場がなく、少し窮屈そうだった。
「連絡を書くのでしょう。宛名を分ける程度なら、手伝えます」
「監察官のお仕事ではありませんよね」
「今は昼休みです」
「もう、とっくに過ぎています」
「まだ取っていませんでした」
私は彼の顔を見た。
嘘かどうか、わからない。
だから、尋ねるしかなかった。
「本当に?」
「はい」
それでも真偽はわからなかったが、彼は上着を脱ぎ、袖口を整えて、私が差し出した紙を受け取った。
少なくとも、手伝うという言葉は本当になった。
私は厨房からお茶を運んだ。
味はわかった。温度も、渋さも。
けれど香りがなくて、お湯がひどく寂しかった。
「お茶、薄くありませんか」
「ちょうどいいです」
「香りは?」
「草に似ています」
私は顔を上げた。
エリアス様は真面目だった。
「草」
「すみません。上手く言えません」
「いいえ。間違ってはいません。春摘みなので」
笑ってしまった。
鼻を焼いてから、初めてだった。
彼は私の顔を見て、カップを持ち直した。
「少し、豆にも似ています」
「ええ。それもあります」
私は湯気の上がるカップを両手で包んだ。
誰かにお茶の匂いを教えてもらうなんて、生まれて初めてだった。
◇
翌朝、王太后から届いた返事は短かった。
続けてください。あなたの鼻が戻るかどうかではなく、あなたの話を聞きたいのです。
私は手紙を二度読んだ。
店には既にマノンが来ていた。
新規受付の休止を見て、パンを持ってきてくれたのだ。
「返事、書かないの?」
「書くわ」
「手が止まってる」
「ありがたい話と、できる仕事は、別なのよ」
マノンは作業台に並ぶ瓶を見た。
母が作った香料の一部と、私がこの二年で作ったもの。
熟成の済んだ素地もある。材料は揃っていた。
配合が決まれば、作ること自体はできる。
ただし、確かめられない。
「私じゃ駄目?」
「何が?」
「嗅ぐの」
私はマノンを見た。
彼女はいつものように、両足でしっかり立っていた。
「私、おいしいパンと焦げたパンならわかるよ」
「香水は食べられないのよ」
「知ってるよ」
私は返事をしかけて、止まった。
今、私は何をしようとしただろう。
自分と同じように嗅げないから、この子にはわからないと決めた。
買ってくれるのは、自分と同じ鼻を持たない人たちなのに。
「あなた一人に、商品の仕上がり全部を任せるわけにはいかない」
「うん」
「でも、橙の焼き菓子らしいかどうかは、私より詳しいかもしれない」
マノンが笑った。
私は便箋を手元に引き寄せた。
陛下のご了承がいただけるなら、試作品を作る。
ただし、品質を確認するために、もう一人、職人の手が必要だった。
向かいの石鹸屋のポーラさんは、若い頃に香油を扱っていた。母が病気だった時にも、何度か仕上がりを確かめてもらったことがある。
午後の店番をマノンに頼み、私はポーラさんを訪ねた。
事情を聞くと、彼女は腕を組んだ。
「やっと来たね」
「え?」
「あんた、何でも母親と同じように一人でできなきゃと思ってるだろ」
「そんなことは」
「あのお母さんだって、しょっちゅううちでぼやいてたよ。娘が寝た後に」
知らなかった。
母は何でもわかっていた。
少なくとも、私はそう思っていた。
「仕事としてお願いします。報酬をお支払いします」
「なら、半日分。それで、うちの新しい石鹸も、鼻が戻ったら確かめておくれ」
「そちらも、仕事として」
「ああ。お互い、店を潰さないようにしないとね」
私は深く頷いた。
その足で、エリアス様と王宮へ向かった。
陛下は先日と同じ居間にいた。今度は膝の上に手袋がなかった。
「ベルタから聞きました」
私が挨拶を終えると、陛下が言った。
「あなたが、あの日を見つけてくださったと」
「見つけたのは、母の帳面と、ベルタさんです。私はまだ、香りを作っていません」
「白薔薇ではなかったでしょう」
「はい」
陛下は、困ったように微笑んだ。
「私、白薔薇だと思いたかったのでしょうね」
匂いがしない。
この方が嘘をついているか、本当のことを言っているか、今の私にはわからない。
私は顔を見るしかなかった。
「思おうと?」
「あの人が、式典で使っていた香りです。皆が覚えている、立派な王の香り」
陛下は窓の外へ視線を向けた。
「手仕事会が大きくなってから、私も皆様にふさわしい顔をしなければと思うようになりました。あの人がいなくなってからは、なおさら」
刺繍枠にかけられた布の端を、細い指が撫でた。
「焦げた菓子の匂いで笑っていた夫婦の話など、誰も求めていないと思ったのです」
私は鞄から母の帳面を出した。
「母は、ここに『二人分』と書いています」
陛下の指が止まった。
「香りを、二本ご注文になったのですか」
「いいえ」
陛下はゆっくり首を振った。
「一本だけ。二人で使おうと、あの人が」
私は帳面を閉じた。
「でしたら、皆様のための香りではなく、陛下がお使いになりたいものを作ってもいいでしょうか」
「私が」
「泣いていたことを隠す香りを、と承りました。でも、何も感じなくなるものではありません。笑えるかどうかも、お約束できません」
「ええ」
「それでも、あの午後の香りでよろしいですか」
陛下は私を見た。
口元が震えた。
「ええ。あれがいいわ」
匂いがなくても、わかった。
いいえ。
わかったと思って、先回りする必要もなかった。
今、この方が、そうおっしゃったのだ。
それを、注文として受け取ればよかった。
◇
香りを作る時、私は目を閉じることが多い。
この日は、目を開けていた。
作業台に三枚の紙を並べ、それぞれに使う材料と量を書く。
母の『帰り道』をそのまま再現することは、もう目指さなかった。失われた配合は、失われたままだ。
作るのは、陛下の覚えている午後に届く、新しい香り。
最初の試作は、橙が強すぎた。
「お菓子というより、皮を剥いた手」
マノンが言った。
私は頷き、果皮の素地を減らした。
次は、甘さが重かった。
「箱に詰めて、一晩置いた感じだね」
ポーラさんが試香紙を扇いだ。
「あと、樹脂が後に残りすぎる。服につけたら、明日まで居座るよ」
私は配合を書き直した。
薄めた安息香を控え、乾いた杉の素地を増やす。橙の花はごく少量。花を咲かせたいのではなく、窓から入った外の空気を作りたかった。
焦げた部分は、そのまま煙の香りを入れると強すぎる。
母が使っていた、焙った穀物を思わせる香料を、既に馴染ませてある甘い素地へ少しずつ足す。
数字だけを頼りに混ぜるのは怖かった。
普段なら、一滴落とすごとに自分で確かめる。
今は、二人が紙を鼻へ近づけるのを待った。
待つ時間が、こんなに長いとは知らなかった。
「今の、いい」
マノンが言った。
「でも、まだ、きれいすぎる」
「きれいすぎる?」
「お城で出るお菓子みたい。実際に食べたことないけど」
私は思わず笑った。
窓の外を見る。
夕方の光が、道向かいの古い木戸に当たっていた。
乾いた木。
母の帳面には、杉とは書かれていない。
手袋の革から拾った木の匂いは、箱から移ったものかもしれなかった。
「椅子かもしれない」
「何が?」
「温室に運んだ机。二人で座った椅子。新しい家具じゃなくて、家の中から持ち出した、磨き込まれた木」
杉をほんの少し減らした。
代わりに、柔らかな木の素地を加える。つややかにしすぎないよう、量を抑える。
夕方、エリアス様が来た時、作業台には十枚以上の試香紙が立っていた。
「進んでいますか」
「進んでいます。でも、私の知っている進み方ではありません」
彼は紙を眺めた。
「私にも、できますか」
私は一枚を渡した。
「嗅いだことを、そのまま教えてください」
エリアス様は慎重に紙を持った。
しばらくして、首を傾げる。
「朝食を抜いたことを思い出しました」
マノンが噴き出した。
ポーラさんも肩を揺らした。
私は試香紙の番号に、小さな丸をつけた。
「とても参考になります」
「役に立ったのでしょうか」
「ええ。食べ物を思い出す。でも、食べ物そのものではない。その辺りが欲しかったので」
彼はもう一度、紙に鼻を近づけた。
「温かいです」
私は、書きかけていた手を止めた。
エリアス様は試香紙を光に透かすように見た。
「冷めているはずなのに」
私はその言葉を、配合の下に書いた。
その夜のうちに候補を二つに絞った。
翌朝、布につけた時の残り方をポーラさんに確認してもらい、小瓶に分けて王宮へ持参した。
私の鼻は、まだ戻らなかった。
◇
手仕事会の前日、女官長が私の納品書を見て言った。
「商品名と工房名は、こちらで変更させていただきます」
私は顔を上げた。
場所は王太后の居間ではなく、その手前の控えの間だった。
小瓶が二本、白い布の上に並んでいる。
「変更とは」
「今回の香りは、宮廷の白薔薇として扱います。セルフィーユ家は、今は宮廷への正式な出入りを認められておりませんので」
「香房の営業許可はあります」
「市中の営業と、王宮の御用は別です」
女官長は、疲れたように眉間を押さえた。
「あなたに悪意があるわけではありません。陛下が個人的に昔を懐かしまれるのは結構です。ただ、それを催しの表へ出すとなると、余計な話が広がります」
「没落した家の娘が、王太后陛下の香りを作った、と」
「そういう言い方は」
「事実ですから、私は構いません」
私は納品書を手元へ戻した。
「陛下のお名前を看板に掲げるつもりもありません。ただ、他の工房が作った品として出されるのなら、承知できません」
「まだ工房の名まで決めたわけでは」
「でしたら、今ここで決めてください」
私の声は、自分で思っていたより落ち着いていた。
匂いがないから、相手がどれほど怒っているのかもわからない。
それでも、引けないものはわかった。
「王太后陛下のために、少しの配慮もできないのですか」
「できます。陛下の思い出は、私から誰にもお話ししません。ご依頼があったことを宣伝もしません。でも、作った者の名前を、別の名前で覆わないでください」
女官長は黙った。
私は続けた。
「母が始めた香房です。私だけの見栄ではありません。この先、ここで働く人を雇うかもしれない。その人に、よい仕事をすれば名前を消してもらえる店だとは、言いたくありません」
「私から説明します」
エリアス様が、壁際から進み出た。
彼は女官長の前に、もう一枚の書面を置いた。
「今回の依頼は、調査と試作を含む私的な注文として承認されています。正式な御用達の任命とは別です。代金を支払った上で作り手を伏せるかどうかは、依頼主と店主が決めることです」
「ノルデン次席。これは宮廷の慣例で」
「異なる制作者名で記録すれば、私が訂正を求めることになります」
淡々とした声だった。
女官長の視線が、扉へ動く。
扉が開いていた。
王太后が立っていた。
「私の香りは、届いたかしら」
誰もすぐには答えなかった。
陛下は私を見た。
「店主さん」
「はい。二種類、お持ちしました」
「では、私に選ばせてくださいな」
女官長が身を引いた。
私は小瓶と試香紙を持ち、陛下の居間へ入った。
最初の香りを紙へ移す。
明るい橙。甘さは軽く、花が少しだけ多い方。
陛下は目を閉じて嗅いだ。
「よい香りですね」
「恐れ入ります」
次の紙を渡す。
乾いた木と、わずかな焦げた甘さが残る方。
陛下の指が止まった。
紙を遠ざけ、もう一度近づける。
私は待った。
いつものように、気に入った徴を探すことはできない。
沈黙を、失敗だと決めることもできなかった。
「もう少し、焦げていたわ」
陛下が言った。
私は瞬きをした。
「菓子が、ですか」
「ええ。ベルタは遠慮して話したのね。もっと、ずっと」
陛下は紙を見つめたまま笑った。
「端を切り落としたら、真ん中しか残らなかったの。それでもあの人、焦げた方を取ったのよ」
笑い声が、一度途切れた。
涙が、頬を伝った。
女官長が動きかけた。
陛下は首を振った。
「待って。今、思い出しているの」
私は両手を膝の上で重ねた。
誰も話さなかった。
やがて陛下は自分でハンカチを取り、目元を押さえた。
「この香りにしてください」
「もう少し、焦げた甘さを足しましょうか」
「いいえ。これでいいわ」
陛下は、試香紙を胸元へ寄せた。
「あの菓子より、上手にできていますもの」
私はようやく息を吐いた。
「品名は、『帰り道』といたしました。母の帳面にあった名前です。ただ、母の品と同じものではありません。私と、手伝ってくれた職人たちが作った、新しい香りです」
「ええ」
「私自身は、まだ仕上がりを嗅げておりません」
「それでも、私の欲しかったものを聞いてくださったでしょう」
陛下が、私の方へ顔を向けた。
「明日、これをつけて行きます」
私は深く頭を下げた。
その時ようやく、受けた仕事を届けられたのだと思った。
◇
冬の手仕事会に、私の名前が大きく掲げられはしなかった。
王太后専属の調香師に任じられることも、セルフィーユ家の名誉が華々しく復活することもなかった。
香房の品を置く場所は、南の温室の入口に近い、小さな卓一つ。
出店名簿の末尾に、当日追加の文字で、セルフィーユ香房。
それだけだった。
ただし、使用料は免除された。
私はその条件を、きちんと書面で受け取った。
「入口って、寒くない?」
マノンが卓の布を整えながら言った。
「全員が通るわ」
「そういう考え方なんだ」
「そういう商売なの」
並べたのは、いつもの練り香と、小分けの香り袋。それから『帰り道』の見本だった。
『帰り道』の販売分は、私の鼻が戻ってから改めて仕上げる。今日は予約だけ。
母と王太后の思い出は、どこにも書かなかった。
商品札には、簡潔に記した。
橙、柔らかな木、焦げた砂糖を思わせる甘さ。
午後の休息に。
ポーラさんの石鹸も、卓の端に置いた。彼女は今回の報酬の一部を、出品場所で受け取ることを選んだ。
王宮へ来る前に、うちの家賃二か月分ほどを売るつもりだと宣言していたので、私は邪魔をしないことにした。
温室には冬の花が並び、頭上の硝子から淡い日差しが降っていた。
陶器。木工品。織物。刺繍。靴。
人の手が作ったものの間を、普段は買い物籠など持たないご婦人たちが歩いていく。
やがて、奥の扉が開いた。
王太后が姿を現した。
薄紫のドレス。真珠の耳飾り。胸元には、小さな白い花。
私は、香りを確かめるように息を吸いかけた。
途中でやめた。
見ればいい。
陛下は来賓たちに挨拶をし、それから温室の端に置かれた焼き菓子の卓へ向かった。
ベルタさんが、銀の皿を差し出す。
王太后は、その中から一つ取った。
「今日は、焦がさずにできているのね」
近くにいた人たちが、顔を見合わせた。
ベルタさんは平然と答えた。
「私が焼きましたので」
王太后が笑った。
私も笑った。
その笑い声に気づいて、陛下がこちらを見た。
ほんの小さく頷いた。
それから来賓たちに向き直った。
「この会を始めた時、私も売り物を作ろうとして、菓子を焦がしました」
温室が静かになった。
「職人の仕事は、見ているよりずっと難しいのだと、その日に知りました。以来、私は作る方ではなく、買う方でお役に立とうと決めております」
幾つか、控えめな笑い声が上がった。
女官長は少し離れたところに立っていた。
止めなかった。
「どうぞ皆様、値札を見て、作り手の話を聞いてください。手をかけたものには、それだけの理由がございますから」
陛下は焼き菓子を一口食べた。
それから、目元を指で押さえた。
笑っていたのか、少し泣いていたのか。
遠くから見ていた私には、はっきりとはわからなかった。
でも、誰も困った顔をしなかった。
ベルタさんが、何も言わずにもう一つ菓子を皿へ載せた。
それで、十分だった。
「リディさん」
隣にエリアス様が立っていた。
私は少し驚いた。彼が近づいても、普段から匂いで気づくことはできない。そのことに、今日は初めて安心した。
今の私だけが、取り残されているわけではない。
「ご依頼の残金です。受領を確認してください」
彼は薄い封筒を差し出した。
私は中身を数えた。
調査費。材料費。調香代。出張費。
不足はなかった。
「確かに頂戴しました」
「それから、予約が一件入るそうです。会計官の奥方が、後ほど来られます」
「どんな香りを?」
「夫に、買い物の総額を尋ねられても落ち着いていられるものを、と」
私は彼を見た。
「監察官として、その注文を取り次いでよろしいのですか」
「家庭の会計は、管轄外です」
今度は、わかった。
口元が少しだけ上がっていた。
この人は、冗談を言う。
私はそれを初めて、匂い以外の方法で覚えた。
◇
鼻が戻ったのは、手仕事会の二日後だった。
朝、湯を沸かしている時に、濡れた薪の匂いがした。
私はその場にしゃがみ込んだ。
嬉しくて、少しだけ泣いた。
誰も見ていなかったので、隠す香りは使わなかった。
回復してから最初に嗅いだ『帰り道』は、私が想像していたものと、少し違った。
橙は思っていたより控えめで、木の温かさが長く残った。甘さの奥にわずかなほろ苦さがあり、鼻を近づけると、思わずもう一度嗅ぎたくなる。
母なら違う配合にしたかもしれない。
私はこれが、好きだった。
瓶の首に札を結び、正式な商品台帳に書き込んだ。
セルフィーユ香房製。
協力、ポーラ香油石鹸店。
味覚相談、パン屋のマノン。
マノンは最後の行を見て、お腹を抱えて笑った。
「味覚相談って何!」
「あなたが食べ物を基準にしたから」
「報酬は?」
「約束通り、練り香三か月分」
「母さんに分けてもいい?」
「もちろん」
手仕事会の予約は、十二件入った。
屋根を全部直すには、まだ足りない。
けれど雨漏りする一角なら直せるし、家賃は来月分まで払えた。ポーラさんへの報酬も払い終えた。
王宮からは、追加の注文が一本届いた。
王太后の私物として。
公開の御用達ではなく、依頼のたびに見積もりを出す形で。
女官長からの手紙には、陛下の名を宣伝に使わないよう、丁寧な念押しがあった。その次の行に、ご本人の私用として香り袋を二つ欲しいと書かれていた。
私は通常の値段でお受けした。
その日の夕方、鐘が鳴った。
顔を上げる前から、誰かわかった。
匂いが増えなかったからだ。
「いらっしゃいませ、ノルデン様」
「戻ったのですね」
「ええ。おかげさまで」
エリアス様は店に入り、入口の札を見た。
調香のご注文、承ります。
それを確かめてから、こちらへ来た。
「今日は、お仕事ですか」
「いいえ」
彼は作業台に銀貨を三枚置いた。
私は硬貨と彼の顔を交互に見た。
「練り香でしたら、そんなにいたしません」
「相談料です」
「内容によります」
「香りがしない相手にも、香りを選べますか」
私は少し考えた。
彼自身が無香であることと、彼が香りを感じないことは違う。お茶の草の匂いも、試作の温かさも、彼には届いていた。
「選べます。ただ、普段の暮らしや、お好みを伺います」
「お願いします」
「ご自分用ですか」
「はい」
私はお客様用の椅子を勧めた。
彼はもう、座る前に断りを入れなかった。
「まず、好きな香りはありますか」
「この店の香りです」
「……かなり混ざっていますよ」
「はい」
「花ですか。木ですか。それとも甘いもの?」
エリアス様は棚を見た。
窓辺の乾燥ラベンダー。作業台の橙。古い帳面。湯を沸かす小さな炉。
「どれなのか、まだわかりません」
「では、一つずつ試しましょう」
私は試香紙を用意した。
橙、杉、薔薇。
順に差し出すと、彼は一枚ずつ丁寧に嗅いだ。
どれも悪くないと言う。
それだけでは、仕事が進まない。
「ノルデン様」
「はい」
「何でもよいとおっしゃるお客様が、一番難しいのです」
「何でもよいわけではありません」
「では、どんな時につけたいですか」
彼は手元の紙を揃えた。
端と端がぴたりと重なる。
揃えた後も、しばらくその紙を見ていた。
「ここへ来られない日に」
私は、次の瓶へ伸ばしかけた手を止めた。
彼は顔を上げた。
匂いは、なかった。
照れているのか。単に店が気に入ったのか。仕事を離れた休息が欲しいのか。
何も、わからなかった。
いつもの私なら、相手の徴を拾って、いちばん傷つかない答えを探しただろう。
けれど、この人には最初からできない。
「それは、うちの香りを気に入ってくださったということでしょうか」
「それもあります」
それも。
私は硝子瓶を置いた。
音が少し大きくなった。
「他には?」
エリアス様の指が、試香紙から離れた。
「あなたと、お茶を飲む時間が気に入っています」
私は黙った。
彼も黙った。
店の奥で、湯が沸き始めた。
私は彼を見た。灰色の目。きちんとした襟。机の上に置かれた両手。
いつでも簡潔に話す人だった。
でも今は、私が何か言うまで、席を立たずに待っていた。
「……お茶は、香水瓶には入れられません」
「知っています」
「草に似た香りなら、作れます」
「お願いします」
「でも、一緒に飲む時間は、別です」
エリアス様は頷いた。
「それは、どうすれば頼めますか」
私は銀貨を三枚、彼の方へ押し戻した。
「閉店まで、あと半刻あります」
「はい」
「待っていただけるなら。今日は春摘みではなく、少し甘いお茶にします」
彼は銀貨を見て、それから私を見た。
「待ちます」
それだけ言って、椅子に座り直した。
私は帳簿を開いた。
数字を一つ、書き間違えた。
消して、書き直した。
香りで何でも見抜けるなどと、時々、ひどい噂を立てられる。
そんなことはない。
悲しみと後悔を取り違える。大事な人を守る嘘を、悪意と疑う。自分一人の鼻で作らなければ、よい香りにならないと思い込む。
そして目の前の人の気持ちは、今もまったく嗅ぎ取れない。
それでも、彼が私の値段を下げなかったことを知っている。
鞄を勝手に奪わず、返事を待ったことを。
香りのないお茶の向こうで、草と豆の匂いを探してくれたことを。
閉店の時刻になった。
私は扉の札を裏返し、棚からカップを二つ取った。
「ノルデン様。香りの相談の続きですが」
「はい」
「次は、お休みの日に来てください。仕事帰りではなく」
彼が顔を上げた。
私はカップを置いた。
「その方が、好きなものをゆっくり伺えますので」
「わかりました」
一呼吸置いて、彼が尋ねた。
「香りが決まった後も、来ていいですか」
私はとうとう笑ってしまった。
こんなにわかりにくい人なのに。
そんなふうに、一つずつ聞いてくれる。
「ええ。お茶が冷めないうちに来てくだされば」
エリアス様の口元が、今度ははっきりと緩んだ。
その顔を、私はよく見ておいた。
覚えたいことが、また一つ増えた。




