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「好きな香りは?」「この店の香りです」――監察官様、それだけでは選べません

作者: 河合ゆうじ
掲載日:2026/09/06

「泣いていたことが、わからなくなる香りはある?」


 セルフィーユ香房の本日最初のお客様は、そう言って銅貨を七枚、作業台に並べた。

 パン屋の娘のマノンだった。いつもなら扉を開けるより先に挨拶が飛び込んでくるのに、今日は焼きたてのパンの匂いだけが元気だった。

 私は並んだ硬貨を数え、その向こうの赤い鼻を見た。


「あるわ。でも、腫れたまぶたまでは隠せない」

「そこは冷たい布でなんとかする」

「よろしい。別々の職人の仕事を、香水一本に押しつけないお客様は好きよ」


 マノンの口元が、少しだけ動いた。


 棚から小さな陶器の壺を下ろす。昨日仕込んだ練り香の素地は、蜂蜜色に透き通っていた。そこへ薄めた橙の果皮油を落とし、木べらでゆっくり混ぜる。

 甘い。けれど、まだ明るすぎる。

 細口瓶から杉の香りを一滴。匙の先で掬った安息香をほんの少し。

 橙が丸くなった。皮を剥いたばかりの鋭さが引っ込み、陽の当たる木箱に果物をしまったような、穏やかな香りになる。


「薔薇じゃないんだ」

「あなたが急に薔薇をつけて帰ったら、何かありましたって宣伝するようなものよ。パン屋なら橙の方が自然でしょう」

「なるほど」

「ほら、手を」


 差し出された手首に、米粒ほどの練り香を伸ばす。

 その下には、濡れた鉄に似た匂いがあった。

 悲しみの徴だ。


 もっとも、私は人の心が読めるわけではない。濡れた鉄が悲しみとは限らないし、焦げた砂糖に似た匂いがしたからといって、必ず嘘をついているとも限らない。痛みを堪えた時にも、言いたいことを飲み込んだ時にも、似たものが混じる。

 わかるのは、せいぜい一部屋の中にいる人の、表からは見えにくい変化だけ。

 その変化さえ、香りの重ね方次第で見えなくなる。


 マノンの手首から濡れた鉄が遠ざかり、橙と温かな木の香りに紛れていった。


「すごい。なんか、ちゃんと立てる気がする」

「立てているわよ、さっきから」

「そうじゃなくて」

「ええ」


 私は小さな缶に練り香を詰めた。

 告白に失敗したのか、両親と喧嘩したのか。尋ねるつもりはなかった。

 お客様が買いに来るのは、話す機会とは限らない。

 話さずに済む時間が必要な人もいる。


「銅貨六枚。空いた缶を持ってくれば、次は一枚引くわ」

「七枚あるよ?」

「一枚は冷たい布を借りるために取っておきなさい」

「布くらい家にあるもん」


 ようやく、いつもの声に戻った。


 マノンが出ていくのと入れ違いに、店の鐘がもう一度鳴った。

 黒い上着の男が、扉の内側で足を止めていた。

 背が高い。灰色の瞳に、きちんと整えられた黒髪。襟元の銀章は麦穂を抱いた秤の形で、王宮監察局のものだった。


 そして、匂いがしなかった。

 私は木べらを持ったまま、動きを止めた。


 人が一人入ってくれば、革靴、髪、肌、洗濯石鹸、外の空気といった匂いが何かしら増える。どれほど清潔な人でも、生きている以上は匂う。

 ところが、その人の立つ場所だけ、何も増えなかった。

 棚の薔薇水も、窓辺の乾燥ラベンダーも、私の手についた橙も、全部ある。

 彼だけが、ない。


「セルフィーユ香房の店主、リディ・セルフィーユさんですか」

「はい」

「王宮監察局次席監察官、エリアス・ノルデンです」

「何かご用でしょうか」

「泣いていたことを隠す香りを売っているのですか」


 私は木べらを置いた。


「ええ。寝不足の顔に白粉をはたくのと同じです」

「嘘も隠せますか」

「場合によっては」

「それを、誰にでも?」


 灰色の目は、ひどく静かだった。

 こういう時、普通なら不快や警戒の徴がわかる。私はそれを踏まえて、言い方を変えられる。

 けれど、この人については何もわからない。


「刃物屋は、包丁を買う人の夕飯を調べません。ただ、今から誰かを刺すと聞けば売らないでしょう。うちも同じです」

「なるほど」

「お役人に嫌われる商売なのは承知しています。ですが、売った香りが隠したものまで、私の罪にはなりません」

「責めに来たのではありません」


 彼は上着の内側から封書を出した。


「その香りを、王宮で作っていただきたいのです」


 私は封蝋の紋章を見て、次に彼を見た。

 王太后の印だった。


「出張費は別ですが」

「見積もりに含めてください」


 返事が早い。

 匂いもない。

 とてもやりにくいお客様だった。


     ◇


 セルフィーユ家に領地がなくなったのは、私が十二歳の時だった。

 父の借金と、祖父の代から続いていた不作と、その他いろいろ。子供だった私にはわからなかった事情もあるけれど、八年経った今なら帳簿に書かれていた数字の意味はわかる。

 たいした家ではなかった。

 ただ、なくすには十分大きな家だった。


 母は嫁入り道具の宝石を売って小さな香房を開いた。私が十八歳になった冬に、その店と香りの帳面を残して亡くなった。

 だから二十歳の私が最も大切にしている数字は、家名の古さでも、社交界の序列でもない。

 家賃の支払日まで、あと何日あるかだ。


「五日後の催しで、王太后陛下が使われる香りを作っていただきます」


 馬車の中でエリアス様が言った。


「五日では、いちから十分に馴染ませる香水は作れません。手元にある熟成済みのものを組み合わせることになります」

「それも含めて、直接お伝えください」

「依頼を断る可能性もありますよ」

「はい」


 やはり返事が早かった。

 王宮の人間は、断られることを想像しないと思っていた。


「どうして監察官が、香りの注文を?」

「昨年の同じ催しで、職人への支払いが三か月遅れました。今年は支出を確認しています」

「それは、とても重要なお仕事ですね」


 思わず心から言うと、彼は一度だけ瞬きをした。

 笑ったのかどうかは、わからなかった。


 王宮で通されたのは、金色の椅子が並ぶ謁見室ではなかった。

 南向きの小さな居間だった。窓辺に刺繍枠があり、肘掛け椅子の脇には読みかけの本が伏せられている。

 王太后イレーヌ陛下は、薄紫の普段着で座っていた。


「あなたのお母様に、昔、香りを作っていただいたことがあるの」


 挨拶を終えた私に、陛下はそう言った。

 母の顧客名簿には貴族もいた。ただし、王太后の名前はなかった。


「存じ上げませんでした」

「名を伏せて頼んだから。あの方は、よい職人でしたね」

「恐れ入ります」


 陛下の膝には、古びた革手袋が一双載っていた。

 小柄な陛下には大きすぎる、男物の手袋。


「同じ香りを、もう一度お願いしたいのです」


 私は差し出された手袋を、清潔な布の上で受け取った。

 革の匂い。長く閉じた箱の乾いた空気。杉。

 その奥に、かすかな甘さがあった。

 息を深くしすぎないようにして、端から順に確かめる。


「花だけの香りではありませんね」

「ええ。白薔薇の香りよ」


 焦げた砂糖の徴がした。

 私は顔を上げなかった。


「正式なお名前が、白薔薇だったのでしょうか」

「名前は覚えていません。でも、あの人がそう言っていました」


 陛下の指が、空になった膝の上で重なった。


「あの人は、いつも花の名前を間違えましたけれど」


 先王が亡くなったのは、一昨年の秋だった。

 葬列は店の前の大通りも通った。私は母の使っていた椅子に座り、閉じた窓越しに鐘を聞いた。

 あの手袋は、おそらく。


「五日後、冬の手仕事会を開きます。職人たちの品を王宮で展示して、売上の一部を職人の救済金にする催しです。あの人と始めたの」


 陛下は柔らかく微笑んだ。


「今年は、私が皆様をお迎えしなければなりません」


 濡れた鉄の匂いが、足元まで落ちるように広がった。

 悲しみ。おそらく、それだけではない。


「その時につける香りでしょうか」

「ええ。笑ってお客様とお話しできるように」


 陛下は、手袋を見た。


「できれば、あの人が帰ってきたと思えるような」


 私は、手袋の縫い目に視線を落とした。


 代金の高い依頼だった。

 古い香りの再現は、成功すれば評判になる。王宮に出入りできれば、材料の仕入れでも信用がつく。来月の家賃どころか、雨漏りする蒸留室の屋根まで直せるかもしれない。

 けれど、できないことはある。


「亡くなった方は、香りでは戻りません」


 壁際にいた女官が、息を呑んだ。


「リディさん」


 控えていた灰色の髪の女官長が、低く声をかける。

 私は陛下を見た。


「思い出しやすくすることはできます。泣きたい時に、涙の徴を隠すことも。でも、寂しくなくなるとはお約束できません」


 エリアス様は何も言わなかった。

 私を止めることもしなかった。


 陛下はしばらく黙ってから、肩の力を抜いた。


「そう。そうね」


 膝の上の指がほどけた。


「では、思い出せる香りをお願いします」

「かしこまりました。再現する元の香りがわからないので、調査と試作に代金がかかります。完成しなくても、その分は頂戴します」


 女官長が今度ははっきり眉を寄せた。


「王太后陛下のお役に立てるというだけでも、香房にとっては――」

「支払条件は必要です」


 エリアス様が遮った。

 声は穏やかだった。


「昨年も、同じ説明で職人に着手を求めた記録があります」


 女官長の口が閉じた。

 陛下が、小さく笑った。


「まあ。私のところまで監察されるのね」

「会の支出ですので」

「結構です。店主さん、おいくら?」


 私は持参した見積用紙を広げた。

 王太后に仕事の値段を説明している間、エリアス様は少し離れたところに立っていた。

 何を考えているのか、最後までわからなかった。

 ただ、私の見積書を裏返さず、女官長にも読める向きで置き直したことは、よく見えた。


     ◇


 最初に躓いたのは、母の帳面だった。

 店に戻って年ごとの記録をひっくり返すと、十四年前の日付に、それらしい依頼が見つかった。

 依頼人は『南の窓の方』。

 品名は『帰り道』。

 処方の欄には、母の字でこう書いてあった。


 いつもの白薔薇は使わないこと。


「正反対じゃない」


 私は机に額をつけた。

 その下には、香料の量ではなく、短い言葉が続いていた。


 橙の皮。乾いた木。火から下ろすのが遅れたもの。

 午後、窓は開いていた。

 二人分。


 母は時々、完成前の印象をこんなふうに書いた。実際の配合は別紙に書いて挟んでいたはずだが、その紙がなかった。

 私は帳面を逆さにして振った。

 何も落ちなかった。


「振っても出ないものは、出ませんね」


 翌朝、店を訪れたエリアス様は、同じことをしている私を見てそう言った。


「もう一度振ったら出る可能性に賭けていました」

「出ましたか」

「ご覧の通りです」


 彼は扉の札を見た。

 本日は午前のみ休業。

 急な王宮の仕事でも、店を丸ごと閉めるわけにはいかない。午後には二件、受け取りの約束がある。


「王宮でお話を聞ける方を手配しました。昼までにお送りします」

「助かります。母の帳面には、白薔薇を使わないと書いてありました」


 その言葉にも、彼の表情はほとんど変わらなかった。


「陛下に確認しますか」

「まず、他の方に。記憶は言葉に引っ張られるので、あまり早く答えをお渡ししたくありません」

「わかりました」


 私は借りた手袋を箱に収め、道具鞄を持った。

 エリアス様が手を伸ばしたので、反射的に鞄を後ろへ引く。


「中に硝子が入っています」

「そうですか」


 彼はすぐ手を下ろした。

 取り上げない。

 それだけのことを、私はなぜか覚えておこうと思った。


 王宮で最初に話を聞いたのは、先王付きだった老侍従だった。


「陛下は白薔薇を好まれました」


 次の衣装係も同じことを言った。


「礼服には、白薔薇の香りを」


 さらにその次の女官も。


「先王陛下といえば、白薔薇でございます」


 誰からも、明らかな嘘の徴はしなかった。

 全員がそう信じているのだ。


 私は試香紙に白薔薇の香りを移した。甘く清楚で、わずかに青い。宮廷の式典で好まれそうな、上品な香りだった。

 けれど、手袋の奥に残っているものとは違う。

 革から伝わるのは、もっと低い甘さだ。

 花瓶の花ではない。

 熱を持った何か。


「手袋は、いつ使われたものですか」


 老侍従は首を傾げた。


「庭を歩かれる時などに」

「式典では?」

「いいえ。式典にはもっと薄い革のものを。これは古く、何度も修繕しておりますので」


 私は手袋を裏返した。

 親指の付け根だけ、糸の色が違っていた。

 左右で、縫い方も違う。

 誰かが慣れない手で繕ったような、小さな歪みがあった。


「こちらを修繕した方は」

「さあ、衣装係ではないと思います。あちらに出されれば、さすがにもう少し」


 言いかけて、老侍従は口をつぐんだ。

 焦げた砂糖ではなく、ぴりりと胡椒のような気まずさがした。

 なるほど。

 私はそれ以上尋ねなかった。


 昼前に店へ戻る途中、馬車でエリアス様に言った。


「皆さん、王様の話をするんです」

「王ですから」

「そうなんですが。陛下がお求めなのは、たぶん、王様ではない方の話です」


 エリアス様は箱の上に視線を落とした。


「では、どなたに聞きますか」

「役職が変わっても、同じ人間として叱っていたような方はいませんか」

「一人、心当たりがあります」


 翌朝、案内された先は、王宮の厨房だった。

 窓の下で、丸いパンが幾つも膨らんでいた。


     ◇


「先王陛下の手袋? ああ、そりゃ奥様が繕ったやつだよ」


 白い前掛けをした小柄なお婆さんは、粉のついた手で腰を叩いた。

 王宮で四十年以上働く菓子職人、ベルタさんだった。

 彼女だけが、王太后を奥様と呼んだ。


「左右で糸の色が違うでしょう」

「ええ」

「片方は糸が足りなくなったんだ。新しいのを持ってくると言ったら、これでいい、手を繋げば片方は見えないってね」


 私は手袋を見下ろした。

 陛下の笑顔が、少し違う顔になって思い出された。


「十四年ほど前、この手袋に香りをつけていた頃のことをご存じですか」

「十四年前。南の温室を直した年かね」


 ベルタさんは顎に手を当てた。

 指の節が太い。爪は短く、右の手首に古い火傷の痕があった。


「あの年は雨続きで、庭仕事の連中も困ってた。手仕事会の最初の年だ」

「最初?」

「大きな催しじゃなかったよ。仕事をなくした職人の品を、南の温室に並べて売ったんだ。奥様が思いついて、旦那様が机を運んで」

「先王陛下が?」

「机一つで偉そうにしてたねえ」


 ベルタさんは容赦なく言った。

 エリアス様の方を見たけれど、彼は平然と聞いていた。


「で、奥様まで、自分も何か売るって言い出してさ」

「何を?」

「橙の焼き菓子」


 私は、母の帳面を開いた。

 橙の皮。


「上手だったのですか」

「最初は」


 ベルタさんはきっぱり言った。


「焦がした」


 火から下ろすのが遅れたもの。

 私は帳面を握る手に力を込めた。


「どんな匂いでした?」

「どんなって、焦げた匂いだよ」

「生地ですか。砂糖ですか。皮は生のまま? それとも砂糖煮に?」


 ベルタさんの眉が上がった。

 私は一歩近づく。


「型に脂を塗りました? 薪は何を使っていましたか。窓は開けて?」

「待ちな。あんた、急にしゃべるね」

「香りの話なので」

「そうかい」


 ベルタさんが笑った。


「砂糖煮の皮を刻んで、生地に入れた。型にはバター。薪は普通の広葉樹だよ。窓は開けたさ、煙を逃がすのに」


 午後、窓は開いていた。

 帳面の言葉が、少しずつ物になっていった。


「旦那様は焦げた端がうまいって食べてた。奥様が取り上げようとして、二人で一つの菓子を引っ張ってさ。半分ずつ持ったまま、笑ってたねえ」


 二人分。

 私は顔を上げた。

 見つかった。

 少なくとも、母が香りにしようとした場面は。


 けれど、まだわからないことがあった。


「陛下は、白薔薇の香りだとおっしゃいました」

「白薔薇?」


 ベルタさんの笑顔が止まった。

 その瞬間、濡れた鉄が香った。

 私は思わず、徴を追った。

 悲しみの下に、焦げた砂糖がある。

 隠している。

 何を。


「あの、何か、ご存じではありませんか」

「知らないよ」


 焦げた砂糖が濃くなった。

 私はもう一度息を吸った。

 奥に、酸い匂いがあった。恐れか。後悔か。もっとはっきりさせようと、意識を細くして、その人だけを拾う。


「ベルタさん」


 エリアス様の声がした。


「手仕事会が終わった後、何かあったのですか」


 ベルタさんはしばらく黙っていた。

 私は、まだ匂いを追っていた。

 あと少しで区別できると思った。


「奥様は、ここへ来なくなった」


 ベルタさんが言った。


「その後、女官長様から言われたんだ。王妃陛下が厨房で菓子を焦がしたなんて、外で話すことじゃないって」


 鼻の奥で、火花が散った。

 私は反射的に口元を押さえた。

 ベルタさんの声だけが続いた。


「悪いことを言われたわけじゃない。あたしも、奥様が笑いものにされたら嫌だった。それだけだよ」


 ああ。

 これは、罪悪感ではなかった。

 大切な人を守りたい時にも、同じ匂いになるのか。


 そう思った瞬間、橙が消えた。

 焼き上がったばかりの菓子も。

 粉も、バターも、厨房の煙も。

 全部、消えた。


「リディさん」


 エリアス様が、私の方へ体を向けた。


「どうしましたか」

「少し、鼻を」


 私は鞄から、確かめるための小瓶を出した。

 薄めた薄荷。

 いつもなら、栓を抜くだけで涼しい筋が通る。

 何もなかった。

 私は小瓶を閉じた。


 鼻を焼いた。

 能力を使いすぎればこうなる。母には何度も叱られた。徴を拾うことと、それを追いかけ続けることは違う。後者をやりすぎれば、数日は普通の匂いまで失う。

 知っていた。

 だから仕事中は、必ず区切って休むようにしていた。

 なのに王宮へ来てから、私は一人ひとりの言葉を、いちいち匂いで確かめていた。

 誰も信じず、間違えないようにと。


「匂いが、しなくなりました」


 口にすると、恐ろしさが形になった。

 手仕事会まで、あと三日だった。


     ◇


 帰りの馬車で、私はずっと膝の上の手を見ていた。

 今朝切り分けた石鹸。今日仕上げるつもりだった練り香。明日の受け取りを約束した香水。

 納品を延ばすものと、既に完成しているから渡せるものを分ける。

 返金が必要な分を数える。

 王宮の前金は、もう材料を買うのに使った。

 全部返すとなると、家賃が足りない。


「店へ戻りますか」


 エリアス様が尋ねた。


「はい。臨時休業の札を出します」

「医師を呼びますか」

「これは、休めば戻ります。前にもやりました」

「何日かかりましたか」

「前は三日。長い時は五日です」


 彼はそれ以上、質問しなかった。

 大丈夫とも、間に合うとも言わなかった。

 ありがたかった。

 何もわからない今、大丈夫だという言葉まで自分で疑いたくなかった。


 店へ着いて、私は硝子戸に札を掛けた。

 調香の新規受付を、しばらくお休みいたします。

 書いた紙が、やけに白く見えた。

 エリアス様は入口に立ったまま、私が振り向くのを待っていた。


「今回の仕事は、お断りするべきだと思います」


 私は言った。


「理由は、私の不手際です。調査分の代金は頂戴しますが、調香の前金については」

「陛下に報告します」

「はい」

「続けられるかどうかは、その後に話し合いましょう」


 きっと失望された。

 そう思った。

 けれど、匂いのない彼を見ていても、答えは出なかった。


「怒っていらっしゃいますか」


 エリアス様は、少しだけ眉を動かした。


「何についてですか」

「無理をして、仕事を駄目にしたことです」

「なぜ無理をしたのかは、気になっています」


 私は作業台の角を指でなぞった。


「失敗したくなかったので」

「はい」

「母の名前で呼ばれた仕事でしたから。何もかも、ちゃんと確かめないといけないと」


 言いながら、目の奥が熱くなった。

 泣いている暇はない。

 お客様への連絡を書かなくてはいけない。ベルタさんにも謝らなければ。あの人が隠したかったのは王太后の失敗で、誰かを害する企みではなかった。

 それを私は、嘘を嗅ぎつけた途端、追い詰めた。


「ベルタの話は、聞けました」


 エリアス様が言った。


「ですが、あなたが傷つく必要はありませんでした」

「傷というほどでは」

「三日、仕事ができません」


 言い返せなかった。

 その通りだった。


「私の仕事の都合で、あなたの明日からの仕事まで失わせたくはありません」


 彼はそう言って、作業台の空いている場所を見た。


「座ってもいいですか」


 私は頷いた。

 エリアス様はお客様用の丸椅子に座った。長い脚の置き場がなく、少し窮屈そうだった。


「連絡を書くのでしょう。宛名を分ける程度なら、手伝えます」

「監察官のお仕事ではありませんよね」

「今は昼休みです」

「もう、とっくに過ぎています」

「まだ取っていませんでした」


 私は彼の顔を見た。

 嘘かどうか、わからない。

 だから、尋ねるしかなかった。


「本当に?」

「はい」


 それでも真偽はわからなかったが、彼は上着を脱ぎ、袖口を整えて、私が差し出した紙を受け取った。

 少なくとも、手伝うという言葉は本当になった。


 私は厨房からお茶を運んだ。

 味はわかった。温度も、渋さも。

 けれど香りがなくて、お湯がひどく寂しかった。


「お茶、薄くありませんか」

「ちょうどいいです」

「香りは?」

「草に似ています」


 私は顔を上げた。

 エリアス様は真面目だった。


「草」

「すみません。上手く言えません」

「いいえ。間違ってはいません。春摘みなので」


 笑ってしまった。

 鼻を焼いてから、初めてだった。

 彼は私の顔を見て、カップを持ち直した。


「少し、豆にも似ています」

「ええ。それもあります」


 私は湯気の上がるカップを両手で包んだ。

 誰かにお茶の匂いを教えてもらうなんて、生まれて初めてだった。


     ◇


 翌朝、王太后から届いた返事は短かった。


 続けてください。あなたの鼻が戻るかどうかではなく、あなたの話を聞きたいのです。


 私は手紙を二度読んだ。

 店には既にマノンが来ていた。

 新規受付の休止を見て、パンを持ってきてくれたのだ。


「返事、書かないの?」

「書くわ」

「手が止まってる」

「ありがたい話と、できる仕事は、別なのよ」


 マノンは作業台に並ぶ瓶を見た。

 母が作った香料の一部と、私がこの二年で作ったもの。

 熟成の済んだ素地もある。材料は揃っていた。

 配合が決まれば、作ること自体はできる。

 ただし、確かめられない。


「私じゃ駄目?」

「何が?」

「嗅ぐの」


 私はマノンを見た。

 彼女はいつものように、両足でしっかり立っていた。


「私、おいしいパンと焦げたパンならわかるよ」

「香水は食べられないのよ」

「知ってるよ」


 私は返事をしかけて、止まった。

 今、私は何をしようとしただろう。

 自分と同じように嗅げないから、この子にはわからないと決めた。

 買ってくれるのは、自分と同じ鼻を持たない人たちなのに。


「あなた一人に、商品の仕上がり全部を任せるわけにはいかない」

「うん」

「でも、橙の焼き菓子らしいかどうかは、私より詳しいかもしれない」


 マノンが笑った。

 私は便箋を手元に引き寄せた。

 陛下のご了承がいただけるなら、試作品を作る。

 ただし、品質を確認するために、もう一人、職人の手が必要だった。


 向かいの石鹸屋のポーラさんは、若い頃に香油を扱っていた。母が病気だった時にも、何度か仕上がりを確かめてもらったことがある。

 午後の店番をマノンに頼み、私はポーラさんを訪ねた。

 事情を聞くと、彼女は腕を組んだ。


「やっと来たね」

「え?」

「あんた、何でも母親と同じように一人でできなきゃと思ってるだろ」

「そんなことは」

「あのお母さんだって、しょっちゅううちでぼやいてたよ。娘が寝た後に」


 知らなかった。

 母は何でもわかっていた。

 少なくとも、私はそう思っていた。


「仕事としてお願いします。報酬をお支払いします」

「なら、半日分。それで、うちの新しい石鹸も、鼻が戻ったら確かめておくれ」

「そちらも、仕事として」

「ああ。お互い、店を潰さないようにしないとね」


 私は深く頷いた。


 その足で、エリアス様と王宮へ向かった。

 陛下は先日と同じ居間にいた。今度は膝の上に手袋がなかった。


「ベルタから聞きました」


 私が挨拶を終えると、陛下が言った。


「あなたが、あの日を見つけてくださったと」

「見つけたのは、母の帳面と、ベルタさんです。私はまだ、香りを作っていません」

「白薔薇ではなかったでしょう」

「はい」


 陛下は、困ったように微笑んだ。


「私、白薔薇だと思いたかったのでしょうね」


 匂いがしない。

 この方が嘘をついているか、本当のことを言っているか、今の私にはわからない。

 私は顔を見るしかなかった。


「思おうと?」

「あの人が、式典で使っていた香りです。皆が覚えている、立派な王の香り」


 陛下は窓の外へ視線を向けた。


「手仕事会が大きくなってから、私も皆様にふさわしい顔をしなければと思うようになりました。あの人がいなくなってからは、なおさら」


 刺繍枠にかけられた布の端を、細い指が撫でた。


「焦げた菓子の匂いで笑っていた夫婦の話など、誰も求めていないと思ったのです」


 私は鞄から母の帳面を出した。


「母は、ここに『二人分』と書いています」


 陛下の指が止まった。


「香りを、二本ご注文になったのですか」

「いいえ」


 陛下はゆっくり首を振った。


「一本だけ。二人で使おうと、あの人が」


 私は帳面を閉じた。


「でしたら、皆様のための香りではなく、陛下がお使いになりたいものを作ってもいいでしょうか」

「私が」

「泣いていたことを隠す香りを、と承りました。でも、何も感じなくなるものではありません。笑えるかどうかも、お約束できません」

「ええ」

「それでも、あの午後の香りでよろしいですか」


 陛下は私を見た。

 口元が震えた。


「ええ。あれがいいわ」


 匂いがなくても、わかった。

 いいえ。

 わかったと思って、先回りする必要もなかった。

 今、この方が、そうおっしゃったのだ。

 それを、注文として受け取ればよかった。


     ◇


 香りを作る時、私は目を閉じることが多い。

 この日は、目を開けていた。


 作業台に三枚の紙を並べ、それぞれに使う材料と量を書く。

 母の『帰り道』をそのまま再現することは、もう目指さなかった。失われた配合は、失われたままだ。

 作るのは、陛下の覚えている午後に届く、新しい香り。


 最初の試作は、橙が強すぎた。


「お菓子というより、皮を剥いた手」


 マノンが言った。

 私は頷き、果皮の素地を減らした。


 次は、甘さが重かった。


「箱に詰めて、一晩置いた感じだね」


 ポーラさんが試香紙を扇いだ。


「あと、樹脂が後に残りすぎる。服につけたら、明日まで居座るよ」


 私は配合を書き直した。

 薄めた安息香を控え、乾いた杉の素地を増やす。橙の花はごく少量。花を咲かせたいのではなく、窓から入った外の空気を作りたかった。

 焦げた部分は、そのまま煙の香りを入れると強すぎる。

 母が使っていた、焙った穀物を思わせる香料を、既に馴染ませてある甘い素地へ少しずつ足す。


 数字だけを頼りに混ぜるのは怖かった。

 普段なら、一滴落とすごとに自分で確かめる。

 今は、二人が紙を鼻へ近づけるのを待った。

 待つ時間が、こんなに長いとは知らなかった。


「今の、いい」


 マノンが言った。


「でも、まだ、きれいすぎる」

「きれいすぎる?」

「お城で出るお菓子みたい。実際に食べたことないけど」


 私は思わず笑った。

 窓の外を見る。

 夕方の光が、道向かいの古い木戸に当たっていた。

 乾いた木。

 母の帳面には、杉とは書かれていない。

 手袋の革から拾った木の匂いは、箱から移ったものかもしれなかった。


「椅子かもしれない」

「何が?」

「温室に運んだ机。二人で座った椅子。新しい家具じゃなくて、家の中から持ち出した、磨き込まれた木」


 杉をほんの少し減らした。

 代わりに、柔らかな木の素地を加える。つややかにしすぎないよう、量を抑える。


 夕方、エリアス様が来た時、作業台には十枚以上の試香紙が立っていた。


「進んでいますか」

「進んでいます。でも、私の知っている進み方ではありません」


 彼は紙を眺めた。


「私にも、できますか」


 私は一枚を渡した。


「嗅いだことを、そのまま教えてください」


 エリアス様は慎重に紙を持った。

 しばらくして、首を傾げる。


「朝食を抜いたことを思い出しました」


 マノンが噴き出した。

 ポーラさんも肩を揺らした。

 私は試香紙の番号に、小さな丸をつけた。


「とても参考になります」

「役に立ったのでしょうか」

「ええ。食べ物を思い出す。でも、食べ物そのものではない。その辺りが欲しかったので」


 彼はもう一度、紙に鼻を近づけた。


「温かいです」


 私は、書きかけていた手を止めた。

 エリアス様は試香紙を光に透かすように見た。


「冷めているはずなのに」


 私はその言葉を、配合の下に書いた。


 その夜のうちに候補を二つに絞った。

 翌朝、布につけた時の残り方をポーラさんに確認してもらい、小瓶に分けて王宮へ持参した。

 私の鼻は、まだ戻らなかった。


     ◇


 手仕事会の前日、女官長が私の納品書を見て言った。


「商品名と工房名は、こちらで変更させていただきます」


 私は顔を上げた。

 場所は王太后の居間ではなく、その手前の控えの間だった。

 小瓶が二本、白い布の上に並んでいる。


「変更とは」

「今回の香りは、宮廷の白薔薇として扱います。セルフィーユ家は、今は宮廷への正式な出入りを認められておりませんので」

「香房の営業許可はあります」

「市中の営業と、王宮の御用は別です」


 女官長は、疲れたように眉間を押さえた。


「あなたに悪意があるわけではありません。陛下が個人的に昔を懐かしまれるのは結構です。ただ、それを催しの表へ出すとなると、余計な話が広がります」

「没落した家の娘が、王太后陛下の香りを作った、と」

「そういう言い方は」

「事実ですから、私は構いません」


 私は納品書を手元へ戻した。


「陛下のお名前を看板に掲げるつもりもありません。ただ、他の工房が作った品として出されるのなら、承知できません」

「まだ工房の名まで決めたわけでは」

「でしたら、今ここで決めてください」


 私の声は、自分で思っていたより落ち着いていた。

 匂いがないから、相手がどれほど怒っているのかもわからない。

 それでも、引けないものはわかった。


「王太后陛下のために、少しの配慮もできないのですか」

「できます。陛下の思い出は、私から誰にもお話ししません。ご依頼があったことを宣伝もしません。でも、作った者の名前を、別の名前で覆わないでください」


 女官長は黙った。

 私は続けた。


「母が始めた香房です。私だけの見栄ではありません。この先、ここで働く人を雇うかもしれない。その人に、よい仕事をすれば名前を消してもらえる店だとは、言いたくありません」

「私から説明します」


 エリアス様が、壁際から進み出た。

 彼は女官長の前に、もう一枚の書面を置いた。


「今回の依頼は、調査と試作を含む私的な注文として承認されています。正式な御用達の任命とは別です。代金を支払った上で作り手を伏せるかどうかは、依頼主と店主が決めることです」

「ノルデン次席。これは宮廷の慣例で」

「異なる制作者名で記録すれば、私が訂正を求めることになります」


 淡々とした声だった。

 女官長の視線が、扉へ動く。

 扉が開いていた。

 王太后が立っていた。


「私の香りは、届いたかしら」


 誰もすぐには答えなかった。

 陛下は私を見た。


「店主さん」

「はい。二種類、お持ちしました」

「では、私に選ばせてくださいな」


 女官長が身を引いた。

 私は小瓶と試香紙を持ち、陛下の居間へ入った。


 最初の香りを紙へ移す。

 明るい橙。甘さは軽く、花が少しだけ多い方。

 陛下は目を閉じて嗅いだ。


「よい香りですね」

「恐れ入ります」


 次の紙を渡す。

 乾いた木と、わずかな焦げた甘さが残る方。

 陛下の指が止まった。

 紙を遠ざけ、もう一度近づける。


 私は待った。

 いつものように、気に入った徴を探すことはできない。

 沈黙を、失敗だと決めることもできなかった。


「もう少し、焦げていたわ」


 陛下が言った。

 私は瞬きをした。


「菓子が、ですか」

「ええ。ベルタは遠慮して話したのね。もっと、ずっと」


 陛下は紙を見つめたまま笑った。


「端を切り落としたら、真ん中しか残らなかったの。それでもあの人、焦げた方を取ったのよ」


 笑い声が、一度途切れた。

 涙が、頬を伝った。

 女官長が動きかけた。

 陛下は首を振った。


「待って。今、思い出しているの」


 私は両手を膝の上で重ねた。

 誰も話さなかった。


 やがて陛下は自分でハンカチを取り、目元を押さえた。


「この香りにしてください」

「もう少し、焦げた甘さを足しましょうか」

「いいえ。これでいいわ」


 陛下は、試香紙を胸元へ寄せた。


「あの菓子より、上手にできていますもの」


 私はようやく息を吐いた。


「品名は、『帰り道』といたしました。母の帳面にあった名前です。ただ、母の品と同じものではありません。私と、手伝ってくれた職人たちが作った、新しい香りです」

「ええ」

「私自身は、まだ仕上がりを嗅げておりません」

「それでも、私の欲しかったものを聞いてくださったでしょう」


 陛下が、私の方へ顔を向けた。


「明日、これをつけて行きます」


 私は深く頭を下げた。

 その時ようやく、受けた仕事を届けられたのだと思った。


     ◇


 冬の手仕事会に、私の名前が大きく掲げられはしなかった。

 王太后専属の調香師に任じられることも、セルフィーユ家の名誉が華々しく復活することもなかった。

 香房の品を置く場所は、南の温室の入口に近い、小さな卓一つ。

 出店名簿の末尾に、当日追加の文字で、セルフィーユ香房。

 それだけだった。


 ただし、使用料は免除された。

 私はその条件を、きちんと書面で受け取った。


「入口って、寒くない?」


 マノンが卓の布を整えながら言った。


「全員が通るわ」

「そういう考え方なんだ」

「そういう商売なの」


 並べたのは、いつもの練り香と、小分けの香り袋。それから『帰り道』の見本だった。

『帰り道』の販売分は、私の鼻が戻ってから改めて仕上げる。今日は予約だけ。

 母と王太后の思い出は、どこにも書かなかった。

 商品札には、簡潔に記した。


 橙、柔らかな木、焦げた砂糖を思わせる甘さ。

 午後の休息に。


 ポーラさんの石鹸も、卓の端に置いた。彼女は今回の報酬の一部を、出品場所で受け取ることを選んだ。

 王宮へ来る前に、うちの家賃二か月分ほどを売るつもりだと宣言していたので、私は邪魔をしないことにした。


 温室には冬の花が並び、頭上の硝子から淡い日差しが降っていた。

 陶器。木工品。織物。刺繍。靴。

 人の手が作ったものの間を、普段は買い物籠など持たないご婦人たちが歩いていく。


 やがて、奥の扉が開いた。

 王太后が姿を現した。

 薄紫のドレス。真珠の耳飾り。胸元には、小さな白い花。

 私は、香りを確かめるように息を吸いかけた。

 途中でやめた。

 見ればいい。


 陛下は来賓たちに挨拶をし、それから温室の端に置かれた焼き菓子の卓へ向かった。

 ベルタさんが、銀の皿を差し出す。

 王太后は、その中から一つ取った。


「今日は、焦がさずにできているのね」


 近くにいた人たちが、顔を見合わせた。

 ベルタさんは平然と答えた。


「私が焼きましたので」


 王太后が笑った。

 私も笑った。

 その笑い声に気づいて、陛下がこちらを見た。

 ほんの小さく頷いた。

 それから来賓たちに向き直った。


「この会を始めた時、私も売り物を作ろうとして、菓子を焦がしました」


 温室が静かになった。


「職人の仕事は、見ているよりずっと難しいのだと、その日に知りました。以来、私は作る方ではなく、買う方でお役に立とうと決めております」


 幾つか、控えめな笑い声が上がった。

 女官長は少し離れたところに立っていた。

 止めなかった。


「どうぞ皆様、値札を見て、作り手の話を聞いてください。手をかけたものには、それだけの理由がございますから」


 陛下は焼き菓子を一口食べた。

 それから、目元を指で押さえた。

 笑っていたのか、少し泣いていたのか。

 遠くから見ていた私には、はっきりとはわからなかった。

 でも、誰も困った顔をしなかった。

 ベルタさんが、何も言わずにもう一つ菓子を皿へ載せた。

 それで、十分だった。


「リディさん」


 隣にエリアス様が立っていた。

 私は少し驚いた。彼が近づいても、普段から匂いで気づくことはできない。そのことに、今日は初めて安心した。

 今の私だけが、取り残されているわけではない。


「ご依頼の残金です。受領を確認してください」


 彼は薄い封筒を差し出した。

 私は中身を数えた。

 調査費。材料費。調香代。出張費。

 不足はなかった。


「確かに頂戴しました」

「それから、予約が一件入るそうです。会計官の奥方が、後ほど来られます」

「どんな香りを?」

「夫に、買い物の総額を尋ねられても落ち着いていられるものを、と」


 私は彼を見た。


「監察官として、その注文を取り次いでよろしいのですか」

「家庭の会計は、管轄外です」


 今度は、わかった。

 口元が少しだけ上がっていた。

 この人は、冗談を言う。

 私はそれを初めて、匂い以外の方法で覚えた。


     ◇


 鼻が戻ったのは、手仕事会の二日後だった。

 朝、湯を沸かしている時に、濡れた薪の匂いがした。

 私はその場にしゃがみ込んだ。

 嬉しくて、少しだけ泣いた。

 誰も見ていなかったので、隠す香りは使わなかった。


 回復してから最初に嗅いだ『帰り道』は、私が想像していたものと、少し違った。

 橙は思っていたより控えめで、木の温かさが長く残った。甘さの奥にわずかなほろ苦さがあり、鼻を近づけると、思わずもう一度嗅ぎたくなる。

 母なら違う配合にしたかもしれない。

 私はこれが、好きだった。


 瓶の首に札を結び、正式な商品台帳に書き込んだ。

 セルフィーユ香房製。

 協力、ポーラ香油石鹸店。

 味覚相談、パン屋のマノン。


 マノンは最後の行を見て、お腹を抱えて笑った。


「味覚相談って何!」

「あなたが食べ物を基準にしたから」

「報酬は?」

「約束通り、練り香三か月分」

「母さんに分けてもいい?」

「もちろん」


 手仕事会の予約は、十二件入った。

 屋根を全部直すには、まだ足りない。

 けれど雨漏りする一角なら直せるし、家賃は来月分まで払えた。ポーラさんへの報酬も払い終えた。


 王宮からは、追加の注文が一本届いた。

 王太后の私物として。

 公開の御用達ではなく、依頼のたびに見積もりを出す形で。

 女官長からの手紙には、陛下の名を宣伝に使わないよう、丁寧な念押しがあった。その次の行に、ご本人の私用として香り袋を二つ欲しいと書かれていた。

 私は通常の値段でお受けした。


 その日の夕方、鐘が鳴った。

 顔を上げる前から、誰かわかった。

 匂いが増えなかったからだ。


「いらっしゃいませ、ノルデン様」

「戻ったのですね」

「ええ。おかげさまで」


 エリアス様は店に入り、入口の札を見た。

 調香のご注文、承ります。

 それを確かめてから、こちらへ来た。


「今日は、お仕事ですか」

「いいえ」


 彼は作業台に銀貨を三枚置いた。

 私は硬貨と彼の顔を交互に見た。


「練り香でしたら、そんなにいたしません」

「相談料です」

「内容によります」

「香りがしない相手にも、香りを選べますか」


 私は少し考えた。

 彼自身が無香であることと、彼が香りを感じないことは違う。お茶の草の匂いも、試作の温かさも、彼には届いていた。


「選べます。ただ、普段の暮らしや、お好みを伺います」

「お願いします」

「ご自分用ですか」

「はい」


 私はお客様用の椅子を勧めた。

 彼はもう、座る前に断りを入れなかった。


「まず、好きな香りはありますか」

「この店の香りです」

「……かなり混ざっていますよ」

「はい」

「花ですか。木ですか。それとも甘いもの?」


 エリアス様は棚を見た。

 窓辺の乾燥ラベンダー。作業台の橙。古い帳面。湯を沸かす小さな炉。


「どれなのか、まだわかりません」

「では、一つずつ試しましょう」


 私は試香紙を用意した。

 橙、杉、薔薇。

 順に差し出すと、彼は一枚ずつ丁寧に嗅いだ。

 どれも悪くないと言う。

 それだけでは、仕事が進まない。


「ノルデン様」

「はい」

「何でもよいとおっしゃるお客様が、一番難しいのです」

「何でもよいわけではありません」

「では、どんな時につけたいですか」


 彼は手元の紙を揃えた。

 端と端がぴたりと重なる。

 揃えた後も、しばらくその紙を見ていた。


「ここへ来られない日に」


 私は、次の瓶へ伸ばしかけた手を止めた。

 彼は顔を上げた。

 匂いは、なかった。


 照れているのか。単に店が気に入ったのか。仕事を離れた休息が欲しいのか。

 何も、わからなかった。

 いつもの私なら、相手の徴を拾って、いちばん傷つかない答えを探しただろう。

 けれど、この人には最初からできない。


「それは、うちの香りを気に入ってくださったということでしょうか」

「それもあります」


 それも。

 私は硝子瓶を置いた。

 音が少し大きくなった。


「他には?」


 エリアス様の指が、試香紙から離れた。


「あなたと、お茶を飲む時間が気に入っています」


 私は黙った。

 彼も黙った。

 店の奥で、湯が沸き始めた。


 私は彼を見た。灰色の目。きちんとした襟。机の上に置かれた両手。

 いつでも簡潔に話す人だった。

 でも今は、私が何か言うまで、席を立たずに待っていた。


「……お茶は、香水瓶には入れられません」

「知っています」

「草に似た香りなら、作れます」

「お願いします」

「でも、一緒に飲む時間は、別です」


 エリアス様は頷いた。


「それは、どうすれば頼めますか」


 私は銀貨を三枚、彼の方へ押し戻した。


「閉店まで、あと半刻あります」

「はい」

「待っていただけるなら。今日は春摘みではなく、少し甘いお茶にします」


 彼は銀貨を見て、それから私を見た。


「待ちます」


 それだけ言って、椅子に座り直した。

 私は帳簿を開いた。

 数字を一つ、書き間違えた。

 消して、書き直した。


 香りで何でも見抜けるなどと、時々、ひどい噂を立てられる。

 そんなことはない。

 悲しみと後悔を取り違える。大事な人を守る嘘を、悪意と疑う。自分一人の鼻で作らなければ、よい香りにならないと思い込む。

 そして目の前の人の気持ちは、今もまったく嗅ぎ取れない。


 それでも、彼が私の値段を下げなかったことを知っている。

 鞄を勝手に奪わず、返事を待ったことを。

 香りのないお茶の向こうで、草と豆の匂いを探してくれたことを。


 閉店の時刻になった。

 私は扉の札を裏返し、棚からカップを二つ取った。


「ノルデン様。香りの相談の続きですが」

「はい」

「次は、お休みの日に来てください。仕事帰りではなく」


 彼が顔を上げた。

 私はカップを置いた。


「その方が、好きなものをゆっくり伺えますので」

「わかりました」


 一呼吸置いて、彼が尋ねた。


「香りが決まった後も、来ていいですか」


 私はとうとう笑ってしまった。

 こんなにわかりにくい人なのに。

 そんなふうに、一つずつ聞いてくれる。


「ええ。お茶が冷めないうちに来てくだされば」


 エリアス様の口元が、今度ははっきりと緩んだ。

 その顔を、私はよく見ておいた。

 覚えたいことが、また一つ増えた。

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