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第93話|揃ってはいけない条件

 夜は、音を選ばなくなっていた。

 街道の音。

 人の声。

 馬の鼻息。

 荷車の軋み。

 灯りの揺れ。

 そして――抑えきれない、焦りの音。


 焦りは足で鳴らない。

 喉で鳴る。

 息の短さで鳴る。

 言葉の端で鳴る。


 補給兵は、最初にそれを拾った。


「……崩れ始めてる」


 誰に向けた言葉でもない。

 報告でもない。

 “状況が変わった”という事実だけを、空気に置く声だ。

 置いた瞬間に、場の重みが変わる。


 術士は、治療院の奥で包帯を畳んでいた。

 畳む音が、少しだけ乱れている。

 乱れるのは手じゃない。

 耳だ。

 外の音が、包帯の音に割り込んできている。


 怪我人が、増えた。

 倒れるほどじゃない。

 だが、働ける状態でもない。

 昨日までなら、ここで止まっていた。

 止まっていたから、“窓口”にならなかった。

 今日は違う。

 止まらない者がいる。

 止まれない者が、外で声を上げる。


 外で、怒鳴り声がした。


「おい!」

「運べ!」

「治せって言ってんだ!」


 怒鳴る声は、正義を呼ぶ。

 正義が来れば、紙が動く。

 紙が動けば、名が取られる。

 名が取られれば、刃が正しくなる。


 だが今夜は、紙より先に噂が走っていた。

 噂は紙より軽い。

 軽いから、速い。

 速いから、刺さる。


「……あいつら、選んでるらしいぞ」

「倒れた順じゃねぇ」

「通る奴と、通らねぇ奴がある」


 小さな声。

 だが、一番速く広がる声。

 届く距離を選ばない声。

 責任を持たないから、何にでも付着する声。


 術士の手が止まる。

 包帯の端が、指に引っかかったままになる。

 ――今夜は、“我慢できない側”が出る。


 それは敵じゃない。

 ギルドでもない。

 戻れなくなった人間たちだ。

 戻れると思っていた分だけ、戻れない現実に噛みつく。

 噛みつく先は、刃じゃない。

 灯りだ。

 治療だ。

 助けの形だ。


 扉の外で、何かが倒れる音。

 今度は、芝居じゃない。

 骨が、鳴った。

 折れた音は、言い訳を許さない。


「……っ」


 術士が、反射で立ち上がる。

 立ち上がるだけで、手順が動き出す。

 治療の手順は早い。

 早いから、罠に弱い。


 その瞬間、

 ヴォロの声が、背後から落ちた。


「見るな」


 命令じゃない。

 だが、止まる声。

 止めるのは身体じゃない。

 “役割”だ。


「今、見ると」

「お前が“選ぶ側”になる」


 選ぶ側。

 それは責任だ。

 責任は名だ。

 名は紙だ。

 紙は刃になる。


 術士は、歯を噛みしめて止まる。

 止まるのは冷静だからじゃない。

 役割を守るためだ。

 守るのは命じゃない。

 “窓口にならない形”だ。


 外で、誰かが叫ぶ。


「血が出てる!」

「死ぬぞ!」


 死ぬ。

 その言葉は、最も安い刃だ。

 だが、最も強い。

 正しさを買わずに振れるからだ。

 誰でも振れる刃は、誰も止められない。


 剣士が、外へ出る。

 刃は抜かない。

 抜かないことで、戦闘を成立させない。

 成立させないことで、術士を“窓口”にしない。


「……誰がやった」


 問いだ。

 だが答えを求めていない。

 答えを求めた瞬間、裁きが始まる。

 裁きが始まれば、正義が生まれる。

 正義が生まれれば、ギルドが勝つ。


 影から声が返る。


「……運が悪かったな」


 レンジャー。

 屋根の縁。

 矢は番えていない。

 番えていないのは躊躇じゃない。

 “矢を番える理由”を、こちらに作らせるためだ。


「仕事中だ」

「事故だ」


 事故。

 その単語で、空気が凍る。

 事故は、誰も責任を持たない顔をする。

 だが、事故と呼んだ瞬間に、

 “事故として処理しなければならない側”が生まれる。


 地面の影が、わずかに歪む。

 音が、消えた。

 消えたのは夜じゃない。

 “余計な音”だけが消えた。

 余計な音が消えると、距離が死ぬ。


 レンジャーの視線が、一拍遅れる。


「――っ」


 矢を番える前に、

 その首筋に、冷たい空気が触れた。

 斬られていない。

 だが、理解する。

 ――切られなかった。

 切られなかった、という事実が一番怖い。


 グレイが、背後に立っていた。

 触れていない。

 だが、距離がゼロだ。

 距離がゼロなのに血が出ていない。

 つまり、殺すかどうかを“選べる側”がそこにいる。


 ソードマスターが動きかける。

 だが、踏み込めない。

 踏み込めば、死ぬ。

 その確信だけが、全員に共有された。

 共有された確信は、命令より強い。

 命令は破れるが、確信は破れない。


 グレイは、動かない。

 動けば終わる。

 終わらせないために、動かない。

 殺せる位置に立って、殺さない。

 それが一番、値段を上げる。


 剣士が、止まる。

 ここで斬れば、戦闘が成立する。

 戦闘になれば、術士が窓口になる。

 窓口になれば、紙が来る。

 紙が来れば、北が刺す。


 ヴォロが、低く言う。


「……引け」


 命令じゃない。

 だが、値札の声だ。

 ここで続けると高くつく、という評価の声。


 レンジャーが笑う。

 笑いは軽い。

 軽い笑いは、逃げ道を探す笑いだ。


「傭兵の分際で」


「傭兵だからだ」


 ヴォロは一歩だけ前に出た。

 一歩だけ。

 中心にならない歩幅。

 だが、見える歩幅。


「今夜は、まだ戻せる」

「だが次に同じことをやれば――」


 一拍。

 一拍で、線が引かれる。


「戻さない」


 沈黙。

 レンジャーは理解する。

 ここで続ければ死ぬ。

 だが、ここで引けば終わらない。

 終わらない戦争は、一番高い。

 高い戦争は、上の帳簿を開かせる。

 開いた帳簿は、汚れ役の名を取る。


「……引く」


 短い。

 短い撤退は、言い訳を残さない。

 言い訳を残さない撤退は、次に繋がる。


 グレイの気配が消える。

 消えるが、

 “殺せた”という感触だけが残る。

 残るのは脅しじゃない。

 計算だ。

 次は、ここまで近づけない、という計算。


 剣士が、息を吐く。


「……強ぇな」


「強いんじゃない」


 補給兵が言う。


「まだ殺してないだけだ」


 遠ざかる足音。

 遠ざかる布の擦れ。

 遠ざかる息の短さ。

 撤いた音は、次の夜の前金みたいに残る。


 だが、最後に一つだけ聞こえた。


「……次は、本物だ」


 誰が言ったかは分からない。

 だが、誰も否定しなかった。

 否定できない言葉は、もう形になっている。


 術士は、理解する。

 今夜は、止められた。

 だが、止めただけだ。

 止めただけの夜は、次を呼ぶ。

 次は、もっと乱暴に条件を揃えに来る。


 条件が揃った。

 揃ってはいけない条件が、揃った。

 まだ足りないのは――


 ――死体だけだった。

 死体が出た瞬間、誰かが叫ぶ。

 叫んだ瞬間、正義が成立する。

 成立した正義は、紙になって回ってくる。

 そして紙は、刃より遅く、確実に首を取る。

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