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第8話|記録の値段


 ギルドの扉を閉めたあと、ヴォロはすぐに港へ戻らなかった。


 広場の端、石畳が土へ変わる境目で立ち止まる。

 靴底の感触が変わる場所だ。


 人の流れが一度、緩む。

 袋の中を指で確かめる。


 板。

 紙。

 白い一枚。

 仮登録証。


 軽い。


 塩袋とは比べものにならないほど軽い。

 軽いものほど、消えやすい。

 消えやすいものほど、狙われる。


 ヴォロは袋の内側、板の縁を押した。


 曲がらない。

 濡れない。

 擦れない。

 ようやく、息を吐く。



 港へ戻る道は、朝より騒がしかった。

 昼に近づくほど、人は声を荒らし、判断を急ぐ。

 殴り合いが起きやすい時間帯だ。


 だが今日は、止めに入る気はなかった。



 (今日は、前に立たない)



 それを決めるだけで、身体の力が抜ける。

 倉庫街に入ると、いつもの匂いが戻った。


 潮。

 油。

 縄。

 汗。


 身体が勝手に、この速度へ戻っていく。



 「……おい」



 声をかけてきたのは、倉庫番でも帳簿係でもなかった。

 外套の下に、ギルドの腕章を隠した男だ。



 「仮登録、したな」



 問いではない。

 確認ですらない。


 ヴォロは頷く。

 否定する理由がない。



 男は顎で詰所を示した。



 「来い。書く仕事だ」



 詰所の中は暗い。


 だが港の暗さとは違う。

 紙の匂いが強い。

 湿っていない。

 管理された紙の匂いだ。



 机の上に、報告書が積まれていた。

 三つ。


 同じ任務。

 同じ現場。


 だが、結論が違う。



 男が言う。



 「読め」



 一枚目。

 英雄譚。

 剣を振るい、敵を退け、民を守った。

 危険は大きく、成果は絶大。

 書き手の名は太字で記され、末尾には推薦文。



 二枚目。

 失敗報告。

 連携不足。

 判断遅延。

 やむを得ない撤退。

 責任者の名が赤で囲まれている。



 三枚目。

 短い。


 時刻。

 場所。

 人数。

 接触なし。

 被害なし。

 名はない。



 「どれが本当だ」



 男は問う。

 ヴォロは答えなかった。

 本当は一つではない。



 「現場は同じだ」



 男が続ける。



 「起きたことも同じだ。

 だが“出来事”として上に上がる内容は違う」



 一枚目を叩く。



 「これは、使われる」



 二枚目。



 「これは、切られる」



 三枚目。



 「これは……金にならない」



 ヴォロは三枚目を見る。

 短い。

 余白が多い。



 「だが、これは残る」



 男の声が低くなる。



 「評価されない。

 だが否定もされない」



 「……これを書いたのは」



 「お前と同じ仮登録だ。

 もう、いない」



 理由は言わない。

 言わなくても分かる。


 英雄を書けば、前に出される。

 失敗を書けば、責任を負わされる。

 事実だけを書けば、呼ばれなくなる。

 呼ばれなければ、死ににくい。



 「お前は、どれを書く」



 男が問う。



 ヴォロは、袋から茶色い紙を出した。

 港で使ってきた覚え書き。

 その上に、白い紙を一枚置く。



 書く。

 短く。

 余計な言葉は削る。



 〈時刻:短三〉

 〈場所:倉庫裏・西〉

 〈人数:三〉

〈接触:なし〉

 〈被害:なし〉

 〈理由:動線変更〉



 男の目が止まる。



 「理由を書くのか」



 「書かないと、あとで盛られる」



 男は小さく笑った。

 良い笑いではない。

 だが、悪くもない。



 「値段が安い」



 「安い方がいい」



 「分かってるな」



 男は紙を取り、三枚目の上に重ねた。



 「これは残る。

 だが、お前の名は残らない」



 それでいい。

 ヴォロは頷く。



 詰所を出ると、港の音が戻る。

 荷車が進み、

 今日は揉め事もない。



 倉庫の影で、ヴォロは自分の指を見る。

 縄を結ぶ指。

 紙を書く指。

 同じだ。



 その帰り道、違和感があった。


 足音が一つ、増えている。

 増えているが、距離が一定だ。

 追っていない。

 逃がしてもいない。



 (観察だ)



 ヴォロは歩調を変えない。

 角を曲がる前に、わざと立ち止まる。

 袋の中身を直すふり。



 影が動く。

 刃は見えない。

 だが、手の位置が低い。



 (刺す気はない)

 (奪いだ)



 ヴォロは前に出ない。

 半歩、横。

 刃が来る。


 来る前に、足元へ小石を落とす。


 音。


 一瞬の視線。


 その間に、位置をずらす。

 刃は空を切る。

 男は踏み込みが浅い。



 (地面を見てない)



 ヴォロは押さない。

 殴らない。


 ただ、通路を塞ぐ。

 影は舌打ちし、離れた。


 追わない。

 追えば、別の線を踏む。



 港に戻ると、母はいなかった。

 仕事は遅い日だ。



 ヴォロは板の上に、今日の紙を置く。

 白。

 茶。

 同じ内容。

 置き場所が違うだけ。



 (記録は、命を守る)

 (だが書き方を誤れば、命を売る)



 その夜、警備の太鼓が鳴った。

 一定の拍。

 数えなくても、身体が覚えている。



 前に立たない。

 だが、逃げない。

 紙の端で、生きる位置。

 それが、今日決まった。

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