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第7話 仮登録(ギルドの影)


 港の朝は、濡れた縄の匂いがする。

 潮。油。木の削れ。人の汗。

 それらが混ざると、どの家の台所よりも「生きている」匂いになる。



 ヴォロは、倉庫の隙間に指を入れ、結び目を確かめた。

 麻縄の結びは三つ。ほどけない。だが、固すぎれば切れる。

 彼は自分の指の腹で、ほどける寸前と、切れる寸前の中間を探す。



 (結びは、命綱だ)



 口に出すと軽くなるので、胸の中にだけ置いた。



 背に負った袋は軽い。中身は紙が二束。

 一つは白い紙。角が揃っている。外へ出す用。

 もう一つは茶色い紙。角が丸く、繊維が立っている。内向きの覚え書き。



 港で生きる者は、だいたいこの二つを使い分ける。

 白は嘘をつくため、茶は生き残るため。



 今日、ヴォロが持っていくのは、白だ。



 ギルドへ行く。仮登録をする。



 理由は単純だった。

 港の仕事は、いつでも「誰かの都合」で折れる。

 折れたときに、折れたことを「書ける場所」が要る。



 書ける場所がなければ、人は紙にならない。

 紙にならない者は、消える。



 港の道を抜け、石畳の町へ入ると、人の歩幅が変わる。

 荷の重さが違う。靴の音が違う。顔つきが違う。



 港の者は、前を見ない。足元を見る。転べば終わるからだ。

 町の者は、前を見る。転んでも誰かが拾うと知っているからだ。



 ヴォロは、その違いを嫌いもしない。羨みもしない。

 ただ覚える。

 覚えたものだけが、次の場で役に立つ。



 ギルド支部は、広場の端にあった。

 石の建物。入口に木の掲示板。掲示は整いすぎている。

 紙の端が揃い、釘の位置も揃い、朱の印が均一だ。



 ここでは「乱れ」が嫌われる。

 乱れは責任になるからだ。



 扉を押すと、油とインクの匂いが来た。

 港の油と違う。乾いた油。道具の油。

 そして、紙。紙が湿っていない。



 紙が湿らない場所は、強い。



 受付の女が顔を上げる。

 年は二十を少し越えたくらい。目が速い。



 ヴォロの服、靴、袋、指先、喉の動き——そこまで一息で見た。



「用件は?」



 声は柔らかいが、緩くはない。



「仮登録」



 ヴォロは、白い紙束を一枚だけ抜き、机の端に置いた。

 乱さない。端を揃える。角を合わせる。

 港で覚えた「見せ方」だ。



 受付の女は紙を取らずに読んだ。

 視線だけで読む。



 (指で触れない。癖か。……いや、指紋を残さない習慣か)



 ヴォロは勝手に判断し、余計な言葉を飲み込んだ。



「年齢」



「十一」



「保護者」



 その一語で、喉が乾いた。

 港の朝の匂いが、一瞬だけ遠のいた。



「……いない」



 ヴォロはそれ以上言わない。

 言えば紙が汚れる。



 受付の女は、その答えを“制度語”として受け取った。

 頷きもしない。驚きもしない。

 ただ、淡々と次を出す。



「職の希望」



「……スカウト」

彼は言い切った。

 港でやってきたのは見張り、運び、隠し、消し。

 それを「職」として通すなら、名はそれが一番近い。



 受付の女が、細い棒で板を叩いた。

 コツ、と乾いた音。



 奥の戸が開き、男が出てくる。

 訓練係。腕が太い。目が冷たい。



「仮登録か」



「はい」



 受付の女が言う。



「年齢十一。保護者なし。港育ち。希望はスカウト」



 訓練係はヴォロを上から下まで一度見て、短く言った。



「ついて来い。紙は持て」



 ギルドの奥は、倉庫より静かだった。

 静かだが、音が死んでいない。

 木剣の擦れ。革靴の鳴り。息の揃い。



 ここでは「揃える」ことが価値になる。



 訓練場の端に、黒板があった。



 「F:訓練」

 「E:仮」

 「D:外」



 文字は簡単だ。だが線は硬い。

 線の硬さは、ここの規律の硬さだ。



 訓練係が言う。



「仮登録は“E”扱いだ。外には出ない。出すなら責任者が付く。分かったか」



「分かった」



「返事は短く」



「はい」



 訓練係は、机の上に小袋を置いた。

 中身は小石が十個。大きさが微妙に違う。



「目を閉じろ」



 ヴォロは目を閉じた。



「石を三つ取れ。重さで選べ」



 港で、似たことをしてきた。

 縄の束。塩袋。紙束。全部、重さで覚える。



 ヴォロは指先で石を転がし、重いものから順に三つ取った。

 机に置く。音を立てない。



 訓練係が鼻で笑うように息を出した。



「悪くない。次」



 今度は縄。

 短い縄が三本。端が少しずつ擦れている。



「結べ。三つ。ほどけない程度。切れない程度」



 ヴォロは、迷わず結んだ。

 結び目を締め、指で押さえ、少し緩め、また締める。

 港の朝、毎日やる動きだ。



 訓練係は、結び目を引っ張って確かめた。

 力を入れる。だが引きちぎらない。



 限界の手前で止める——それが試験だとヴォロは気づいた。



「……港のやつか」



 訓練係が呟く。



「港です」



「次。歩け」



 訓練場の端に、薄い白粉の線が引かれていた。

 線の向こうに、木の障害が並ぶ。



 訓練係が言う。



「線を踏むな。歩幅を変えるな。息を変えるな。手だけで回れ」



 ヴォロは線の外を歩いた。

 障害の間を抜け、板の下を潜り、縄を跨ぎ、桶の陰へ入る。



 その間、息を荒らさない。

 港で身についた癖だ。

 息が荒れれば、次の動きが遅れる。



 訓練係は、途中で小石を転がした。

 音が鳴る。

 それは「敵」の音だ。



 ヴォロは反射で止まった。

 止まるのではなく、沈む。



 膝を折り、影へ入れ、視線を下げる。



 (見える所に立つな。今は違う)



 胸の中の言葉が勝手に出た。



「……よし」



 訓練係の声が落ちる。



「戻れ」



 戻る途中、訓練係がわざと声を張った。



「名前」



 訓練場の空気が一瞬だけ揺れた。

 周囲の訓練生が、こちらを見る。



 名前は、ここでは“登録”の入口だ。



 ヴォロは一拍だけ遅れた。



 (名を出せば、紙に縛られる)



 だが今日の目的は、縛られることではない。

 縛られないまま、紙を持つことだ。



「ヴォロ」



 声は低く、小さい。

 それでも訓練場の端まで届いた気がした。



 訓練係は頷くでもなく、ただ言う。



「ヴォロ。お前は“見張り”が先に立ってる。だが、ギルドは見張りだけじゃない」



 彼は黒板を指で叩いた。



「外に出るなら、報告が要る。報告がなければ、仕事は無かったことになる」



 ヴォロは黙って聞いた。

 港では逆だ。

 仕事はあっても、無かったことにされる。



 だから人は殴られ、黙り、忘れられる。



「書けるか」



 訓練係が問う。



 ヴォロは袋から茶色い紙束を出した。

 この場に持ってくるつもりはなかった。

 だが、身体が勝手に出した。



 紙束の一枚を抜き、机に置く。

 罫線はない。



 ヴォロは鉛筆で短く書いた。



 〈試験:重さ選別(三)/結び(三)/線外移動(踏まず)/音反応(沈)〉



 訓練係はその字を見た。

 字がうまいかどうかは見ない。

 要点が落ちていないかを見る。



 時間が書いていない。

 場所が書いていない。

 だが、本人が何をしたかは分かる。



「……十分だ」



 訓練係が言った。



「ただし、これは“ロジスティ”の書き方だ」



 ヴォロの指先が一瞬止まる。



 ロジスティ。情報と物の後方職。

 港では、そういう者が一番早く消される。

 都合が悪いからだ。



 訓練係は続ける。



「スカウトで入れ。だが、書く癖は捨てるな。捨てると死ぬ」



 その言い方が、港に似ていた。



 ヴォロは少しだけ息を吐いた。



「仮登録の紙を出す」



 訓練係が受付へ顎をしゃくる。



「金は?」



 ヴォロは布袋を出した。

 封蝋はない。刻印もない。

 ただ、紐が結ばれているだけ。



 受付の女がそれを受け取り、机の上で数えない。

 重さだけで判断する。



 そして紙を一枚差し出した。



 薄い紙。角が揃っている。白い。

 だが、印は小さい。正式ではない。



「仮登録証。等級はE。期間は三十日。更新には“責任者の署名”が要る」



 受付の女は淡々と言う。



「あなたは未成年。外の依頼は受けられません。訓練と、支部の雑務だけ」



「分かった」



「あと」



 女は声を少しだけ落とした。



「港から来る子は、よく消えます。……紙を失くさないで」



 ヴォロは、その言葉に礼を言わなかった。

 礼を言えば、その人を紙に縛る。

 縛られた人から先に折れるのを、港で見た。



 代わりに、彼は紙を二つ折りにしない。

 折れば跡が残る。跡は弱点になる。



 袋の内側に、板を一枚入れておいた。

 そこへ仮登録証を挟む。

 曲がらない。濡れない。



 外へ出ると、広場の風が頬を叩いた。

 港の風より乾いている。



 ヴォロは歩きながら、自分の指を見た。

 紙を持つ指。縄を結ぶ指。



 この指は、港のままだ。

 だが今日から、紙は港の外でも生きる。



 (紙が生きれば、俺は消えにくい)



 胸の中でだけ言う。

 それ以上は要らない。



 港へ戻る道の途中、瓦の陰に太鼓屋があった。

 太鼓の皮が干されている。

 風に揺れる。



 ヴォロは足を止め、皮の張りを目で測った。

 薄い皮はよく鳴る。

 厚い皮は遠くへ届く。



 届く音は、合図になる。

 合図は、帰るためにある。



 彼は店の前で、拳を握っては開いた。

 今は買えない。金が足りない。



 帰るための音を、自分の手元に置く日。



 港の倉庫へ戻ると、同じ匂いがした。

 だが、今日は違う。



 ヴォロの袋の中に、白い紙が一枚増えている。



 彼は倉庫の陰で、その紙をもう一度確認した。

 印は小さい。

 だが、確かに押されている。



 最後に、腰紐の三つ結びを一度だけ締め直す。

 ほどけない。切れない。

 その中間。



 ヴォロは、潮の匂いの中で小さく呟いた。



「……帰るまでが、契約だ」



 誰も返事はしない。

 返事の代わりに、彼は紙をしまい、見える所へ立った。

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