第61話|存在しない密約(挿絵)
正式な依頼は、翌朝に来た。
使者は一人だった。
武器は持っていない。
だが、護衛を連れていないという事実が、逆に重い。
治療院の裏口に立ったその男は、名を名乗らなかった。
名を名乗らないという判断は、相手がこちらの流儀を理解している証拠だ。
「条件が揃った」
それだけ言って、封筒を差し出す。
封はされていない。
封をした瞬間、これは「文書」になる。
文書になったものは、誰かの責任になる。
ヴォロは受け取らなかった。
代わりに、封筒の底を指で叩く。
「口頭で」
使者は頷いた。
覚悟して来ている。
「北境外縁。旧境界線沿い」
「対象は、“存在しない密約”です」
その一言で、空気が変わった。
剣士の指が、わずかに動く。
術士は灯りをさらに落とした。
補給兵は地図を開かない。
開いた瞬間、場所が確定するからだ。
「内容は」
ヴォロが促す。
「先代領主期に結ばれた非公式合意」
「通過の黙認」
「対価としての境界保全」
「現在は、対価が土地要求へと変質」
淡々としている。
感情がないのは、説明ではなく確認だからだ。
「依頼主は、破棄を望んでいる」
「破棄、ね」
グレイが低く言った。
「破棄じゃないな」
「存在しなかったことにしたい」
使者は否定しなかった。
「公的手続き不可」
「交渉不可」
「暴露不可」
「事故不可」
並べられる条件が、どれも逃げ道を潰していく。
「成功条件は?」
ヴォロが聞く。
「北が、次の要求を出せなくなること」
「出そうとした瞬間、損になる配置になること」
剣士が息を吐いた。
「殺すなって言われてる顔だな」
「殺しは不可です」
即答だった。
「血が出た瞬間、密約は“事件”になります」
「事件になれば、誰かが調べる」
「調べる者が出れば、全て終わりです」
術士が静かに言った。
「つまり、均衡を壊さずに、均衡を終わらせる」
「そうです」
使者は初めて、わずかに表情を変えた。
理解されたことが分かったからだ。
「期限は?」
「北が次の要求を出す前」
「曖昧だな」
「ええ」
曖昧さは、圧力だ。
「失敗した場合は?」
ヴォロが続ける。
使者は、一拍だけ間を置いた。
「依頼自体が、存在しなかったことになります」
重い言い方だ。
「つまり?」
「責任は、すべてこちらに」
それは嘘ではない。
だが、全体でもない。
ヴォロは一歩も動かず、言った。
「金額」
ここで初めて、使者ははっきりと言った。
「通常の軍事・制圧案件の、十倍」
誰も驚かない。
「成功時一括」
「途中報酬なし」
「証拠提出なし」
条件としては、むしろ分かりやすい。
「撤退基準は?」
「そちらに委ねます」
それが一番危険な言葉だった。
「委ねる、ね」
補給兵が口を開いた。
「委ねられた撤退は、後から逃走にできる」
使者は否定しない。
「その通りです」
正直すぎる。
「……で」
ヴォロが言う。
「代表の署名は?」
使者は、初めて視線を逸らした。
「……窓口の明確化は、求められています」
「名は?」
「できれば」
「却下だ」
即答だった。
使者は、それ以上食い下がらない。
ここで食い下がると、仕事が消えると分かっている。
「今日は、受けない」
ヴォロが言った。
それだけで、使者の肩の力が抜けた。
拒否ではない。
精査だ。
「精査に、どれくらい」
「三日」
短い。
だが、短すぎない。
「それ以上は?」
「北が動く」
使者は頷いた。
「理解しています」
それだけ言って、封筒を置かずに去った。
扉が閉まる。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、剣士だった。
「……これ、戦争じゃないな」
「戦争より、嫌な仕事だ」
補給兵が言う。
「勝っても、誰も褒めない」
「負けたら、全員死ぬ」
術士が頷く。
「治療できる場所が、最初から想定されてない」
グレイは、腕を組んだまま言った。
「でも、北と正面からやるよりは、まだマシだ」
全員が、ヴォロを見る。
ヴォロは、まだ何も言わない。
懐から茶色い紙を出し、床に置く。
机ではない。
床だ。
紙の上に、四つの点を打つ。
北。
領主。
密約。
団。
「これ、誰の仕事だ」
ヴォロが言った。
「領主の後始末だ」
剣士が答える。
「北の失策の回収だ」
補給兵が続ける。
「政治の仕事」
術士が言う。
ヴォロは、最後に言った。
「生き残るための仕事だ」
沈黙。
「……受けるか」
グレイが聞く。
ヴォロは、すぐには答えなかった。
「受けるなら」
ゆっくり言う。
「条件を、こちらが一つ足す」
「何だ」
「失敗時の責任」
全員が顔を上げる。
「“存在しなかったことにする”って条項」
「それを、こちらも使えるようにする」
剣士が眉を寄せる。
「つまり?」
「途中で、これは無理だと判断したら」
「密約ごと、こちらが“存在しなかったことにする”」
「……それ、北も領主も敵に回すぞ」
「だから、値段が高い」
ヴォロは言った。
「この仕事は、金で買える最後の段階だ」
「ここを越えたら、もう誰も払えない」
補給兵が、ゆっくり頷いた。
「三日で、地形と流通を洗う」
術士が続く。
「密約の“実効性”を調べる」
「北が本当に動いてるか」
剣士が短く言う。
「グレイと俺で、境界側を見てくる」
全員の視線が、ヴォロに戻る。
ヴォロは、茶色い紙を折った。
折り目を、もう一つ増やす。
「……精査する」
それだけ言った。
受けたとは言わない。
断ったとも言わない。
だが、この仕事はもう――
団の中に入った。
外で、街道の音が鳴る。
荷馬車が、止まらずに通っていく音だ。
静かだ。
だが、その静けさは、
金で買われた静けさだった。
そして、三日後。
値段以上の地獄が、見えてくる。




