第58話|安くなかった理由
依頼主の部屋には、香が焚かれていなかった。
香を焚かない部屋は、失敗を前提にしない場所だ。
ヴォロは椅子に座らなかった。
座らないことで、立場を対等に保つ。
机の向こうには、依頼主本人がいる。
代理ではない。
それだけで、この仕事が「成功」と見なされたことが分かる。
「……まず礼を言おう」
依頼主は、前置きなく言った。
声は落ち着いているが、軽くはない。
軽くない声は、値段の話に入る前の声だ。
「街道は戻った。
夜の通行量は三割増。
村での揉め事は止まり、盗賊は“仕事”に戻った」
ヴォロは頷かない。
報告を受け取る姿勢を取らない。
これは成果確認ではない。
評価だ。
「事故は起きなかった。
告発もない。
上からの問い合わせも、まだ来ていない」
“まだ”という言葉が、すべてを語っていた。
依頼主は理解している。
この手の仕事は、時間が経つほど価値が分かる。
「……正直に言う」
依頼主は、そこで一度言葉を切った。
切るのは、覚悟が要るときだ。
「高い」
ヴォロは、ようやく顔を上げた。
「想定していた額の、ほぼ倍だ。
帳簿だけを見れば、無駄遣いに見える」
机の上に、革袋が置かれる。
音が重い。
中身の重さではない。
決断の重さだ。
「だが――」
依頼主は、袋から手を離さなかった。
「これで済んだのなら、安い」
その一言で、部屋の空気が変わった。
値段の話が、価値の話に変わった瞬間だった。
「事故が起きていたら、街道は閉じられていた。
閉じられれば、商会が死ぬ。
商会が死ねば、私の立場も終わる」
依頼主は淡々と続ける。
「盗賊を殺せば、血が残る。
血が残れば、誰かが調べる。
調べられれば、私が出る」
ヴォロは黙って聞いている。
ここで言葉を挟むと、功績になる。
功績は、次の仕事で刃になる。
「だが、お前たちは何も残さなかった。
残ったのは“流れ”だけだ」
流れ。
その言葉を、依頼主は正しく使っている。
「私は、責任を取らずに済んだ。
それが、どれほど高い価値か……
終わってから分かった」
依頼主は、革袋を机の中央へ押し出した。
「これは、報酬だ。
交渉通り。
値切らない」
ヴォロは袋に触れない。
触れた瞬間、受領になる。
「条件は」
短い問い。
だが、部屋の温度が一段下がる。
依頼主は、首を横に振った。
「条件は付けない。
付ければ、次は失敗する」
それは、依頼主なりの敬意だった。
「ただ一つだけ、確認したい」
ヴォロは視線を向ける。
「次も、同じ窓口でいいか」
窓口。
名ではない。
場所でもない。
扱い方の話だ。
「団としてか」
「そうだ」
依頼主は即答した。
「個人では、もう頼まない。
団で来い。
団の条件で話そう」
ここで初めて、
ヴォロは小さく息を吐いた。
「……その言葉だけでいい」
革袋は、まだ机の上にある。
だが、もう値段の話ではない。
「次に声をかけるときは」
依頼主が言う。
「もっと厄介な仕事になる。
それでも――
今日より安く済むとは思っていない」
ヴォロは頷かなかった。
だが、否定もしなかった。
「それでいい」
立ち上がる。
椅子は使わないまま。
扉に手をかけたところで、依頼主が言った。
「名前は、まだ聞かない」
ヴォロは振り返らない。
「聞かれる前に、決める」
廊下に出ると、空気が軽い。
軽いが、油断はできない。
価値が上がった団は、次に値札を貼られる。
治療院に戻ると、全員が視線を向けた。
「払ったか」
グレイが聞く。
「払った」
「値切ったか」
「値切らなかった」
剣士が、短く息を吐く。
「じゃあ……」
ヴォロは、革袋を机に置いた。
音は、やはり重い。
「高かった。
だが、安いと思わせた」
補給兵が静かに言う。
「……基準になったな」
「なった」
ヴォロは頷く。
「次からは、
俺たちの値段が基準になる」
術士が、ぽつりと言った。
「もう、戻れないね」
「最初から戻る気はなかった」
ヴォロはそう答え、茶色い紙を取り出した。
まだ書かない。
だが、折り目を一つ増やした。
次は――
団として条件を出す番だ。




