第5話 殴られる位置
朝の港は、昨日の続きを何事もなかったように始める。
潮の匂い。
縄の軋み。
木箱の底が板を擦る音。
ヴォロは、その中に混ざって歩いていた。
肩に縄束。重い。指が痺れる。
昨日の帳簿のことは、誰も口にしない。
だが「なかった」ことにはなっていない。
港では、問題は寝かされる。
すぐに片づけると、角が立つ。
角が立つと、夜に来る。
だから、朝は平穏だ。
倉庫の前で、帳簿係の男が立っていた。
指輪の光が、朝日を跳ね返す。
ヴォロと目が合う。
ほんの一瞬。
男は何も言わない。
ただ、口の端が、ほんのわずかに上がった。
(来る)
ヴォロはそう思った。
理由は分からない。
だが港で生きていれば、
「来る前の静けさ」は、匂いで分かる。
昼前、事件は起きた。
油布ではない。
釘でも縄でもない。
塩だ。
港で一番、数が狂うと面倒な荷。
国家が管理し、
軍が動き、
役所が口を出す。
その塩袋が、一つ足りない。
「……ねぇぞ」
声は低かった。
怒鳴らない。怒鳴ると、周りが見る。
塩袋を扱っていた作業員が、倉庫番を見る。
倉庫番が帳簿係を見る。
帳簿係が帳簿を見る。
そして、視線が動く。
ヴォロに来た。
「お前だな」
言い切りだった。
理由は単純だ。
昨日、帳簿の数字を指摘した。
つまり「目が利く」。
目が利くやつは、
「見た」と言われる。
見たなら、
「触った」と言われる。
触ったなら、
「持った」に変わる。
持ったなら、
最後は「盗んだ」だ。
港の論理だった。
ヴォロは首を振った。
「触ってない」
声は震えなかった。
だが小さい。
小さい声は、弱い。
帳簿係が一歩、近づいた。
革靴の底が、板を鳴らす。
「塩はな、数が狂うと——」
拳が飛んだ。
視界が白くなる。
音が遅れて来る。
頬に熱。
口の中に、鉄の味。
ヴォロは倒れなかった。
倒れなかったのは、
前の日に考えていたからだ。
――殴られるなら、正面じゃない。
――半歩、ずらせ。
――顎を引け。歯を噛め。
身体が、勝手に動いた。
殴られた衝撃は強い。
だが首は、持っていかれない。
周囲がざわつく。
人が集まる。
帳簿係は、一瞬だけ驚いた顔をした。
子どもが倒れない想定ではなかったのだろう。
「……白切れ」
誰かが言った。
港では、血が出なければ「軽い」。
軽ければ、問題にならない。
帳簿係は一息つき、言った。
「倉庫を改めろ。全部だ」
作業員たちが動き出す。
塩袋を一つずつ下ろし、数える。
ヴォロは壁際に立たされたまま、
その様子を見ていた。
見て、覚える。
袋の縫い目。
印の位置。
縄の結び方。
数が合わない。
だが「一つ足りない」のではない。
袋を持ち上げたときの沈み方。
床に置いたときの音。
重さが、違う。
ヴォロは気づいた。
塩袋は、入れ替えられている。
中身の少ない袋が、一つ混じっている。
だが口は開かない。
いま言えば、
「後出し」になる。
後出しは、殴られる理由を増やす。
作業員の一人が叫んだ。
「……あった!」
倉庫の隅。
空袋。
帳簿係が舌打ちする。
「破れたか」
誰も「盗み」とは言わない。
言えば問題が大きくなる。
空袋は片づけられ、
塩は「破損扱い」になる。
数字は、合ったことにされる。
帳簿係は、ヴォロを見た。
「……勉強になったな」
その言葉は、
謝罪ではない。
脅しとも、少し違う。
――お前は、殴られて覚えろ。
そう言われた気がした。
ヴォロは何も言わなかった。
殴られた頬が、じんじんする。
だが頭は冷えていた。
あの袋は、誰かが抜いた。
抜いたのは、ここにいる全員ではない。
だが、
処理の仕方は、決まっていた。
誰がやったかではない。
誰が、そうしたことにしたか。
夕方、母が帰ってきた。
ヴォロの顔を見て、
何も聞かずに水を用意した。
濡れ布を頬に当てる。
「……痛い?」
「痛い」
正直に言った。
母は少しだけ笑った。
「生きてる証拠だね」
ヴォロは黙ってうなずいた。
夜、布団の中で、
殴られた瞬間を思い返す。
拳の角度。
距離。
力の入り方。
(次は、もっとずらせる)
その考えに、
自分でもぞっとした。
だが港では、
そうやって生き残る。
殴られる位置を覚え、
倒れない場所に立つ。
それが「前に立つ」ということだ。
外で、警備の太鼓が鳴った。
一、二、三。
退却ではない。
確認の拍。
ヴォロは目を閉じ、
床板に爪を立てる。
細い線が、一本残る。
――殴られた。
――倒れなかった。
――数は守られた。
帳簿には残らない。
だが、自分の中には残る。
この港で、
殴られながら立つ位置を。




