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第42話|踏み込まれる夜

北の夜は、音が少ない。


少ないから、判断が遅れる。

焚き火の音は立てない。

雪は風を含まず、落ちる前から気配を消す。

人の足音も、ここでは意味を持たない。


治療院の灯りは、消えていなかった。

消しきらない、という判断だった。

術士は火皿を見下ろし、炭の位置を少しだけずらす。

明るくしない。

暗くもしない。

外から見れば、使われているかどうか分からない程度の灯り。

患者が来るかもしれない、という可能性だけを残す灯りだ。


補給兵は壁際に立ち、床を見ていた。

床板の継ぎ目。

踏み込んだときの音。

逃げるときに鳴らない線。

この建物は古い。

だが古さは、必ずしも弱さではない。

壊れかけた構造は、意図的に壊すことで道になる。


剣士は外に出ない。

入口から三歩下がった位置。

抜けば即戦闘になる距離を、あえて外している。

護衛していない、という形を作るためだ。


ヴォロは姿を見せていなかった。

奥の部屋で、椅子に腰掛け、音を聞いている。

聞いているのは足音ではない。

足音が「揃う前」の、空気の歪みだ。


来る。

そう判断したのは、音ではなかった。

雪が落ちる間隔が、ほんの一拍、均等になった。

誰かが、距離を測っている。


扉は叩かれなかった。

叩く必要がない、と判断されたからだ。


戸口に立ったのは二人。

どちらも剣を抜いていない。

だが抜ける位置に立っている。

制圧側の立ち方だった。


「ここは治療院か」


声は低く、荒れていない。

確認ではない。

書類に書くための問いだ。


術士は答えなかった。

答えれば、「運営者」になる。


「誰の許可だ」


補給兵が一歩、壁側にずれる。

逃走路ではない。

逃走路を“使わせない”位置だ。


「名は」


ここで名乗れば、記録が成立する。

成立した瞬間、責任が生まれる。

誰も答えない。

沈黙は拒否ではない。

だが同意でもない。

この盤面では、沈黙は“扱いに困る”状態を作る。


二人組は一瞬だけ視線を交わした。

短い。

だが結論は出た。


「ここで治した人間が、昨日、北で問題を起こした」


その言葉で、空気が一段階、冷えた。


「誰が責任を取る」


責任、という言葉が出た時点で、

この場は治療院ではなくなっている。


術士がようやく顔を上げる。


「……その人は、治療を受けただけです」


声は静かだ。

だが、論理を含んでいる。


制圧側の一人が、わずかに笑った。


「だから聞いている」


笑いは感情ではない。

段取りが見えたときの反応だ。


「治した結果、問題が起きた。

 それをどう扱う」


ここで答えれば、

この場所は「関係者」になる。


ヴォロは、ここで初めて姿を現した。

廊下の影から、一歩だけ前へ。

前に出すぎない。

だが声は届く位置。


「責任は、発生していない」


短い。

理由を言わない。


二人組の視線が、ヴォロに集まる。

名は聞かない。

聞く必要がないと判断された。


「判断役か」


問いではない。

分類だ。


「違う」


ヴォロは即答した。


「判断は、ここでは成立していない」


成立していない。

それは、帳簿に最も嫌われる言い方だった。


制圧側の男が、一歩、内側に踏み込む。

剣はまだ抜かない。

だが、抜いたときの線を作る位置だ。


「交渉はできない。

 撤退は逃走。

 沈黙は同意になる」


盤面を宣言する言葉だ。


「選べ」


ヴォロは、選ばなかった。

代わりに、術士へ一言だけ告げる。


「灯りを落とせ」


術士は頷かない。

だが火皿の炭を指で払う。

灯りが消える。


同時に、補給兵が床板を踏み抜いた。

音は出さない。

だが、空気の流れが変わる。

逃走路が、開いた。


剣士とグレイは動かない。

制圧側を止めもしない。

だが、通さない位置に立つ。

刃は出ない。

だが刃が出れば、必ず当たる距離。


制圧側は理解した。

この場では――

制圧も、戦闘も、成立しない。


「……ここは、いずれ潰す」


捨て台詞ではない。

予定の確認だ。


ヴォロは一言だけ返した。


「だから、ここに居る」


意味は説明しない。

説明すれば、次の書類が生まれる。


二人は引いた。

成果ゼロ。

記録も作れない。

それが一番、面倒な結果だった。


足音が消える。

夜が戻る。


誰も、すぐには動かなかった。


補給兵が、ようやく息を吐く。


「……守らなかったな」


ヴォロは答えない。

グレイが低く言う。


「守らないってのは……

 こういうことか」


肯定も否定もない。


術士が、消えた灯りを見つめる。


「でも、生き延びた」


その通りだった。

この夜、治療院は拠点にならなかった。

だから、潰されなかった。

守らない判断が、

初めて“場”を生かした。


ヴォロは、懐の紙に触れる。

まだ書かれていない紙。

だが、次に踏み込まれたとき、

この紙は軽くはない。


夜の向こうで、雪が鳴った。

遅れて届く音。

だが今夜は、その遅れが致命にならない。

全員が、それを理解していた。

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