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第41話|戻れる場所(挿絵)

雪は、夜になるほど重くなる。

 粉ではなく泥を含む白で、足首の骨にまとわりつく。

 乾いた寒さではない。

 湿った冷えは、体温だけではなく判断まで奪う。

 北の夜は、そういう奪い方をする。


 火を起こしたのは、剣士だった。

 起こしたと言っても、火を育てる気はない。

 煙が上がりすぎれば遠くから見える。

 火が弱すぎれば体温が落ちる。

 ちょうど、声が出なくなる直前の熱だけを残す。

 薪を割る手が、慣れている。

 慣れは、生き残った回数だ。


 術師は火の外側に座り、指先で包帯の端を押さえていた。

 怪我人はいない。

 包帯も要らない。

 けれど手を止めると、頭の中の音が大きくなる。

 音が大きくなると、今夜の戦闘が戻ってくる。

 戻ってくるものは、熱ではなく、喉の奥の苦さだ。


 補給兵は、火を見ていなかった。

 地面を見る。

 雪の下の固さ。

 踏める場所と沈む場所。

 足跡が残らない角度。

 荷を置けば濡れる位置と乾く位置。

 人が休む場所ではなく、人が逃げられる場所を探す目だ。


 ヴォロは火から半歩離れ、何も持たずに座っていた。

 手を空にするのは癖ではなく、戒めに近い。

 何かを握れば、その形で戦ってしまう。

 戦い方は、残る。

 残った戦い方は、次の配置で殺される。


 グレイは少し離れたところで立ち、風下を見ていた。

 火の匂いが届かない位置。

 寒さを避ける位置でもない。

 誰かが来たとき、最初に刃が届く位置だ。

 前に立つ癖は、こういう時にも出る。


 誰も、今夜の戦闘を振り返らない。

 振り返れば、言葉になる。

 言葉になれば、責任になる。

 責任は帳簿に乗る。

 帳簿に乗ったものは、守られるのではなく、管理される。

 管理は、刃を呼ぶ。

 刃が先に出る理由を、彼らはもう知っている。


 剣士が、火に小枝を一本だけ足した。

 火がほんの少しだけ明るくなる。

 その明るさで、人の顔が浮く。

 術師の目の下のくま。

 補給兵の指のひび割れ。

 グレイの頬の古い傷。

 ヴォロの口元の乾き。

 全員、生きている顔だ。

 生きているのに、戻る場所の顔ではない。


「……このまま動くと、死ぬな」


 剣士の声は低かった。

 断定ではない。

 予報だ。

 北の予報は、当たる。


 ヴォロは頷かなかった。

 頷くと、同意になる。

 同意は、責任になる。

 だから、言葉だけを返す。


「死に方が決まる」


 グレイが短く息を吐いた。

 笑いではない。

 鼻の奥に詰まった冷気を押し出す音だ。


「死ぬなら前で死ぬ。

 そうじゃないなら、前の場所を変える」


 前の場所を変える。

 言い方が、剣の言い方だ。

 剣士は火を見たまま、わずかに肩を落とした。

 否定ではなく、理解の落ち方だった。


 補給兵が、火の外側に石を一つ置いた。

 目印のためではない。

 置いた石の位置が、風の流れを少しだけ変える。

 煙が低く流れる。

 火があることを、見つけにくくする。

 小さな工夫。

 小さな工夫が、北では命になる。


「拠点がいる」


 補給兵が言った。

 拠点という言葉は重い。

 固定される。

 固定されれば、狙われる。

 だが固定しないまま動けば、毎晩が逃走になる。

 逃走の痕跡は罪になる。

 罪は、刃を呼ぶ。


 術師が包帯から手を離し、指を握って開いた。

 血が戻る。

 戻った血は、痛い。

 痛みは、現実だ。


「拠点って言うと、家みたいに聞こえる」


 それは拒否ではない。

 恐怖だ。

 家という言葉は、守られる場所の言葉だからだ。

 今の彼らに、守られる場所はない。


 ヴォロは火の縁を見た。

 燃えきらない場所。

 燃え残る部分。

 ここに残る薪は、次の火の種になる。

 残すということは、次を選ぶということだ。


「家じゃない。

 戻りを作るだけだ」


 戻り。

 補給兵の目が一瞬だけ上がった。

 剣士の手が、膝の上の剣に触れた。

 グレイが、ほんの少しだけ顎を引いた。

 戻りという言葉は、撤退ではない。

 逃げでもない。

 戻れるという設計だ。


 夜が明ける前、彼らは動いた。

 雪の上に痕を残さないように、道を選ぶ。

 足音を揃えない。

 揃えると、隊列になる。

 隊列は、観測される。

 観測されると、値札が付く。

 値札が付けば、買われるか、消される。


 最初に見に行ったのは、旧い検問所だった。

 木の柵が朽ち、詰所の窓が割れている。

 屋根はまだ残っている。

 壁も厚い。

 火を焚けば暖かい。

 だからこそ、罠みたいに見える。


 補給兵が、床の端を踏んだ。

 沈まない。

 次に、壁を指でなぞる。

 灰が薄く残っている。

 最近、火を使った痕だ。

 つまり、誰かがここを使っている。

 使っているのに、残っていない。

 残っていないということは、夜だけ使っている。

 夜だけ使う場所は、誰かが誰かを待つ場所だ。


「ここは、呼び込みだな」


 剣士が言った。

 断定の声ではない。

 刃の角度の声だ。

 グレイが窓の外を見た。

 視線の高さ。

 立ち位置。

 狙撃の角度。

 彼の目は、戦場を見ている。


「上がある。

 見下ろされる」


 それだけで十分だった。

 見下ろされる場所は、管理される場所だ。

 管理される場所は、管理する側が強い。

 強い側が強いまま、こちらを弱い形で残す。

 北の盤面は、そういうふうに出来ている。


 次に見たのは、潰れた酒場だった。

 扉は外れている。

 中は広い。

 だが匂いが濃い。

 酒の匂い、人の匂い、古い油の匂い。

 匂いが濃い場所は、人が来る場所だ。

 人が来る場所は、情報が来る。

 情報が来る場所は、刃も来る。


 術師が入口で足を止めた。

 視線が一度だけ内側へ動き、すぐ戻る。

 戻る視線は、思い出の視線だ。

 思い出は、弱点になる。

 弱点は、帳簿に書かれる。


「やめよう」


 術師が言った。

 短い。

 理由は言わない。

 理由を言うと、そこに責任が乗るからだ。

 ヴォロは頷かず、ただ引き返した。

 引き返す判断は、今夜は罪じゃない。

 罪にしないために、拠点が要る。


 最後に、補給兵が「一つだけ」と言って、別の方向へ歩いた。

 道ではない。

 道から半歩外れる。

 半歩外れると、足跡が乱れる。

 乱れた足跡は、追う側の判断を遅らせる。

 遅れは致命になる。

 致命を、こちらが作る。


 森の端に、建物があった。

 治療院。




挿絵(By みてみん)




 と言っても、看板は落ち、窓は板で打たれている。

 壁の白は、剥がれ、煤が残っている。

 火事ではない。

 火を焚いた跡だ。

 人が居た跡だ。


 術師が、そこで完全に足を止めた。

 立ち止まるのではなく、戻るように止まる。

 体が覚えている止まり方だった。


 誰も、すぐに声をかけない。

 声をかけると、ここが彼女の過去になる。

 過去は名札になる。

 名札は、狙いになる。


 術師は扉に近づき、指で木を叩いた。

 乾いた音。

 湿っていない。

 雨が染みていない。

 内側がまだ生きている建物の音だ。

 彼女は鍵穴を見た。

 鍵は壊されている。

 壊され方が雑ではない。

 壊した後に、修理されている。

 誰かが、閉じ直した跡だ。


「……ここ、使える」


 声が小さかった。

 許可を求める声ではない。

 確かめる声だ。

 使えるかどうかは、彼女の気持ちでは決まらない。

 盤面で決まる。


 補給兵が、建物の裏へ回った。

 裏口を探すのではない。

 裏口が「あるべき位置」を探す。

 あるべき位置に無ければ、作れるかを探す。

 彼は雪を掘り、石の並びを見て、排水の溝を見つけた。

 排水が生きている。

 排水が生きている建物は、冬を越えられる。


「逃げがある」


 補給兵が言った。

 逃げ、という言葉を使わない男が、あえて使った。

 ここでは逃げが罪にならない逃げだ、という意味だった。


 剣士が窓の位置を見た。

 窓から見える森の切れ方。

 死角。

 射線。

 火を焚いた時に煙が抜ける方向。

 彼は床に膝をつき、板の隙間から外を見る。

 外が見える隙間は、こちらからも見えるが、向こうからも見える。

 見える隙間は、刃の入り口になる。

 剣士は、その隙間を指で塞いだ。


「直せる。

 今夜は、塞げる」


 今夜、という言い方が良かった。

 拠点にするのではない。

 今日を越える。

 今日を越えれば、次の配置が作れる。


 グレイは何も言わず、建物の周囲を一周した。

 前に立つ男の歩き方で、前線を測る。

 彼が戻ってきた時、顔が少しだけ硬かった。


「ここ、狙われた跡がある」


 術師の肩が、ほんのわずかに揺れた。

 揺れたが、崩れはしない。

 崩れないのは、彼女がもう一度ここで働くつもりがないからだ。

 働く場所ではない。

 生きる場所として見るから、崩れない。


 ヴォロは、入口の前に立った。

 立ったが、入らない。

 入った瞬間、ここが自分の場になる。

 自分の場になれば、責任が付く。

 責任が付けば、帳簿に書かれる。

 書かれれば、管理される。


 だが、今夜は既に管理されている。

 危険指定。

 保護対象外。

 個人契約不可。

 団体契約は代表不在で不可。

 名を出さない限り守られない。

 名を出せば管理される。

 その板挟みの中で、名を出さずに生きるには、「名を持たない拠点」が要る。


「……一晩、使う」


 ヴォロが言った。

 拠点にする、と言わない。

 住む、と言わない。

 借りる、と言わない。

 使う。

 使うという言葉は冷たい。

 だが冷たい言葉は、刃に変わりにくい。


 誰も反対しなかった。

 反対しないことは、同意ではない。

 合意でもない。

 ただ、今夜はここで死なない、という判断だった。


 中は想像より狭かった。

 治療台が一つ。

 棚が二つ。

 薬瓶の跡が残っている。

 床には黒い染み。

 血ではない。

 消毒の跡だ。

 消毒の跡は、ここが人を戻す場所だった証拠だ。


 術師が、棚の奥を見た。

 目がわずかに細くなる。

 懐かしさではない。

 計算の目だ。

 薬が残っているか、包帯が残っているか。

 残っていれば、次の夜が変わる。

 彼女は棚の隙間から、乾いた布を一枚引き出した。

 破れていない。

 湿っていない。

 生きている布だ。


 補給兵が床板を外した。

 音を立てない外し方。

 釘を抜くのではなく、板をずらす。

 ずらすだけなら、戻せる。

 戻せるなら、痕跡が薄い。

 彼は板の下に空間があるのを見つけ、そこに荷を入れた。

 荷を見える場所に置かない。

 荷は、盗まれるからではない。

 荷が見えると、人が「ここに居る」と判断するからだ。

 判断されると、刃が来る。


 剣士は出入口を二つ確保した。

 正面の扉はそのまま使うが、裏の排水溝を広げ、雪を崩して通れるようにする。

 通れるだけでは足りない。

 通った後に戻せるように、崩し方を選ぶ。

 戻せる崩し方は、補給兵と同じ癖だった。

 癖が揃うと、団になる。

 団になると、名が必要になる。

 その手前で止めるように、剣士は手を止めた。


 グレイは外に出たまま、戻らなかった。

 前に立つ。

 立ち続ける。

 前に立ち続ける剣は、折れる。

 折れる前に、誰かが止める必要がある。

 だが止めれば、内紛が成立する。

 成立すれば、帳簿の勝ちになる。

 帳簿の勝ちは、こちらの負けだ。


 ヴォロは一度だけ外へ出て、グレイの隣に立った。

 並ばない。

 半歩後ろ。

 声が届く位置。


「見張りなら、交代でいい」


 グレイはすぐ返さなかった。

 返さないのは、拒否ではない。

 前に立つ癖を、言葉で折られたくないだけだ。


「……俺は、前に居ると落ち着く」


 落ち着く、という言葉が出たのが意外だった。

 剣が落ち着く場所は、戦場だ。

 戦場で落ち着く男は、戦場以外で落ち着けない。


 ヴォロは夜の森を見た。

 森の中に、誰かの視線があるかどうかを探すのではない。

 視線が「置かれる場所」を探す。

 置かれる場所には、人が来る。

 人が来れば、言葉が来る。

 言葉が来れば、責任が来る。

 責任が来れば、刃が来る。


「ここは、落ち着けない場所にする」


 グレイが、少しだけ顔を向けた。

 理解の目だ。


「落ち着けないのに、戻れる場所にする」


 矛盾だ。

 だが北で生きる矛盾は、いつもそれだ。

 安全は、落ち着きではない。

 落ち着きは、油断だ。

 油断は、刃を呼ぶ。


 中へ戻ると、術師が小さな火皿を見つけていた。

 火皿は深い。

 煙を抑えられる。

 彼女は火を焚かない。

 焚く代わりに、火を焚ける形だけを整えた。

 整えた形は、次の夜に効く。


 補給兵が、壁の一部を指差した。

 薄い隙間。

 外の風が入る。

 風が入れば、匂いが出る。

 匂いが出れば、見つかる。

 彼は布を詰め、上から泥を塗る。

 泥は凍る。

 凍ると固くなる。

 固くなると、剥がす音が出る。

 剥がす音が出れば、夜に気づける。

 罠ではない。

 警報だ。

 警報は、戦わずに生きるための刃だ。


 剣士が、床に座った。

 剣を膝に置くが、抜かない。

 抜かないことで、ここが戦場ではない形を保つ。

 戦場ではない形を保てる場所が一つあるだけで、人は翌日も動ける。


 ヴォロは壁にもたれ、茶色い紙を出しかけて、やめた。

 ここで書けば、ここが拠点として固定される。

 固定されれば狙われる。

 狙われれば、ここで誰かが死ぬ。

 死ねば、帳簿に載る。

 載れば、管理される。

 管理されれば、終わる。


 術師が、ヴォロの動きを見て、小さく首を振った。

 言葉ではなく、合図で止める。

 合図は、紙にならない。


「……ここ、私がいた場所なんです」


 術師が言った。

 今まで言わなかったことを、今夜だけ言う。

 名札にならないように、過去の説明を削る。

 削っても、言う理由がある。


「仕事で。

 治す側で。

 ……一回、襲われた」


 補給兵の手が止まった。

 襲われたという事実は、導線の話になる。

 導線の話は、命の話になる。


 術師は続けた。

 声は震えない。

 震えるのは感情ではなく、寒さのせいに出来る程度に抑える。


「私が逃げたんじゃない。

 逃がされた。

 裏の排水から」


 補給兵が、排水溝の方向を見た。

 見ただけで、彼は理解した。

 逃げ道が最初からある建物は、逃げることを前提に設計されている。

 治療院が逃げを前提にするのは、おかしい。

 だから襲撃は一度ではない。

 繰り返されている。

 繰り返されているのに残っている場所は、誰かが「残す理由」を持っている。


 グレイが中へ入ってきた。

 雪を落とす動作が短い。

 余計な動きがない。

 余計な動きがない男は、余計な情けもない。

 だが今夜の彼は、火の縁に座らず、壁際に立った。

 前に立つ癖が、ここでは出ない。

 彼も、ここが戻りであることを理解したのだ。


「誰が襲った」


 グレイが言った。

 問いが短い。

 短い問いは刃だ。


 術師は答えなかった。

 答えれば、紙になる。

 紙になれば、責任になる。

 責任になれば、今夜が終わる。


 ヴォロが代わりに言った。


「今は、要らない」


 グレイの目が細くなる。

 反発ではない。

 飢えだ。

 終わらせたい飢え。

 前に立ちすぎる剣の飢え。


 ヴォロは、その飢えを否定しない。

 否定すると、敵になる。

 敵にすると、内紛が成立する。

 成立は、相手の勝ちになる。


「終わらせる相手を決めると、こちらが終わる。

 今は、終わらせない形を作る」


 剣士が小さく息を吐いた。

 術師が包帯を握り直した。

 補給兵が泥の詰め方を変えた。

 全員が、言葉ではなく動きで賛成する。

 賛成は紙にならない。

 紙にならない賛成だけが、今は生き残る。


 夜半、外の音が一度だけ変わった。

 雪が崩れる音ではない。

 獣の足音でもない。

 人の靴音でもない。

 硬い何かが、硬い何かに触れた音。

 補給兵が、壁に詰めた泥の方を見た。

 泥が剥がれた音ではない。

 だから、外だ。

 外で誰かが、建物の周囲を踏んだ。

 踏んだだけで、去った。


 確かめに来た。

 狙いではない。

 確認だ。

 確認は、次の配置を呼ぶ。


 ヴォロは目を閉じずに、呼吸だけを細くした。

 眠ると油断になる。

 油断は刃を呼ぶ。

 だが眠らなければ、判断が遅れる。

 遅れは致命になる。

 だから、半分だけ眠る。

 音を数えながら、半分だけ。


 夜が明ける直前、術師が小さく言った。


「ここ、残しておきたい」


 残す、という言葉が出た。

 危険な言葉だ。

 残すと言った瞬間、拠点になる。

 拠点になった瞬間、狙われる。


 ヴォロはすぐに否定しなかった。

 否定は、彼女の過去を切ることになる。

 過去を切ると、人は折れる。

 折れた人は、団に残れない。

 団が減ると、配置が歪む。

 歪んだ配置は、次の夜に死ぬ。


「残すなら、残し方を決める」


 ヴォロが言った。


「名前を付けない。

 印を残さない。

 ここを“拠点”と呼ばない。

 ここは、戻りだ。

 戻りは、必ず捨てられるようにする」


 補給兵が頷いた。

 捨てられる戻りは、設計として正しい。

 剣士も頷いた。

 捨てられる場所は、執着しなくていい。

 執着がなければ、戦闘で迷わない。


 グレイだけが、少し遅れて言った。


「……捨てる場所を作るのか」


 捨てる、という言葉に、彼の嫌悪が混ざる。

 前に立つ剣は、捨てることが嫌いだ。

 拾うことも嫌いだ。

 ただ、切ることだけが得意だ。


 ヴォロは、グレイを見ないまま答えた。


「捨てられるから、戻れる。

 戻れるから、次で前に出なくていい」


 グレイは返さなかった。

 返さないまま、壁際に座った。

 座ること自体が、彼にとっては譲歩だ。

 譲歩は、仲間の証拠になる。


 外が白み始める。

 雪の色が変わる。

 音が戻る。

 北の朝は、夜より残酷だ。

 夜は隠せる。

 朝は、痕が見える。

 痕が見えると、追われる。


 補給兵が、排水溝の雪を戻した。

 剣士が窓の板をもう一枚足した。

 術師が火皿の位置を変えた。

 ヴォロは何も書かない。

 書かないことで、ここがまだ固定されない形を保つ。


 出る前に、術師が一度だけ建物の中を振り返った。

 目が揺れた。

 揺れたが、泣かない。

 泣くと残る。

 残ると狙われる。

 彼女は視線を切り、歩き出した。


 ヴォロは最後に、入口の敷居を跨がず、外側から扉を閉めた。

 閉めた扉は、住居の扉ではない。

 使い終えた道具の蓋だ。

 蓋を閉めたら、いつでも捨てられる。


 それでも胸の奥に、わずかな熱が残った。

 熱は安心ではない。

 安心なら油断になる。

 これは、次の夜に向けての準備の熱だ。

 今日、彼らには「戻り」がある。

 戻りがあるなら、今日の戦闘は少しだけ変わる。

 少しだけ変わるだけで、人は生き残れる。


 雪の音が、背後で小さく鳴った。

 遅れて届く音。

 だが今日は、その遅れが致命にならない。

 致命にしないために、戻りを作ったのだから。


 誰も、拠点とは呼ばなかった。

 ただ、戻る場所、と心の中でだけ呼んだ。

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