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第4話 帳簿の嘘


 潮の匂いは、朝いちばんに鼻の奥へ刺さる。

 港の空気は湿っていて、冷たいのに、どこか脂っこい。


 ヴォロは木箱を抱えて歩いていた。中身は釘と縄。軽い。だが腕はもう重い。十歳の体は、働けば働くほど「まだ足りない」と言われる。


 母は夜明け前に起きて、洗い仕事へ出た。

 大鍋で布を煮る仕事だ。指の皮が薄くなる。冬になると、血が出る。帰ってきても、母は何も言わない。黙って指を揉み、熱い湯を当てる。


 父はいない。

 父がいないことを、港は「事故」で片づけた。


 帳簿の上では、父はただの空欄になった。

 埋められるのは早かった。別の名前が入った。空欄は嫌われる。空欄は、誰かの取り分になる。


 ヴォロはそれを知っている。

 だから、空欄を作らない。


 作らないために、今日も箱を運ぶ。


 倉庫の横に小さな詰所がある。板の壁、錆びた釘、濡れた床。

 そこで荷の受け渡しをする。受け渡しが終わったら、帳簿に線を引く。線が引かれなければ、荷は「届いていない」ことになる。届いていない荷は、誰かのものになる。


 詰所の入口で、年上の荷役が声をかけた。


 「ヴォロ。釘箱、こっち。台に置け」


 ヴォロは黙ってうなずき、箱を台に置く。

 台の板は湿っている。釘箱の底がきしむ。


 そこに、帳簿係の男が来た。

 小太りで、指輪をしている。指輪は港の金ではない。内側の街の金だ。


 男はペンを舐め、帳簿を開いた。


 「……釘、縄、油布。三。よし」


 線を引く。

 引いた線は細い。だが港では、細い線ひとつで人が食える。


 男は次のページをめくった。


 そこで、ヴォロの目が止まった。


 数字が、合っていない。


 油布の束。昨日の残りが「二十」。今日の搬入が「十」。

 本来なら、いまここにあるべき数は「三十」だ。


 だが帳簿には「二十五」と書いてある。

 五枚、最初から消えているように見える。


 間違いなら、誰かが気づく。

 だが港は、気づかないふりが得意だ。


 気づかないふりをしたほうが、生きやすい者がいる。

 ヴォロは釘箱の蓋に指を置いたまま、動かなかった。

 顔を上げない。目だけを動かす。


 詰所の壁際に、油布の束が積まれている。

 巻かれた布の端が濡れている。潮で重くなっている。


 数えるなら簡単だ。

 だが数える動作は、目立つ。目立てば、殴られる。


 ヴォロは箱の縁を撫で、わざと釘を一本落とした。


 乾いた音。床の板が鳴る。


 「すみません」


 言葉は短く。謝るのは、早いほどいい。

 男たちは謝罪で満足する。謝罪が遅いと、拳が出る。


 ヴォロはしゃがんで釘を拾った。

 その姿勢のまま、視線だけを油布の束へ走らせる。

 巻きの太さ。紐の結び目の位置。端の印。

 

 数は――二十七。

 いや、二十八。

 端の薄い束が一つ、奥に隠れている。


 合計二十九。


 「三十」には一つ足りない。

 だが帳簿の「二十五」よりは多い。


 最初から「五」と書いたのか、

 それとも、そう書く癖があったのか。

 どちらにしても、辻褄はあとで合わされる。


 ヴォロは釘を拾い終え、立ち上がった。

 そして、何も言わずに箱を抱え直した。


 口を開けば、話が始まる。

 話が始まれば、責任が生まれる。

 責任は、弱い方へ落ちる。


 詰所を出ると、潮風が頬を叩いた。

 鼻の奥が少し痛い。


 眠りが足りない。昨夜、母は遅かった。

 湯気と石鹸の匂いのまま寝た。


 ヴォロは倉庫の陰へ回った。

 人の目が届きにくい場所。荷車の影が長く伸びる。


 油布の束を扱う作業員が二人、煙草を吸っている。

 ヴォロは近づき、声を落とした。


 「油布。今日、何巻き来た?」


 二人は一瞬だけヴォロを見る。

 子どもに聞かれて面倒だ、という顔。


 「十。朝に十だ」

 「……で、残りは二十。合ってる」


 言い方は軽い。

 合っているかどうかは、彼らにとって重要ではない。


 ヴォロはうなずいた。


 「……一つ、薄いのが奥にある。印が違う」


 作業員の眉が動く。


 「どれだ」


 ヴォロは指で場所を示すだけにした。

 触れない。触れた瞬間、責任が移る。


 男が奥の束を引っぱり出す。

 薄い巻き。結び紐の色が少し違う。


 「これ……昨日のだ。戻し忘れだな」


 戻し忘れ。

 そう言うことで、話は終わる。


 だが、終わったように見せて、終わっていない。


 ヴォロは、もうひとつだけ言った。


 「帳簿、二十五になってた。いま、二十九ある」


 二人の顔が固まる。

 煙草の灰が落ちる。誰も拾わない。


 「……誰が書いた」

 「詰所の、あいつだろ」


 声は低い。

 怒りではない。恐れだ。


 数字が狂うと、後で軍や役所が来る。

 来れば、倉庫ごと締められる。

 締められれば、飯が消える。


 作業員は煙草を踏み消し、背を伸ばした。


 「おい。お前、これ運べるか」


 ヴォロはうなずく。


 「運べる」


 運べると言えば、殴られにくい。

 役に立つ子どもは、殴られる順番が後になる。


 それが港のやり方だ。


 男は油布の束を二つ、荷車に乗せた。

 薄い束も一緒に。


 詰所に入ると、帳簿係の男はまだ座っていた。

 ペン先を舐め、別の項目に線を引いている。


 指輪が灯りを反射して光る。


 「油布。いま二十九ある。帳簿が二十五だ。直せ」


 帳簿係は顔を上げた。

 笑いそうな口元。だが目だけが冷たい。


 「二十五だろ。昨日の残りが二十。今日の搬入が五――」


 「十だ」


 作業員が切った。


 「朝に十。俺が受けた。倉庫で数えた」


 空気が固くなる。

 湿気が、さらに濃くなる。


 帳簿係は一瞬だけ口を閉じた。

 それから紙面に目を落とし、肩をすくめる。


 「……ああ、すまん。線を引く場所を間違えた」


 言い訳は簡単だ。

 間違えたで済ませられる立場がある。


 男はペンで数字を書き換えた。

 二十五を二十九に。


 線を引き直す。

 細い線。だが今度は、少しだけ濃い。


 作業員は何も言わず、踵を返した。

 勝った顔はしない。勝てば恨みが残る。


 詰所に残ったのは、帳簿係の男とヴォロだけだった。


 「……お前、見たのか」


 ヴォロは息を吸い、吐いた。


 「数が変だった」


 嘘ではない。

 誰が悪いとも言っていない。


 港で生きる言葉は、そういう形になる。


 帳簿係は椅子にもたれ、指輪のついた手で机を叩いた。


 とん。


 「目が利くな。……余計な口を開かなければ、食いっぱぐれない」


 脅しでも、助言でもない。

 ただの事実だ。


 ヴォロはうなずいた。


 「口は開かない」


 男は薄く笑った。


 「だったら次からは、必ず詰所を通れ。線がなければ、荷は消える」


 ヴォロは言葉を飲み込んだ。

 線を引く者が消すのだ、と。


 だが言い返せば、殴られる。

 殴られれば、母が困る。


 外の光がまぶしい。

 潮風が強い。雲が低い。


 港の音が戻る。


 荷車の軋み。怒鳴り声。木槌の音。

 歩きながら、ヴォロは考えた。


 帳簿の数字は、荷を守る。

 父は、帳簿から消えた。

 今日の油布も、危うく消えるところだった。


 だから、線を残す。


 夜、ヴォロは木片に線を引いた。

 一本。二本。三本。


 それは荷の数ではない。

 自分が「見た数」を忘れないための線だ。


 線は薄い。

 だが線がある限り、消えにくい。


 港の暗がりで、人が消える。

 帳簿の上で、名が消える。


 だから、線を残す。


 潮の匂いの中で、ヴォロは眠った。

 次の朝、また港が始まる。


 そして次は、帳簿ではなく――

 拳で「位置」を教えられる日が、

 どこかで待っている気がした。

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