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第37話|前に立つ剣の選択

 北の契約は、静かに渡される。

 声を荒げる必要がないからだ。

 断られる可能性が低い相手にしか、紙は届かない。



 グレイは、谷を一つ越えた先の小屋でその紙を受け取った。

 机はない。

 椅子もない。

 壁に打ち付けられた板が一枚あるだけだ。



 紙は白い。

 ギルド印はない。

 だが、北の書式だと一目で分かる。

 ――整っている。



 文字の間隔。

 行の詰め方。

 余白の取り方。

 読む側に判断させない配置。



 グレイは立ったまま読んだ。



 〈護衛契約〉

 〈対象:補給線・街道要所〉

 〈期間:不定〉

 〈報酬:規定上限〉

 〈条件:単独行動〉



 ここまでは、いつも通りだ。

 いつもより条件がいい。

 北が本気だというだけの話。



 問題は、その下だった。



 〈付記〉

 〈判断役と同時行動する場合、保証なし〉



 グレイの指が、紙の端を押さえる。

 破らない。

 握り潰さない。

 そういう感情は、もう通り過ぎている。



 保証なし。

 曖昧な言葉だ。

 だが北の言葉で「保証なし」は、はっきりしている。



 ――死んでも知らない。

 ――守らない。

 ――消しても構わない。



 小屋の外で、雪が落ちる音がした。

 遅れて届く。

 この場所は、そういう場所だ。



 向かいに座っている調整役は、何も言わない。

 言わなくていいことだからだ。



 グレイは紙を畳んだ。

 畳み方は雑だ。

 だが、破れてはいない。



「……俺は、管理しやすいか」



 自分でも驚くほど、声は低かった。

 調整役は、肩をすくめるだけだ。

 肯定でも否定でもない。

 だが北では、それが肯定だ。



「前に立つ。判断が早い。結果を終わらせる」



 グレイは続ける。



「そういう剣は、扱いやすい」



「“剣”だからな」



 調整役が、初めて口を開いた。

 短い言葉だ。

 だから、余計な意味が付かない。



 グレイは笑わなかった。

 剣であることに、誇りはある。

 だが、剣でしかないなら――

 折れたとき、誰も拾わない。



「……あいつと一緒だと、価値が落ちるか」



 今度は、はっきりとした問いだった。

 調整役は、少しだけ間を置いた。

 その間が、答えだ。



「“成立しない戦闘”は、帳簿が嫌う」



 それだけ言って、視線を外す。



 グレイの脳裏に、いくつかの場面が浮かぶ。



 雪の谷。

 刃と刃の間。

 前に出すぎた自分を、声だけで止めた影。



 殺せたはずの瞬間。

 終わらせられたはずの戦闘。

 それを、終わらせなかった判断。



 ――ヴォロ。



 あの男がいると、戦場の終わり方が変わる。

 速くならない。

 派手にならない。

 正しくもならない。

 だが――

 死体が、残らない。



 グレイは、剣に触れた。

 柄。

 鍔。

 鞘の口。



 この剣は、よく働いた。

 北で、生き延びるために必要なことは、全部やってきた。



 前に立った。

 迷わなかった。

 殺した。



 その結果が、この紙だ。



「……条件を呑めば、俺は生きられるな」



 独り言のように言う。

 調整役は、否定しない。



「だが」



 グレイは続けた。



「俺が思い出すのは、

 生き残った戦場じゃねぇ」



 雪の中で、止められた刃。

 肩を壊してまで、殺さなかった一撃。

 あの一瞬の、判断の重さ。



「思い出すのは、

 “終わらなかった戦場”だ」



 沈黙が落ちる。

 調整役は、分かっている。

 この剣が、もう半分折れていることを。



「……サインは?」



 それでも聞く。

 仕事だからだ。



 グレイは、紙を机代わりの板に置いた。

 指先で、署名欄をなぞる。



 書けばいい。

 名前を書くだけだ。



 そうすれば、

 守られる。

 使われる。

 管理される。



 そして――

 あの判断役と、二度と並ばなくて済む。



 グレイは、紙を裏返した。

 裏には、何も書いていない。

 余白だ。



「……やめとく」



 短い言葉だった。

 調整役の目が、わずかに細くなる。



「後悔するぞ」



「してるさ。

 もう、何度もな」



 グレイは紙を置いたまま、立ち上がった。



「この契約は、

 俺が“剣”でいる限り、正しい」



 だからこそ。



「今日は、選ばねぇ」



 調整役は、追わない。

 追う必要がないからだ。

 この剣がどこへ行くかは、

 もう分かっている。



 小屋を出ると、風が強かった。

 雪の音が、いつもより近い。



 谷の向こう。

 あの“判断が多すぎる場所”。

 危険指定された集団。

 前に立ちすぎる剣と、

 前に出ない判断役。



 北は賢い。

 だから必ず、こうする。

 危険同士を、ぶつける。



 グレイは、背中の剣を背負い直した。

 前に立つためじゃない。

 逃げるためでもない。

 ――確かめるためだ。



 自分が、

 まだ“折れていない剣”なのかを。



 雪が鳴る。

 遅れて届く音。

 だが今夜は、

 その遅れが、

 次の配置を知らせていた。

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