第3話|十になる日
港の朝は、眠りを許さない。
夜明け前から、波止場では音が生まれている。
木箱を引きずる音。
縄が湿って軋む音。
荷車の車輪が石畳を叩く鈍い振動。
潮と油と獣脂が混ざった匂いが、肺の奥まで入り込んでくる。
ヴォロは、その中に立っていた。
今日で、十になる。
港町では、年齢は祝うものではない。
使い道が変わる日として扱われる。
「もう“子ども”じゃないな」
そう言ったのは、父ではなかった。
父は、もういない。
母は、言わない。
言わない代わりに、朝の粥を少しだけ多く盛った。
それが、この家の祝いだった。
父は港の運び屋だった。
塩の道から港へ荷を落とす、その途中で、
荒れた日に足を滑らせ、荷と一緒に海へ落ちた。
そう聞かされた。
戻ってきたのは、身につけていた革帯だけ。
遺体は見つからなかった。
誰かは、波にさらわれたと言った。
誰かは、荷の下に沈んだと言った。
だから港では、父は「死んだ」とは言われない。
数から消えた、と言われる。
帳簿から消えた者は、最初から存在しなかったことになる。
ヴォロは、その意味を、幼いころから知っていた。
――
倉庫街の詰所で、倉庫番の男が帳面を差し出した。
「今日からだ。箱を数えろ」
帳面は分厚く、端がすり切れている。
紙は湿気を含み、墨の匂いが染みついていた。
「間違えるな。
数は責任だ」
責任。
殴られるとか、怒鳴られるとか、そういう話ではない。
責任を負わされた数字は、人を守るか、殺す。
ヴォロは黙って頷いた。
倉庫番は、それ以上何も言わなかった。
十になった子どもに、余計な説明は不要だ。
箱を数える。
縄で束ねられた荷を目で追い、指でなぞる。
一つ。
二つ。
三つ。
積み方は乱れていない。
だが、港の箱は必ずしも中身が同じではない。
塩。
酒。
武具。
時には、人。
「中身は見るな」
倉庫番の言葉を、ヴォロは思い出す。
「箱は箱だ。
中身を見たら、判断が遅れる」
判断が遅れれば、数字が狂う。
数字が狂えば、誰かが責めを負う。
それが、この港の論理だった。
――
昼前、怒鳴り声が上がった。
「違う! 数が合わねぇ!」
荷役の男と、別の倉庫係が言い争っている。
よくある光景だ。
だが今回は、倉庫番の視線がこちらに飛んだ。
「……おい。
その帳面、見せろ」
胸が冷える。
ヴォロは帳面を抱え、歩み寄った。
足が震えないよう、意識して歩幅を揃える。
「……四十二」
自分の声が、思ったより低かった。
倉庫番は無言で箱を数え直す。
一つずつ。
確かめるように。
「……合ってる」
短く、そう言った。
揉めていた男の一人が舌打ちをする。
だが、それ以上何も言えない。
数字が正しい限り、帳面が勝つ。
ヴォロは、その瞬間に悟った。
殴られるよりも、
怒鳴られるよりも、
数字を間違えないことが、生き残る条件だと。
――
午後、港の外れで小さな諍いが起きた。
酒の入った荷役が、別の組とぶつかっただけの話だ。
誰も止めに入らない。
殴り合いになるのを、港は珍しく思わない。
だが、二人の背後には積み荷があった。
割れ物だ。
ヴォロは、考えるより先に動いていた。
半歩、前に出る。
真正面ではない。
視線の線上を、わずかに外す。
「……箱、割れます」
声は小さい。
だが、二人の視線が揃ってこちらを向く。
「どけ、ガキ」
拳が上がる。
殴られる。
そう思った瞬間、足がもう半歩だけずれた。
拳は肩をかすめる。
痛みはある。
だが、倒れない。
その一瞬で、男たちは背後を見る。
酒瓶。
高値の荷。
どちらともなく舌打ちし、離れた。
誰も、礼を言わない。
誰も、ヴォロを見ない。
港では、それが正しい。
前に立った者は、景色になる。
――
夜。
母は何も聞かなかった。
ヴォロも、何も言わなかった。
ただ、帳面を膝に置き、今日の数字をなぞる。
四十二。
狂っていない。
「……十になったね」
母が、ぽつりと言う。
「明日から、もっと使われるよ」
それは確認ではなく、事実だった。
ヴォロは頷いた。
「いい」
それ以外の答えは、最初からなかった。
夜更け、港の警備太鼓が鳴る。
一定の拍。
乱れのない音。
ヴォロは、その音を数えながら目を閉じる。
一打。
二打。
三打。
まだ、退く合図ではない。
十になる日、ヴォロは理解した。
前に立つとは、
英雄になることではない。
数字を狂わせないこと。
それだけで、誰かを守れる。
――守れていると、信じられる。
それで十分だ、と。




