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第26話|数えられない人間

 宿の朝は、いつも静かだ。

 静かなのは、眠っているからではない。

 朝のうちに追い出される人間が多い宿ほど、音を立てない。



 ヴォロは戸口の前で立ち止まり、息を一つだけ数えた。

 中の空気を吸わない。

 宿の空気は、人を「滞在者」にする空気だ。

 滞在者になった瞬間、滞在理由を問われる。

 理由は、保証になる。

 保証がない人間は、理由を持ってはいけない。



 扉を叩く音は小さく。

 叩き方は軽い。

 軽い叩き方は、慣れている叩き方だ。

 慣れているということは、ここで何度も断られてきたということだ。



 女将は帳場から顔を上げなかった。

 顔を上げないのは、すでに結論が出ているからだ。

 目線は要らない。



「更新です」



 ヴォロは短く言った。



 女将は紙を一枚だけ引き寄せた。

 宿泊名簿だ。

 名簿の端が少し擦れている。

 擦れている名簿は、よく書き換えられる名簿だ。

 書き換えられるということは、人が消える名簿だ。



 女将は指で行を辿り、止めた。

 止める位置が正確だ。

 正確なのは、覚えているからだ。

 覚えられる客は、長居していない。



「……保証人」



 女将は言った。

 問いではない。

 確認だ。



 ヴォロは首を振った。

 振り方は小さく。

 大きく振ると、感情が乗る。

 感情が乗ると、話が長くなる。

 長い話は、同情を生む。

 同情は、後で刃に変わる。



「前は、あったでしょう」



 女将が言った。

 前、という言葉に期限はない。

 期限がない言葉は、切り捨てるための言葉だ。



「……なくなりました」



 ヴォロはそう答えた。



 女将はそこで初めて顔を上げた。

 目が合う。

 合うのは一瞬だ。

 一瞬で、十分だ。



「じゃあ、無理だね」



 理由は言わない。

 理由を言うと、反論が生まれ、責任が生まれる。

 責任は、この女将が背負うものではない。



 女将は帳簿を閉じた。

 閉じる音が乾いている。



「今日までです」



「荷物は」



「昼までに」



 昼。

 午前と午後の境。

 境を指定されるのは、猶予ではない。

 処理だ。



 ヴォロは頷いた。

 頷く角度は浅く。

 深く頷けば、了承になる。

 了承は、責任の引き受けだ。



 宿を出ると、空気が軽かった。

 軽い空気は、居場所がない証拠だ。

 居場所がある空気は、重い。



 酒場の前を通る。

 昼の酒場は、仕事の匂いがする。

 依頼が集まる。

 集まるが、誰にでも渡るわけではない。



 掲示板の前に、人が三人いた。

 一人は腕の太い男。

 一人は痩せた女。

 一人は、背を丸めた老人。



 紙が一枚、剥がされた。

 剥がす動作が速い。



「……埋まったな」



 腕の太い男が言った。



「早いね」



 女が言う。

 言い方が軽い。



 ヴォロは掲示板を見る。

 紙は、まだある。

 だが、端に小さな印がある。

 丸でも、×でもない。

 線だ。

 線が引いてある依頼は、表向き残っている。

 だが実際には、回らない。

 回らない仕事は、断る理由を作る仕事だ。



 ヴォロはその一枚を指で押さえた。

 剥がさない。

 剥がすと、参加意思を示す。

 示した瞬間、条件を突き付けられる。



「……保証人」



 酒場の親父が言った。

 まだ何も聞いていないのに。

 それが答えだ。



 ヴォロは指を離した。

 紙はそのまま残る。

 残っているのに、誰にも渡らない紙だ。



 隣で、別の男も手を引いた。

 見知らぬ剣士だ。

 年は、少し上。

 装備は古いが、手入れされている。

 手入れされた装備は、長く生きている装備だ。



 剣士は何も言わず、酒場を出た。



 ヴォロも続く。

 並ばない。

 だが、同じ理由で席を立つ。



 外に出ると、剣士が足を止めた。

 振り返らない。

 背中で話す姿勢だ。



「……数に入らないな」



 剣士が言った。

 独り言のようで、独り言ではない。

 共感を求めているわけでもない。

 確認だ。



 ヴォロは答えなかった。

 答える必要がない。

 同じ理由で立ち上がった時点で、答えは共有されている。



 剣士は肩をすくめた。



「昔は、これでもCだったんだがな」



 昔、という言葉も期限がない。

 期限がない言葉は、今を切る言葉だ。



 ヴォロは剣士の装備を見る。

 紐の結び。

 刃の欠け。

 鞘の擦れ。

 戦って生き残った装備だ。

 だが、勝ち続けた装備ではない。



「……今は?」



 ヴォロは訊いた。



 剣士は笑わなかった。



「今は、数えられない」



 その言葉で、会話は終わった。

 終わる会話は、必要な情報をすべて含んでいる。



 剣士は別の路地へ曲がった。



 ヴォロは逆へ歩いた。

 別れ道は、意図的だ。

 並ぶと、組になってしまう。

 組になると、まとめて処理される。



 午後。

 小口の仕事に応募する。

 倉庫の仕分け。

 馬の世話。

 荷車の修理。

 どれも、先に枠が埋まっている。

 埋まっているというより、空けられていない。



「……悪いな」



 雇い主が言う。

 悪いと思っていない声だ。



「今回は、顔が立たなくて」



 顔。

 顔とは、人脈のことだ。

 人脈とは、保証のことだ。



 夕方。

 ヴォロは川沿いに座った。

 水の音を聞く。

 水は、数を数えない。

 流れるだけだ。



 懐から茶色い紙を出す。

 罫線のない紙。

 自分のための紙。



 書く。

 短く。



 〈宿:更新不可〉

 〈理由:保証人〉

 〈依頼:停止〉

 〈掲示板:線〉

 〈共通点:数外〉



 書いて、止まる。



 怒りはない。

 悲しみもない。

 あるのは理解だけだ。



 自分は、数に入らない。

 評価されないのではない。

 拒否されているのでもない。

 ただ、存在として数えられていない。



 数えられない人間は、責任を持たない。

 責任を持たない人間は、守られない。

 守られない人間は、消えても記録に残らない。

 だから、殺される。



 ヴォロは紙を畳んだ。

 畳み方は丁寧だ。紙を信じているからではない。

 紙しか、残らないからだ。



 川の向こうで、誰かが咳をした。

 咳の仕方が荒い。

 無理をした咳だ。



 見知らぬ剣士が、同じ川べりに座っていた。

 距離はある。

 話さない。

 だが、同じ場所だ。



 同じ場所にいるということは、

 同じ理由でここにいるということだ。



 誰も名乗らない。

 誰も勧誘しない。

 ただ、同じ「数外」の場所にいる。



 夕暮れの空が、少しだけ赤くなった。

 赤い空は、血の色に似ている。

 だが、血ではない。

 血でない赤は、警告だ。



 ヴォロは立ち上がった。

 紙を袋に戻す。

 袋は軽い。

 守るものが少ない袋だ。



 ――違う。

 守るものが少ないのではない。

 守る資格が与えられていない。



 その夜。

 ヴォロは初めて、はっきりと理解した。

 自分はもう、

 「個人」として生きられない。

 個人でいる限り、

 数に入らない。

 数に入らない限り、

 消される。



 では、どうする。

 答えは、まだ書かない。

 だが、紙の余白は確実に減っている。



 次に来るのは、

 判断を持たない仕事だ。

 それは、

 生きるために受ける仕事であり、

 自分を殺すための仕事でもある。



 ヴォロは息を細くして夜を迎えた。

 数えられない人間として。


 そして、

 数を作る側へ行く準備をしながら。

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