表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

22/59

第22話|雪の音が変わる場所

 北方街道の雪は、舌に触れる前から味がした。


 粉ではない。乾いていない。湿りが含まれていて、泥の匂いが混ざる。泥の奥に、鉄の匂いがある。

 血の鉄ではなく、土に眠る鉄だ。

 港の錆とは違う。

 錆は外側に出た鉄で、これは内側の鉄だ。


 ヴォロは立ち止まり、肺の奥まで冷気を吸い込んだ。

 吸い込むと胸が痛い。痛いのは寒さだけではない。

 湿った雪は、身体の熱を奪う速度が速い。

 奪われる速度が速いと、判断は短くなる。

 短くなった判断は、雑になる。



 靴の下で雪が「ぐずり」と音を立てた。

 乾いた雪なら鳴る。

 湿った雪は鳴りにくい。

 鳴りにくい雪が鳴ったということは、下に泥がある。

 泥は足を取る。

 足を取る雪は戻りを遅らせる。

 戻りが遅れれば、追撃を受ける。

 追撃されれば、線を越える。


 ――線を越えれば終わる。



 ヴォロは目線を低くして、雪面の「乱れ」を見た。

 踏み固められた部分と、避けられた部分。

 避けられた部分の縁だけが、妙に滑らかだ。

 滑らかな縁は、何かが通った証拠になる。

 通ったのに、足跡が薄い。

 薄い足跡は、体重が軽いか、踏み方が上手いかだ。



 背後で、短い声が落ちた。



「……ヴォロ、あそこだ」



 グレイだった。

 声は低い。

 低い声は、雪の雑音に負けない。

 負けない声は、前に立つ声だ。


 ヴォロは頷かない。

 頷くと動きが硬くなる。

 硬くなった動きは、型になる。型は読まれる。



 視線の先、街道がわずかに湾曲していた。張り出した岩が、視界を遮っている。岩陰が深い。深い陰は、人を隠す。隠す陰は、刃を隠す。刃を隠せる場所は、伏兵が好きだ。



 今回の二次任務は、監査の言葉を借りれば「整える」仕事だった。

 

 襲撃者を皆殺しにはしない。

 だが荷は奪わせない。

 相手に「今日は運が悪かった」と思わせて、生かして帰す。

 そうして、次の襲撃を「割に合わない」に変える。


 割に合わないに変えるためには、こちらが殺しすぎてはいけない。

 殺しすぎれば、相手は「取り返す理由」を得る。

 理由ができれば、刃が増える。

 刃が増えれば、雪の音が変わる場所が増える。


 反吐が出るほど面倒な算段だ。

 だが算段を嫌う者から先に死ぬ。

 北はそういう場所だ。



 ヴォロは、雪面の乱れをもう一度見る。



「一人、多いな」



 言葉は小さく、吐く息も細く。

 細い息は白くなりにくい。

 白い息は位置を教える。



「ああ。風下に潜んでやがる。鼻が利く野郎だ」



 グレイが答えた。

 グレイの右手が無意識に剣の柄を叩いた。

 凍りついた革が、硬い音を返す。

 硬い音は冷静の音ではない。

 硬い音は「抑えた」音だ。

 出したい力を、出さないでいる音。



 二人は並ばない。

 並べば「二人組」になる。

 二人組になれば、相手は二人組として対処してくる。

 対処は効率化される。

 効率化された刃は、戻りを許さない。


 役割も決めない。

 決めた瞬間に、動きが硬くなる。

 硬くなった動きは、敵に利用される。


 それでも――互いに何をするかは、分かっている。

 言葉にしないだけで、線だけが引かれている。



 風が止んだ。


 雪が重く、垂直に落ち始める。

 横に流れない雪は、音を吸う。

 音を吸う雪は、刃の音を遅らせる。

 遅れた音は、初動を遅らせる。

 初動が遅れれば死ぬ。



 ヴォロの身体が先に動いた。


 踏み込みは短い。短い踏み込みは距離を詰めない。

 距離を詰めないのは、相手に「届く距離」を誤認させるためだ。

 誤認した相手は、前に出る。


 ――来る。



 岩陰から三つの影が飛び出した。


 影は「整って」いた。

 散発ではない。狙いがある影だ。

 狙いがあるなら、狙いの対象がある。

 対象は荷ではない。

 荷なら、もっと後ろに回る。護衛なら、もっと前に出る。



 ヴォロは、あえて雪の深い場所へ足を突っ込んだ。

 わざと沈む。

 わざと姿勢を崩す。

 崩れた姿勢は弱い。弱く見える姿勢は、刃を呼ぶ。

 刃が呼ばれれば、刃の線が見える。



 一人目が食いついた。

 短剣を突き出す。

 突き出しが早い。

 早い突き出しは、狙いが浅い。

 浅い狙いは「止め」だ。


 殺しではない。

 殺しではないのに刃が来るなら、狙いは別にある。



「浅い!」



 ヴォロの声が落ちる。

 怒鳴りではない。

 合図だ。



 その瞬間、グレイの剣が横から割り込んだ。


 計算通り。


 ヴォロが餌になり、グレイが刈る。


 だが、刈る、の線が一瞬だけ歪んだ。



 グレイの足元で、凍った泥が崩れた。


 崩れた、と言っても大げさではない。

 雪の下の泥が、薄く凍り、薄い氷になり、それが体重で割れた。

 割れた瞬間、足裏の接地が一拍だけ浮く。

  浮いた足裏は重心を失う。

 重心を失ったまま振る剣は、軌道がずれる。

 ずれる距離は数センチ。

 数センチは、人を殺す。



 グレイの剣先が、数センチ右に逸れた。

 殺さないはずの刃が、襲撃者の喉元へ深く吸い込まれそうになる。


 ヴォロは、その瞬間を「見る」より先に「聞いた」。


 革紐が鳴る。

 肩が鳴る。

 腕が、剣の重みを受け止めきれずに軋む音。

 音は、刃が意図を越えた証拠だ。



「グレイ、引け!」



 ヴォロが叫ぶ。

 叫ぶのは嫌いだ。

 叫べば場が割れる。

 

 だが今は割っていい。

 割らなければ、喉が割れる。


 ここで殺せば、報復の連鎖が始まる。

 任務は失敗に終わる。

 失敗は紙に残る。

 紙に残る失敗は、港まで戻る。

 港まで戻る失敗は、夜を呼ぶ。



 グレイは強引に手首を返した。

 返す、ではなく、ねじった。

 ねじった瞬間、肩の関節が悲鳴を上げる音が聞こえた。

 刃は敵の肩を叩くに留まり、肉を裂く鈍い音が雪原に響く。

 喉ではない。


 致命ではない。

 だが、肩は痛む。

 痛む肩は剣を鈍らせる。



 襲撃者が呻く。

 呻きは、引く合図になる。



 その隙を、四人目が逃さなかった。

 雪の中から、もう一つの影がヴォロの背後に肉薄する。


 ――やはり。


 三人は囮。

 四人目が本命。

 狙いは荷ではない。

 護衛でもない。

 

 判断役だ。



 (狙いは、荷じゃない。俺か)



 現場の判断役を削り、この場を制御不能の殺し合いに引きずり込む意志。

 殺し合いになれば「整える」は崩れる。

 崩れた現場は、監査の紙では守れない。

 守れない現場は、港の拳が守る。

 拳が守る現場では、人は消える。



 ヴォロは剣を抜かなかった。

 抜けば反射で相手を殺してしまう。

 殺せば線が折れる。線が折れれば次がない。次がなければ、紙が死ぬ。

 

 代わりに、彼は自分の全体重を乗せて、足元の雪層を踏み抜いた。


 踏み抜く場所は選んでいた。

 さっきから雪面の「滑らかな縁」を見ていたのは、空洞の位置を探していたからだ。

 空洞は、踏めば潰れる。潰れれば足が沈む。



「がっ……!?」



 雪の下に隠れていた空洞が潰れ、襲撃者の足が膝まで埋まる。埋

 まった足は抜けない。

 抜けない足は、刃の線を失い、線を失った刃は、ただの金属だ。



 ヴォロは、硬く凍った手袋のまま拳を叩き込んだ。


 顎ではない。

 顎を打てば倒れる。

 倒れれば死ぬことがある。

 鼻骨を狙う。鼻骨は砕ける。

 砕ければ呼吸が乱れる。

 呼吸が乱れれば判断が鈍る。鈍った相手は「引く」しかなくなる。


 骨が砕ける感触が、拳を通じて脳まで伝わった。

 痛みはない。

 寒さで感覚が薄い。

 薄い感覚は、逆に怖い。

 痛みがないから力加減を誤る。

 誤れば殺す。


 ヴォロは力を止めた。

 止めるのも初動だ。



「引け」



 声は低い。

 だが戦場の雑音を圧す。

 圧す声は、港の番頭の声に似ていた。



「次は、抜くぞ」



 言い方は嘘を含まない。

 抜く、は抜く。

 殺す、とは言っていない。


 だが相手は勝手に「殺される」と読んで引く。

 読ませれば勝ちだ。



 沈黙が戻る。


 雪は重く落ち続ける。

 重い雪は血を隠す。

 血が隠れれば、死の形も隠れる。

 襲撃者たちは、倒れた仲間を抱え、這うようにして白濁した森の中へ消えていった。


 逃げる背中は、追う背中を誘う。

 だが追えば線を越える。

 越えれば負ける。負ければこの二次任務は「整え損ね」になる。


 ヴォロは追わない。

 グレイも追わない。

 

追えないのではない。追うと負けると知っている。



「……殺しちまうところだった」



 グレイが肩を回しながら、苦い唾を吐いた。

 唾はすぐ凍る。体温が落ちている証拠だ。


 彼の腕は、無理な転換のせいで小刻みに震えている。

 震えは寒さだけではない。

 制御しきれなかった自分への怒りが混じっている。



 ヴォロは、グレイの足元を見た。

 泥氷の割れ方。

 割れた場所。沈んだ深さ。足の向き。

 重心の移動。

 事故ではない。


 地形だ。

 地形は敵だ。

 敵は殺せない。



「俺を狙いに来ていた。予定より、あちらの『値札』が上がっているらしい」



 ヴォロは淡々と言った。

 淡々と言うことで、言葉を刃にしない。

 刃にすると、次が切れる。



「お前を殺せば、北の物流が止まるからな。……厄介な位置に立ちやがって」



 グレイの声は雑だ。

 だが雑な声ほど本音が混じる。

 厄介、は嫌味ではない。

 

厄介、は評価だ。



 ヴォロは答えない。

 答えると軽くなる。軽くなった言葉は、

 北で風に攫われる。


 代わりに、懐から茶色い紙を取り出した。

 紙は濡れると死ぬ。

 だから内側に入れている。

 だが内側に入れた紙は体温で湿る。

 湿った紙は折れやすい。

 折れやすい紙は弱点だ。


 指先が寒さで痺れ、紙を支えるだけで力が要った。

 折らない。

 だが広げすぎても破ける。

 破ければ、控えが要る。

 控えは、余計に狙われる。



 ヴォロは短く書いた。


 〈襲撃成立せず〉

 〈撤退基準遵守〉



 そこまで書いて、手を止めた。

 この先を書けば、紙は強くなる。だが強くなった紙は、より狙われる。


 ――自分の名前を狙う、あの執拗な殺意。

 ――「判断役」を落とすためだけの四人目。


 それを「記録」として残すべきか。

 あるいは胸だけに沈めるべきか。


 胸に沈めれば、紙は軽い。軽い紙は奪われにくい。

 だが軽い紙は、使えない。

 使えない紙は、守りにならない。

 書けば、守りになる。

 だが守りになる紙は、刃を呼ぶ。



 ヴォロは鉛筆を持ったまま、呼吸を一つ分だけ遅くした。

 遅くすると、周囲の音が戻る。

 雪が落ちる音。

 遠い鳥の声。


 グレイの呼吸。肩の痛みを堪える息。



「ヴォロ。次は、俺も抜くぞ」



 グレイが、初めてヴォロの目を見て言った。

 それはプロとしての確認ではない。

 泥を噛み、死にかけた人間としての、剥き出しの言葉だった。



 ヴォロは一拍だけ遅れた。

 遅れたのは迷いではない。

 言葉を選ぶ時間だ。

 言葉は選ばないと刃になる。



「……ああ。そのときは、俺が先に折れる」



 折れる、は負ける意味ではない。

 先に折れる、は“折れる前提で折れない線を作る”という意味だ。

 

 グレイは、それを理解したように息を吐いた。笑わない。

 笑うと軽くなる。



 二人は並ばない。

 並べば型になる。

 型になれば、敵が増える。

 だが、互いの体温だけが、凍てつく雪の中で唯一の現実だった。

 言葉ではなく、現実。



 遠くで海鳥が鳴いた。

 港の潮騒とは違う。

 飢えた鳥の声だ。

 北の鳥は、誰も慰めない。

 ただ鳴く。鳴

 いて、また沈黙する。



 ヴォロは紙を畳まないまま、懐へ戻した。

 折り目を付けない。折り目は弱点になる。

 弱点は、刃の入口だ。



 歩き出す前に、ヴォロはもう一度だけ雪面を見た。


 四人目が潜んでいた場所。

 空洞。

 踏み抜いた跡。

 逃げた線。


 線はまだ残っている。残っている線は、次に繋がる。


 この次は、今日より雪が重くなる。

 雪が重くなれば、音が変わる場所が増える。

 増えた場所は、敵の場になる。

 敵の場になれば、こちらの「整える」は難しくなる。



 ヴォロは、胸の中でだけ結論を置いた。


 ――狙いは荷ではない。

 ――護衛でもない。

 ――判断役だ。


 ――そして、判断役を守るには、前に立つ剣が要る。


 ――前に立つ剣を守るには、折れない戻りが要る。



 言葉にしない。

 言葉にすると、契約になる。

 契約になると、次に折れる。



 ヴォロとグレイは、同じ方向へ歩き出した。

 並ばない。

 だが、距離だけが揃う。

 揃いすぎない距離。刃が届かない距離。

 声が届く距離。


 その中間。



 雪は重く、静かに降り続ける。

 静かな雪は、音を隠す。

 音が隠れる場所では、刃はいつも先に動く。


 だから――


 次も、刃が動く前に動かなければならない。

 ヴォロは息を細くして歩いた。

 細い息のまま、港の太鼓の拍を胸の奥で数えた。

 一、二、三。

 確認の拍。退却ではない。

 だが、今日の拍も、まだ終わらない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ