第2話 止まったあと
殴られた頬は、夜になってから痛んだ。
昼のあいだは熱だけで、痛みは遅れて来る。
ヴォロは家の裏で、桶の水を汲んでいた。
塩の道から一段下がった場所にある、土壁と板張りの小屋だ。
父の家ではない。
正確に言えば、「父が死んだあとに、母が借りた家」だった。
父の名を、ヴォロはあまり覚えていない。
顔も、声も、輪郭が曖昧だ。
覚えているのは、背中だけ。
荷を担いで坂を上る背中と、夜、塩の粉を払ってから布を畳む手つき。
父は、塩を運ぶ男だった。
父は、道で死んだ。
事故だと言われた。
車輪に巻き込まれたのか、荷に潰されたのか、詳しい話は誰もしなかった。
帳簿には「死者一」と書かれ、数日後には「処理済み」になった。
母は何も言わなかった。
言っても変わらないことを、知っていたからだ。
母は生きていた。
それだけで、十分な理由だった。
ヴォロは桶を運び、小屋の中へ入った。
中は暗い。
窓は小さく、昼でも灯りがいる。
母は、布を縫っていた。
港へ出す麻袋の補修だ。
仕事は細かく、金は少ない。
だが、続く。
「……どうしたの」
母は針を止めずに言った。
視線は布の目を追っている。
子どもの顔を一々見ない。
見れば、聞かなければならなくなる。
ヴォロは桶を置き、答えなかった。
答える言葉がないわけではない。
殴られた。
道に立った。
揉め事が止まった。
だが、そのどれもが、母にとっては危険な情報だ。
母は、少しだけ手を止めた。
針先が空中で揺れ、布に戻らない。
その間に、ヴォロの頬を見る。
赤い。
腫れている。
切れた口の端は、もう固まっている。
母は溜息をついた。
溜息は怒りでも嘆きでもない。
計算の音だ。
「……道?」
短い問い。
ヴォロは、小さく頷いた。
母はそれ以上聞かなかった。
「誰に殴られた」
「なぜ出た」
そういう問いは、役に立たない。
答えが出ても、変えられない。
「水、かぶりなさい」
それだけ言って、縫い物を再開する。
布の擦れる音が戻る。
日常の音だ。
ヴォロは桶の水で顔を洗った。
冷たい。
腫れた頬に水が触れ、遅れて痛みがはっきりする。
歯を食いしばる。
声は出さない。
声を出すと、母が手を止める。
止めさせる必要はない。
その夜、母は夕餉を作った。
麦粥に、少しの野菜。
塩は控えめだ。
塩は売るものだからだ。
ヴォロは黙って食べた。
噛むたびに、頬が痛む。
痛みは、食事の速度を遅くする。
遅く食べると、満腹になる前に皿が空く。
それでも、残さない。
「……明日から、道に近づかないで」
母は、食器を片付けながら言った。
命令ではない。
願いに近い。
ヴォロは返事をしなかった。
返事をすると、約束になる。
約束は、破ると責められる。
守ると、次が来る。
母はそれ以上言わなかった。
言えば、息子を縛る。
縛れば、いずれ切れる。
夜、ヴォロは布の上に横になった。
父の使っていた布だ。
塩の匂いが、まだ残っている。
その匂いは、眠りを浅くする。
目を閉じると、昼の道が浮かぶ。
二台の荷車。
止まった流れ。
殴られる感触。
そして、止まったあと。
止まったあと、何が起きたか。
荷車は動いた。
男たちは仕事に戻った。
誰も、殴ったことを話題にしなかった。
誰も、殴られた子どもの名を呼ばなかった。
それが、少しだけ不思議だった。
翌日、ヴォロは母に言われて倉庫へ行った。
塩袋の修繕を手伝うためだ。
子どもでもできる仕事。
針に糸を通し、裂け目を縫う。
倉庫には、大人が多い。
声は低く、荒い。
だが、昨日の話は出なかった。
番頭が通り過ぎる。
昨日、道で見た男だ。
ヴォロの肩に視線を落とし、すぐ外す。
確かめるでも、探るでもない。
ただ、見て、数えて、終わりだ。
それだけ。
「……あの子だろ」
誰かが小声で言った。
別の誰かが答える。
「知らん。餓鬼は餓鬼だ」
それで終わる。
名は出ない。
名が出なければ、話は広がらない。
ヴォロは縫いながら、考えた。
なぜ、誰も覚えていないのか。
殴ったのに。
止まったのに。
答えは単純だった。
止まったからだ。
争いが続いていれば、原因が探される。
原因には、名前が付く。
名前が付けば、責任になる。
だが、止まった。
止まって、流れが戻った。
戻った流れの中では、止まった瞬間は邪魔だ。
邪魔なものは、覚えない。
その夜、母は父の話をした。
珍しいことだった。
「……あの人もね、前に出る人だった」
針を持つ手が、少し止まる。
「誰かが揉めると、間に入った。止めようとした」
ヴォロは黙って聞いた。
口を挟まない。
挟めば、話が続く。
続けば、重くなる。
「正しいと思ってたわけじゃないと思う。……ただ、見ていられなかったんでしょう」
母は、それ以上言わなかった。
父の死と、その性格を結びつけることを、避けた。
ヴォロは布の上で、天井を見た。
天井の染みは、昨日と同じ形をしている。
変わらないものは、安心だ。
彼は考えた。
前に立ったから、殴られた。
前に立ったから、止まった。
止まったから、誰も覚えていない。
覚えられないことは、悪いことではない。
少なくとも、この道では。
翌朝、ヴォロはまた道の近くへ行った。
近づかない、と約束はしていない。
母も、それを知っている。
道の端。
真ん中には立たない。
だが、逃げ場と、止まる位置を、目で追う。
殴られた頬は、もう色が変わっていた。
紫と黄色が混ざり、目立たない。
目立たない傷は、放っておかれる。
ヴォロは、自分の年を数えた。
九つ。
来年には、十になる。
十になれば、もう子どもではないと言われる。
殴られても、「餓鬼だから」は通じなくなる。
そのとき、自分はどこに立つのか。
道の真ん中か。
端か。
それとも、数える側か。
答えは、まだ出ない。
だが、一つだけ、確かなことがあった。
止めたあとの世界は、止めた者を必要としない。
だから、名前は残らない。
残らない方が、この道は回る。
ヴォロは、その理屈を、ゆっくりと胸の奥に沈めた。
その背で、母の声がした。
「……怪我、洗った?」
振り返らず、ヴォロは小さく頷いた。
母はそれ以上、何も言わなかった。




