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第10話|消える家


 港の朝は、いつも通りに始まった。

 潮の匂い。

 縄の湿り。

 木箱が板を擦る音。

 いつも通りなのに、ヴォロの息だけが少し浅い。

 理由は昨夜の言葉だ。

 ――呼ばれない仕事は、もっと高くなる。

 ――高くなるほど、紙が欲しい人が増える。

 紙が欲しい人は、紙のために動く。

 動く人間は、いつも夜に来る。



 ヴォロは港へ向かう前に、家の裏へ回った。

 土壁の小屋。板張りの扉。隙間風。

 貧しさの匂いは、潮より乾いている。



 母の湯桶が、まだ温かい。

 昨夜、帰ってきたまま眠ったのだろう。

 指先が赤いまま、布を揉むようにして眠ったのだろう。



 ヴォロは扉を開けず、息だけを入れた。

 家の中の匂いを数える。



 石鹸。

 濡れ布。

 疲れ。

 そして――鉄。



 鉄の匂いは、港の鉄とは違う。

 錆ではない。

 血の鉄だ。



 ヴォロの背中が、冷える。



 扉を押す。

 軋む音が小さい。

 いつもはもっと鳴く。

 鳴かないということは、昨日誰かが油を差したということだ。

 誰かが、家に入っている。



 母は布の上に倒れていた。

 倒れているのに、乱れていない。

 髪はほどけていない。

 腕も変な角度ではない。

 ただ、胸が動いていない。



 床の板に、細い跡が一本ある。

 引きずった跡ではない。

 “置き直した”跡だ。



 ヴォロは母の頬に触れない。

 触れれば、体温が指に残る。

 残れば、忘れられない。



 代わりに、母の口元を見る。

 唇が少しだけ開いている。

 苦しみの形ではない。

 呼ぼうとして、呼べなかった形。



 部屋の隅に、桶が倒れている。

 水ではなく、湯。

 湯気がまだ薄く残っている。

 倒れたのが、今朝だ。



 ヴォロは息を細くした。

 細くすると、心臓の音がうるさくなる。

 うるささを消すために、さらに細くする。



 外から足音。

 二人。

 板を踏む重さが違う。

 港の男と、町の男。



 扉が叩かれた。

 叩き方が軽い。

 軽い叩き方は、慣れている叩き方だ。



「……開けろ。巡回だ」



 巡回。

 港で“巡回”と言うときは、荷の巡回ではない。

 人の巡回だ。



 ヴォロは扉を開けた。

 立っていたのは、港の顔をした男と、腕章のない細身の男だった。



 細身の男の靴は乾いている。

 港の土を踏んでいない靴だ。



 港の男が、室内を覗き込み、すぐ目を逸らした。

 目を逸らすのは、見てはいけないからではない。

 見たことにしたくないからだ。



 細身の男が言った。



「……母親か」



 言い方が淡々としている。

 悲しみの余地を残さない言い方だ。



 ヴォロは頷いた。

 頷く角度は浅く。

 深い頷きは、従属が残る。



 港の男が咳払いをして、言う。



「事故だ。倒れただけだろ。……湯桶がある」



 事故。

 倒れた。

 湯桶。

 説明が早すぎる。

 早すぎる説明は、作られた説明だ。



 ヴォロは床の細い跡を見た。

 男たちの靴が、その跡を踏まない位置に立っている。

 踏まないということは、知っているということだ。



 細身の男が、ヴォロの袋を見た。



「……紙を持ってるな」



 問いではない。

 確認だ。



 ヴォロは袋を握り直した。

 握り直すのは、守るためだ。

 奪われないためではない。

 奪われるなら、守る方法を変えるためだ。



「ギルドの仮登録証」



 真実だけを言う。

 嘘は足場を崩す。



 細身の男が、口の端だけを動かした。



「港の子が、紙を持つ。……目が利くんだってな」



 昨日の殴り。

 外縁の報告。

 紙の提出。

 繋がっている。



 港の男が、わざと乱暴に言った。



「働けるな。母親がいなくなったなら、余計にだ」



 それは現実だ。

 現実は港で一番鈍い刃だ。



 細身の男が、部屋の中へ一歩入った。

 床の跡を避ける足運びで。



「家の“借り”は、残る。

 母親の借りだ。

 だが今からは、お前の借りだ」



 借り。

 誰に。

 何を。

 言わない。

 言わないことで、借りは大きくなる。



 ヴォロは答えない。

 答えると、契約になる。



 細身の男が言う。



「葬いは、港のやり方でやる。

 金は……まあ、出ない」



 出ない。

 それで話は終わる。



 港の男が扉の外へ顎をしゃくった。



「……お前は倉庫に来い。今日から寝床も変える。

 ここは、空ける」



 空ける。

 家が消える。

 帳簿の上で、母が消えたように。



 ヴォロは母を見る。

 目を逸らさない。

 逸らすと、後で顔が残る。

 顔が残ると、声が残る。

 声が残ると、呼んでしまう。

 呼ぶと、立ち止まる。

 立ち止まると、港は殴る。

 殴られるより、消される方が怖い。



 ヴォロは母の布の端を一度だけ整えた。

 整えるのは、乱れを嫌うからだ。

 乱れは“処理”される。

 それが、港の優しさだ。



 外へ出ると、空が低かった。

 雲が重い。

 潮の匂いが濃い。



 港の男が歩き出す。

 細身の男が後ろにつく。



 ヴォロはその間に入らない。

 半歩、横。

 位置を取る。

 殴られない位置。

 刃が届かない位置。

 紙が奪われない位置。



 倉庫へ向かう道で、細身の男が小声で言った。



「外縁で、罠を見たな」



 ヴォロは頷く。



「見た」



「余計な紙を出した」



 余計。

 誰にとって余計か。



 ヴォロは言葉を削る。



「必要だった」



「必要なのは、港の都合じゃない」



 細身の男は笑わない。

 笑わないまま、言う。



「港の外の都合だ。

 その都合が動き始めた。

 ……お前の母親は、巻き込まれた」



 巻き込まれた。

 それは“事故”の言い換えだ。

 事故の言い換えは、誰も責任を取らない言い方だ。



 ヴォロの胸が少しだけ痛む。

 痛みは声にしない。

 声にすると、誰かが“慰める役”を演じる。

 演じられた慰めは、後で奪いに変わる。



 倉庫に着くと、番頭がいた。

 あの道で、揉め事を止めた番頭だ。

 肩幅。掌の硬さ。

 目は状況を数える目。



 番頭は母の話をしない。

 ヴォロの顔を見て、言う。



「働けるか」



 それだけ。



 ヴォロは頷く。



「働ける」



 番頭は、倉庫の奥にある小部屋を指した。

 板で仕切っただけの場所。

 布と藁。

 寝床と言うには薄いが、港では十分だ。



「今日からここだ。

 荷の下に潜るな。

 夜に出るな。

 紙は――持つなら、持ち方を覚えろ」



 最後の言葉だけが、少しだけ重い。



 ヴォロは袋の板を握り直した。

 仮登録証。

 支部の控え。

 外縁の記録。

 それらは守りにもなるが、狙いにもなる。



 番頭が言った。



「……お前、ギルドへ行ったな」



 ヴォロは頷く。

 隠す意味がない。

 隠した瞬間、嘘が増える。



「仮だ」



「仮でも紙だ。紙は値が付く」



 番頭は短く言い、荷の方へ視線を戻す。



「値が付く紙は、奪われる。

 奪われる前に、使い方を覚えろ」



 港の言葉に、ギルドの影が混ざる。



 夕方。

 母の葬いは、早かった。

 早い葬いは、悲しむ時間を残さない。

 残さないのが港のやり方だ。



 残すと、手が止まる。

 手が止まると、荷が止まる。

 荷が止まると、誰かの取り分が止まる。

 取り分が止まると、殴り合いになる。

 だから、早い。



 布で包まれた母は、倉庫の裏を通って運ばれた。

 表を通らない。

 表を通ると、誰かが“見たこと”になる。

 見たことになれば、話が残る。

 話が残れば、責任が生まれる。

 責任は、弱い方へ落ちる。



 ヴォロは母の布の端だけを見る。

 端は揃っている。

 揃っている端は、処理の印だ。



 火は上がらない。

 港では火は金だ。

 金を燃やす余裕はない。

 代わりに、海へ返す。

 父が消えた海へ。



 ヴォロは海を見ない。

 見れば、父の背中が浮かぶ。

 浮かべたら、次に自分が落ちる。



 夜。

 倉庫の小部屋で、ヴォロは紙を取り出した。

 板。

 白い仮登録証。

 控え。



 紙の角を揃える。

 揃える動作は、心を整える動作に似ている。

 似ているが、同じではない。

 心は整わない。



 整わない心は、音を出す。

 音は港で拾われる。

 拾われる前に、息を細くする。



 ヴォロは茶色い紙を一枚抜いた。

 罫線のない紙。

 自分のための紙。



 書く。

 短く。

 要点だけ。



 〈母:倒〉

 〈扉:油〉

 〈床:置跡〉

 〈来訪:二〉

 〈説明:事故(早)〉

 〈外縁:罠(数取)〉



 書いた瞬間、胸が少しだけ楽になる。

 楽になるのが怖い。

 楽になると、次から“書かなければ”落ち着かなくなる。

 依存は弱点だ。



 外で足音。

 倉庫の外。

 巡回の足音。

 一定の拍。



 ヴォロは紙を板で挟み、枕の下へ入れた。

 曲がらない。

 濡れない。

 だが、奪われる可能性は残る。



 だから、位置を取る。

 藁の上で身体を横にし、

 扉が開いたら最初に見える位置から半歩ずらす。



 暗殺は、刃だけで成立しない。

 位置と初動で成立する。

 成立させなければいい。

 成立した瞬間に詰ませればいい。



 ヴォロは目を閉じた。

 母は、もう戻らない。

 それは数字と同じだ。

 戻らないものは、数えるしかない。



 だが数えるだけでは、港は守ってくれない。

 港は回るだけだ。



 回る港の中で、ヴォロは初めて、

 “自分の外側にある線”を見た。



 その線は、境の縄ではない。

 帳簿の線でもない。

 ギルドの印でもない。



 ――誰が、どこで、誰を消すか。

 その線だ。



 その線の上に、母は置かれた。

 置かれて、動かなくなった。



 ヴォロは息を細くし、胸の中でだけ決める。



 (次は、置かれない)

 (置かれそうになったら、最初から位置をずらす)

 (そして――紙で、相手を詰ませる)



 港の太鼓が鳴る。

 一、二、三。

 確認の拍。

 退却ではない。



 だがヴォロにとっては、退却だった。

 家から、母から、子どもから。

 戻れない場所から、

 戻れる形だけを残すための音だった。

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