第1話 道の真ん中
塩の匂いは、先に来る。
人の声より先に。怒鳴り声より先に。
朝の風に混ざって、喉の奥をざらつかせる。
道は一本だった。
山の陰から始まり、畑を抜け、港へ落ちていく。
その道を、荷車が通る。
塩の袋が積まれ、麻縄で縛られ、木の車輪がきしむ。
袋は白くない。
白いのは中身だけだ。外は土と汗で灰色に汚れている。
運び手の掌には、いつも同じ粉が残る。
指の節に、白い筋が溜まる。
ヴォロは、その筋を見て育った。
まだ背が低い頃の話だ。
ヴォロは、道端の石に腰を掛けて、荷車が通るのを眺めていた。
眺める、というより、数えていた。
車輪の音。縄の結び目。袋の段。
大人は「ぼんやりするな」と言う。
だが、ぼんやりしているように見えるだけだった。
道の上には、目に見えない線がある。
踏んではいけない場所。
立ち止まってはいけない場所。
声を出してはいけない場所。
それを覚えていないと、殴られるのは子どもだ。
その日も、荷車は来た。
前から一台。後ろから一台。
互いに譲る場所がある。
道の脇に少し広い土の逃げがあり、そこへ一台が寄せる。
譲り方は決まっていた。
先に見えた方が止まり、後から来た方が抜ける。
止まった側は、荷の縄を締め直し、車輪を叩き、時間を潰す。
そうすれば、揉めない。
だが、その日は違った。
前の荷車が、逃げに寄らなかった。
寄れなかった、ではない。
寄らない、と決めたように、道の真ん中へ残った。
後ろの荷車は、止まった。
止まったが、逃げに寄る気配がない。
互いに、動かない。
風が止まった。
塩の匂いだけが濃くなる。
木の車輪は、まだきしんでいるのに、進まない。
進まない音は、苛立ちを呼ぶ。
最初に声を上げたのは、前の荷車の男だった。
声は太い。
喉の奥に石があるみたいな声だ。
「こっちは朝から通ってる。どけ」
後ろの男が返す。
「こっちだって通ってる。道はお前のものじゃねえ」
言葉は、道の上に落ちると、すぐ硬くなる。
硬くなった言葉は、拾いにくい。
拾えない言葉は、殴り合いに変わる。
男たちが荷車を離れた。
離れる前に、一瞬だけ周囲を見た。
誰も止めないと、確かめる目だった。
縄を掴み、袋の端を叩き、肩を前に出す。
拳が先に出る姿勢だ。
周囲にいた者が寄ってくる。
寄ってくる、というのは危ない。
数が増えると、止める者がいなくなる。
ヴォロは石から降りた。
足裏の土が冷たい。
道の中央へ向かうときだけ、土の冷たさが強くなる。
そこは、踏まれ続けて固くなった場所だからだ。
誰も止めない。
大人は、子どもを止めない。
子どもが何をするか、見ていない。
見ていないふりをしている者も、混じっている。
男の一人が、相手の胸倉を掴んだ。
布が引き裂ける音。
もう一人の肩が跳ねる。
息が荒くなり、唾が飛ぶ。
その瞬間、ヴォロは道の真ん中に立った。
立っただけだった。
腕も上げない。
声も出さない。
ただ、二人の間に、細い身体を置いた。
世界が一拍遅れる。
誰もが、その一拍で状況を数える。
胸倉を掴んだ手が止まりきれず、ヴォロの肩に当たった。
押された肩が、半歩ずれる。
だが、ヴォロは戻らない。
戻る場所がないからだ。
道の真ん中は、戻れば別の誰かが踏み込む。
踏み込めば、殴り合いが始まる。
誰かが笑った。
「何やってんだ、餓鬼」
笑いは軽い。
だが、軽い笑いほど、後で重くなる。
次の瞬間、拳が来た。
誰の拳か、ヴォロは見なかった。
見れば、相手の顔が残る。
顔が残ると、後で名前に変わる。
名前に変わると、争いは続く。
だから、見ない。
拳は頬を掠め、口の端が切れた。
塩の匂いが、血の匂いに混ざる。
鉄の味がした。
ヴォロの身体は小さく揺れたが、倒れなかった。
「どけ!」
怒鳴り声が落ちる。
ヴォロはどかない。
どけば、次は殴り合いになる。
殴り合いになれば、荷が落ちる。
荷が落ちれば、誰かが責任を押し付けられる。
押し付けられるのは、弱い方だ。
弱い方は、子どもか、よそ者か、貧しい者だ。
ヴォロは、どれでもある。
背中を蹴られた。
土に膝がつきそうになる。
だが、膝をつくと、道が開く。
道が開くと、拳が通る。
ヴォロは、歯を噛んで立ち直った。
石が飛んだ。
小さな石が、肩に当たり、鈍い痛みを残す。
周囲の声が増える。
「やめとけ」
「餓鬼が邪魔だ」
「荷が腐るぞ」
「時間が金だ」
時間が金。
ヴォロはその言葉だけを覚えていた。
時間は金になる。
金は塩になる。
塩は領の血になる。
血の話は、大人が好きだ。
大人は血のためなら殴る。
殴られている間、ヴォロは一つだけ考えていた。
どちらの男が正しいか、ではない。
誰が悪いか、でもない。
ただ、道が割れないようにする。
拳が通らないようにする。
それだけだった。
やがて、誰かが大きい声を出した。
怒鳴り声ではない。
だが、即座の号令でもなかった。
「やめろ!」
声の主は、塩倉庫の番頭だった。
彼は少し離れた場所から、状況を見ていた。
彼は肩幅が広く、掌が硬い。
その掌が、男たちの胸を押し分けた。
番頭は、ヴォロを見た。
初めて、ヴォロを見た。
見た瞬間、眉が一つ動いた。
それだけだった。
哀れみでもない。
褒めでもない。
ただ、状況を数えた目だった。
番頭は男たちに言った。
「逃げに寄せろ。順番だ。道を塞ぐな」
前の男が叫ぶ。
「こいつが——」
番頭は遮った。
「知らん。道は一本だ。一本の道で争えば、荷が止まる。荷が止まれば、誰の金も止まる」
金、という言葉で、男たちの肩が落ちた。
怒りの形が変わる。
拳が、指に戻る。
指は縄を掴む。
縄は荷を守る。
守るものが戻れば、人は殴り合いをやめる。
番頭はヴォロの腕を掴んで、道の端へ引いた。
引き方は乱暴だった。
だが、乱暴な引き方は優しさにも見える。
少なくとも、殴る手ではなかった。
道が空いた。
前の荷車が逃げに寄る。
後ろの荷車が進む。
車輪がきしみ、袋が擦れ、塩の匂いが再び風に溶けた。
流れが戻る。
戻った流れは、何事もなかったように進む。
ヴォロは道端に立った。
唇の血を舌で舐める。鉄の味。
頬が熱い。
背中が痛い。
だが、痛みは数えない。
数えると、顔が残るからだ。
番頭が低い声で言った。
「餓鬼。何で出た」
ヴォロは答えなかった。
答えれば、理由が生まれる。
理由が生まれると、次から“それ”を期待される。
期待は、命を削る。
番頭は、もう一度だけ言った。
「次は、道の端で待て」
命令でも忠告でもなかった。
ただの、処理だった。
ヴォロは小さく頷いた。
頷く角度も覚えた。
深くは頷かない。
深く頷くと、従属が残る。
浅く頷く。
必要だけでいい。
荷車の最後尾が遠ざかる。
塩の匂いが薄くなる。
代わりに土の匂いが戻る。
土の匂いは、落ち着く。
だが、落ち着く匂いは油断を呼ぶ。
ヴォロは、油断しない。
油断すると、次は自分が殴られる側ではなく、殴る側に回されるからだ。
道は静かになった。
静かになったのに、ヴォロの胸の中だけがうるさい。
心臓が、速く打っている。
その音を、誰にも聞かせないように、息を細くした。
前に立った。
止まった。
殴られた。
それだけのことだった。
だがヴォロは、足裏の感触だけは覚えていた。
道の真ん中の土は、少しだけ固い。
踏まれ続けている土だ。
固い土の上に立つと、流れが一瞬遅れる。
遅れた一瞬で、人は考える。
考えた者から、拳を引く。
ヴォロはその一瞬を、身体で覚えた。
誰も褒めない。
誰も謝らない。
荷は港へ向かう。
道は一本のまま。
ヴォロは道端の石に戻り、座った。
頬の熱が冷えるまで、黙って座った。
風が塩の匂いを運び、喉の奥がまたざらつく。
ヴォロは、次からも前に立つとは思わなかった。
思わないようにした。
思えば、理由が生まれる。
理由は、期待を呼ぶ。
期待は、命を削る。
ただ、分かったことが一つある。
前に立つと、流れが止まる。
止まった流れは、また動く。
動けば、誰もそれを覚えていない。
覚えていない方が、この道は回る。
塩の匂いは、今日も先に来た。




