表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

腹の中の蛇

作者: 火田 羊
掲載日:2025/10/21


 陰口を言う人間が、僕は嫌いだ。陰口は自ら性根が腐ってますと主張しているようなものだからだ。そして今まさに、僕の目の前に自分の醜悪さを喧伝している人間がいる。

「本当腹立つんだよ、渡辺のクソ野郎。事故やら何やら小さい案件の検分は嬉々としてこっちに回してくる癖に、大きな事件の検分は頑としてやらせないんだから。俺だって検死官としてもうベテランと言っても差し支えない歴だろう?いい加減てめえの席を空け渡せってんだ。あの堅物はきっと自分の地位を固守する事しか考えてないんだな」

 先輩検死官がつく上司への悪態は、先輩と、僕と、検死台に横たわる中年男しかいない霊安室に虚しく響いた。水色の外科用ガウン姿の先輩は、一向に遺体の検死を始める様子もなく、マスクの裏側は般若のような形相のままだ。

「それに、あの喋り方。ネチネチネチネチ嫌味ばっかり言いやがって。今度あのブサイクな口の中にエタノールでもぶっ込んでうがいでもさせてみるか。そしたらあの喋り方も幾分マシになるんじゃねえの」

 こんなにも吠えているが、先輩は渡辺さんの前では何も言えずにヘラヘラとご機嫌をとることしかできない。僕は呆れたように肩をすくめた。

「エタノールにそういった効能はありませんよ。それに、その人がいないところで悪口を言うのは、なんというか、感心しません」

 先輩は眉間に皺を寄せたまま僕に振り向いた。

「それはお前があいつとまともに話したことがないからそう言えるんだよ」

「それでも、陰口を言うのは間違っていると思います。渡辺さんには、渡辺さんの考えがあってそうしているだけかもしれませんよ。もしかしたら先輩の経験を十二分に積ませるためにやっていることかもしれませんし、嫌味っぽく聴こえるのだって先輩にとって耳の痛くなるようなことを敢えて伝えて、先輩にもっと成長してほしいと思っているのかもしれませんし」

 先輩は僕の顔を見てからため息をついた。

「お前は、本当に人を悪く言わないんだな」

「僕は孟子の性善説を信じていますから」

「人は生まれながらにして善である、か。理想主義者だな」

 先輩の言葉に僕は口を尖らせた。

「そんなことありませんよ、僕らには道徳心や共感力というのが生まれながらにあります。だから人を愛することもできるし、物語に涙することができる。人によってベクトルが違うだけで、みんな心は同じく善なんですよ」

 先輩は鼻で笑った。

「善なんていうのは、俺の感覚からすると後天的なものだよ」

「いや、悪のほうが後天的なのではないですか」

「違うね。もし仮に善性が先天的なんだとしたら、当てもなく彷徨う一匹の蟻を捕まえて触手や脚をちぎってはギャハギャハ笑っているような子供なんているはずないだろう?人間ていうのは元々邪悪な生き物なのさ。そうした邪悪を抱えながら、他人とうまく付き合っていくために作り出されたペルソナ、それが善の正体だと俺は思うね。そういった意味では、むしろ荀子の性悪説の方がしっくりくるな」

 陰口を言う人間というのは、どうしてこうも饒舌で頭の回転が速いのだろう。先輩は間違っている。けれどもどう言い返せばいいのかわからないでいると、先輩はドヤ顔をしている。僕は、苦し紛れにこう言った。

「・・・・・だから先輩は彼女ができないんですよ」

 先輩はドヤ顔のまま反論する。

「お前だっていないだろ」

「僕は明日マッチングアプリで出会った人とデートするんですよ。すみませんね、お先に幸せになっちゃうかもです」

 逆にドヤ顔をしてやると、先輩は先ほどまで浮かべていた勝ち誇ったような笑みを消して、遺体に向き直った。少し言いすぎたかもしれない、と僕は反省した。沈黙。換気扇の音だけが微かに聴こえる。

 先輩は一度深呼吸をしてから、「さて、そろそろ検死を始めるか」と言った。先輩の顔は先刻までとは打って変わってもう検死官のそれだった。僕も気を引き締めて頷く。

 僕たちは遺体に向かって手をあわせてから、僕はボイスレコーダーの電源をオンにし、先輩はゴム手袋を嵌め直して、頭の先から検分を始めた。頭、顔、首、胸部、腹部と、細部まで観察し遺体の状況を僕の持つボイスレコーダーに吹き込んでゆく。

 そしていよいよ内臓の検分を始めようと先輩はメスを握った。そこでふと手を止め、僕に語りかけてきた。

「そういえば、お前知ってるか。人間の腹の中には蛇がいるんだぜ」

 僕は先輩の口から唐突に発せられた意味不明な言動に首を傾げた。

「それは・・・・・何かの比喩ですか?」

 先輩は真っ直ぐ遺体を見つめたまま首を振る。

「いや、リアルな話だよ。老若男女あまねく人間の腹の中には、多種多様な蛇が巣食っているんだ」

 その横顔は検死官としての顔のままだった。束の間の静寂の後、僕は反論した。

「そんなわけ無いでしょ。人間の腹の中に蛇がいるなんて話、聞いたこともありません」

 当然の意見だ、と言わんばかりに先輩は頷く。

「俺も最初はそう思ってたよ、日本の大学では愚か、どの国の研究論文を探したって、そんな記述は見つけられないだろう。けど確かにいるんだよ」

 訝しげな表情の僕を一瞥すると、「まあ見た方が早いか」と先輩は呟いて、慣れた手つきで遺体の腹部をメスで割いた。

 中年男性の腹の中は比較的綺麗なもので、どの臓器も色鮮やかで形も整っていた。先輩は下腹部を指差した。

「ここに蛇がいたんだ」

直腸と小腸のちょうど間、いわゆる丹田に該当するあたりに、握り拳ほどの空間がそこにはあった。先輩は顔を近づけてその空間を弄りながらまじまじと見つめて呟く。

「うーん、少し直腸が茶褐色っぽいな。小腸にV字型っぽい模様がうっすらと見えることから推測すると、おそらくここにはジムグリがいたな」

思わず問いかける。

「ジムグリ?」

「そう、ジムグリ。ナミヘビ科ナメラ属の蛇だよ。平地から低山地の森林や草原、水辺なんかにいる蛇で、特に林床などを好む。地中や石の下に潜ることから地潜ジムグリっていうらしぞ。こいつは朝方とか夕方に活動する蛇で、食性は動物性だ。ということはこの仏さんは、社交性がそこそこあり活動的に見られがちだが、実のところ人付き合いが苦手なインドア派で、自分の好きな事にのみ貪欲さを発揮するタイプだな」

 自信満々に語る先輩に僕は物申す。

「確かに、意味深な空間はありますけど、蛇なんていないじゃ無いですか」

「死んだら、消えるんだよ」

 先輩はまた僕に振り返った。僕にはその目が揶揄いの色を含んでいる様に見えた。

「・・・・・ふざけてます?」

 先輩は僕の言葉に答える事なくまた鼻で笑って検死に戻った。これだから、陰口を言う様な人間は信用ならないんだ。僕は苛立ちを飲み込んで仕事に戻った。


 翌日、僕は上野駅の公園口の前に立っていた。マッチングアプリで意気投合した女性と美術館デートをするためだ。

 土曜の上野は凄まじい人混みだった。あまり喧しい雰囲気が得意ではない僕は、耐えきれずに空を見上げた。雲ひとつない快晴だった。こういった肝心な時はいつも晴れる。これも、善性のなせる技なのかもしれないと僕は得意になった。先輩がここにいたら、きっと雨だったに違いない。

「お待たせしました」

 春風のような声に呼びかけられ、僕は振り向いた。そこには彼女がいた。ブロンドに染められた長髪がサラサラと靡かせながら駆け寄ってきた彼女は、西洋人のように目鼻立ちがくっきりとした人で、写真で見るよりも幾分綺麗だった。

「ぜ、全然大丈夫ですよ」

 緊張のせいで軽く吃りながらも、なんとか自己紹介を済ませ、僕らは早速上野公園へと入っていった。

 彼女はアパレル関係の仕事をしているそうで、白シャツに黒リネンのテーラードジャケット、ジーンズに黒いサングラスといった洒落た格好をしていた。それに引き換え僕はファストブランドのシャツとスラックスという出立ちで、釣り合っていない様な気がして申し訳なくなった。

「そんなこと気にしないですよ。むしろシンプルな格好で来てくれたほうが女性は嬉しかったりするんです」

 彼女はそう微笑みかけてくれた。僕はなんとしても彼女をものにすると決心した。

 僕たちは、上野公園の入り口近くの国立西洋美術館に足を運んだ。その日は残念ながら企画展はやっていなかったので、別のところにするかと尋ねてみると、彼女は国立西洋美術館には来たことがないということだったので、常設展に行く事にした。

 この美術館には、モネをはじめとする印象派の作品や宗教画、風景画、装飾品に、さらにロダンの彫像に至るまで、様々なコレクションが展示されている。どうやら彼女は油彩画に興味があるらしく、そういった絵画の前では都度立ち止まっては感嘆の声を漏らしていた。なんとか楽しい時間にしてあげたいという思いから、僕は彼女が見終わるまでそばで立ち止まりながら、機を見計らって頻繁に小声で話しかけた。聖人画に描かれる竜はちっちゃくて可愛いよねとか、自画像のモデルたちは、長時間同じ体勢でいる間何をその瞳に浮かべていたのかなとか、とりわけロダンの彫刻について多くを語った。


「あなたって、ロダンの彫刻が好きなのね」

 近くの蕎麦屋で昼食をとりながら、彼女が尋ねた。少し打ち解けられたのか、それとも年下だからと安心してなのか、彼女の僕に対する言葉遣いは、少し砕けたものになっていた。

「ええ、そうなんです。彼の人体造形には目を見張るものがあります」

 一度熱が入ると舌が回る僕は、人体の構造やら学術的な観点からの知見を自ずとひけらかしていた。気がつくと、彼女の柔らかく上がった口角は僅かに引き攣っていた。僕は慌てて言葉を切る。

「す、すみませんいっぱい喋っちゃって」

 彼女は安堵したように胸を撫で下ろしてから「いえいえ、大丈夫ですよ」と笑った。

 僕は自分の失態を誤魔化すように蕎麦を啜った。すると彼女が再び尋ねる。

「そんなに人体にお詳しいのは、どうしてなんですか」

 ここだ、と僕は思った。僕は口に含んだ蕎麦をぐいと飲み込むと、胸を張って答えた。

「それは、僕が検死官だからですよ」

 検死官は、ものいえぬ遺体からのメッセージを読み取り、隠された真実を見つけ出す崇高な仕事だ。先輩も、上司の渡辺さんも、父さんも母さんもそう言っていたし、僕自身もそう信じていた。しかし、彼女にとっては違ったようで。

「え、あの死んだ人の身体を調べる仕事ですか」

 彼女は驚いて口をあんぐりと開けた。

「まあ、簡単に言えば、そうなんですけどね」

 僕はヘラヘラ笑いながら答えた。

「お仕事を辞めたいとは思わないんですか」

 彼女は気の毒そうな声で僕に問いかけた。僕にはその質問の意味がわからなかったので、聞き返す。

「え、どういう意味ですか」

「検死官なんて仕事、きっと仕方なくやってるんですよね」

 ますます分からない。

「どうして、そう思うんですか」

 彼女は憐みと怒りが混ざったような口調で答える。

「検死官って、遺族の了承なしに司法解剖するんだよね。それって、ものすごく不道徳じゃない? たとえ亡くなってしまったとしても、その身体は遺族にとってとても大切なものでしょう。それを勝手に弄って調べ終わったらはいどうぞって、とっても無責任だと思うのよ」

 僕は、努めて笑顔を浮かべながら同調する。

「ま、まあ、そう言う意見もあることはそうなんですけどね、けれど決して遺体を弄んでいるわけではないというか、なんというか、ハハハ」

「かわいそうに」

「・・・・え?」

「私、応援してるから。あなたのその人体の知識は死んだ人を調べるためにあるんじゃなくて、生きてる人を救うために使うものだと思うのよ。私、応援してるから」

「ハハハ、あ、ありがとうございます」

 僕はしばらく葱とそばの切れ端が浮かんだ濁ったつゆを眺めていたが、居た堪れなくなって徐にポケットからケータイを取り出した。

「あ、ちょっと待っててください、電話がかかってきたみたいです」

 僕は数分席を外し、戻ってくると彼女にこう告げた。

「すみません、急に仕事が入ってしまったみたいで、もう帰らなくてはいけなくなってしまいました」

 僕は蕎麦屋のお会計を済ませると、残念そうに手を振る彼女を背に上野を後にした。


 その日の夜、僕は地元の小さな公園でブランコに乗っていた。ケータイの画面を見ると、午後七時だった。着信履歴は、今日一日中ない。

 そう、僕は仕事が入ったと嘘をついたのだ。彼女と別れて帰ってきたその足で缶チューハイを数本買い、家で一人あおってから、今こうして錆びたブランコの上に座っている。

 僕がブランコを漕ぐたびに、不快な金属音が鳴る。火照った頬を、冷たい夜風な撫でる。

――――― かわいそうに。

 彼女の声が蘇り、僕は力任せにブランコを漕いだ。何がかわいそうだ。あいつは検死官のことを何も解っちゃいない。検死官がしっかりと遺体を検分することで、救われる人だっているんだ。まんまと逃げおおせようとしている犯人に、正当な裁きを下す手助けをすることだってできる。不当な判決で本来失われなくていい命を、救うことだってできる。遺体だって可能な限り丁重に扱っている。検死官は、あのように中傷されるべき仕事じゃない。少なくとも僕と僕の周りの検死官たちは、誇りを持って職務を全うしている。あんな女にあんなこと言われる筋合いなんてないんだ。

 僕は沸々と湧き上がる苛立ちが抑えきれなくなり、ブランコを止めると立ち上がって叫んだ。

「あのクソ女!何がかわいそうに、だ!くだらない哀れみの言葉なんかかけてきやがって!検死官のなんたるかも知らないくせに、ナマ言ってんじゃねぇっ!」

 僕は思わず自分の口を抑えた。生まれて初めて陰口を吐いた。彼女の前では何も反論できずにあんなにもヘラヘラしてたのに、クソとかナマとか、なんて程度の低い悪態なんだ。

 自分の言動に衝撃を受けていると、不意に急な吐き気が込み上げてきたので、僕は慌てて近くの公衆トイレに駆け込んだ。

 公衆トイレは酷いアンモニア臭だった。吐き気は尚更助長され、僕は洗面所に顔を埋めた。

「オエエッ」

 吐いた感覚はあるのに、吐瀉物は出てこない。胃酸特有のあの酸っぱい味もしない。僕は不思議に思って洗面所の鏡に向かって口をあんぐりと開けてみた。

 鏡に映った光景を目にした時、僕は衝撃のあまり言葉を失った。

 そこには僕の喉の奥から、淡黄色の蛇が頭を出し、暗がりの中から赤い目で僕の顔をじっと見つめていたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ