ツギハギのピースをかき集めて
最初の衝突は、夜だった。
蒸し暑い季節で、開けっぱなしの窓から入り込んだ風がカーテンを揺らしていた。
「もういい」と言ったのはどちらだったか、よく覚えていない。ただ、互いの言葉がだんだん鋭くなっていったことだけは、はっきり覚えている。
彼女の名前が並ぶメッセージ一覧を、無言で指でなぞっていた。ふいに沸き上がる苛立ちと、無意味に跳ね上がったプライド。誰かが見ているわけでもないのに、「消す」ことが自分にとっての勝ちのように錯覚していた。
一瞬の決断で、その履歴は跡形もなく消えた。言葉も、写真も、時間も全部。
その後、何があったわけでもない。
ただ、夜が静かになっただけだった。
ベッドの上で、天井を見つめながらふと思った。
なぜ、あんなことをしたんだろう。
けれど、人は一度壊したものを、簡単に拾い直すことはできない。
「やっぱりまだ好きなんだ」と告げることは、あまりに恥ずかしかった。
二度目の別れは、不意打ちだった。
その日、彼女の知人から連絡が入った。知らない番号だった。
開いたメッセージには、いくつかの言葉が簡潔に並んでいた。
事故だったらしい。ほんの一瞬の不運が、すべてを断ち切った。
信じられなかった。心が空白になって、何も感じなかった。
けれど、日が落ちて、部屋の明かりをつけて、それでも彼女がもういないことに変わりはなくて。
ふとスマホを開いた。
彼女の名前を探した。
けれど、もうどこにもない。
その名前は、あの夜、最初の喧嘩のときに自分で消してしまっていたのだ。
言い訳を並べれば、いくらでも理由はつくれた。
「きっと忘れた方が楽になる」
「どうせ、もう話すこともない」
「過去は過去でしかない」
でもそのどれもが、自分を守るための言葉でしかなかった。
本当は、忘れたかったわけじゃない。
記憶の中に押し込めておきたかっただけだ。
けれど自分は、「忘れるふり」を本当にしてしまった。
削除という行為で、手放してしまった。
もう一度、彼女の声が聞きたいと思った。
いつもの少し高めの声、話している途中に笑ってしまうクセ。
何かを説明しようとするときに、身振り手振りが大きくなるところ。
全部、全部、忘れたくなかった。
それなのに、思い出せない。
何を話していたのか、どんな言葉をかけてもらっていたのか、あのときどんなふうに笑っていたのか、スマホの画面にはもう何も残っていなかった。
自分の手で、すべてを消してしまったのだから。
部屋の中は静かだった。
街の音も、誰かの足音も、まるでどこか遠くの出来事のようだった。
深夜、枕元で光るスマホを見つめながら、何度もホーム画面をスライドした。
もう現れることのない通知。もう戻らない日々。
記憶をたどろうとするたびに、自分の手で壊した証拠が胸に突き刺さる。
消したことで楽になると思っていた。
何も残さなければ、前を向けると思っていた。
けれど本当に消えた今、残ったのは後悔だけだった。
取り返したい。
消さなければよかったと何度も思う。
けれどそれを言える相手は、もうこの世界にはいない。
生きていれば、やり直すチャンスはある。
でも、亡くなってしまった人に対しては、後悔することしかできない。
どれだけ泣いても、祈っても、叫んでも、伝える手段がない。
あの時の言葉を、もう一度だけ送れたなら。
「ごめんね」と、たったそれだけの一言を。
たぶん、彼女は笑ってこう言ったのだろう。
「もう、気にしてないよ」って。
だけどそれは、もう叶わない願いだった。
だからせめて、これから誰かを失いそうになったとき、自分の手で壊すようなことは二度としないと、心に誓うしかなかった。
彼女のことを、忘れないために。
そして、自分がどれだけ愚かだったかを、一生刻むために。