第97章 南蛮貿易をわが手に
(1569年 七月) 堺
ポルトガル人たちの陽気な声が遠ざかり、屋敷に静けさが戻る。
屏風越しに潮騒が低く響く中、今井宗久が湯を注ぐ。茶の香がふわりと立ちのぼった。
「さて――殿のお目当ては、やはりあの“作物と知恵”でございますか」
秀吉は湯呑を受け、ひと口啜る。
「よくわかっとる。・・鉄や硝石は金でどうにかなる。じゃがいも、トマト、とうもろこし――あれは金
では買えん。奴らは売り物とすら思っとらんからな」
宗久が口元をわずかに緩める。
「なるほど・・“石ころ”ですな」
「そうじゃ。ただの石ころが兵を生み、町を育てる。火薬で戦が変わるなら、作物で国が変わる」
「そして、航海術・・」
宗久の表情が少し曇る。
「正直申せば、あれは・・殿のお手には余る“毒”かと」
秀吉は茶碗を置き、正面を見据えた。
「毒を持つには、まず”器”が要る。器なき者が火薬を持てば町が焼ける。だが器があれば、戦を防げる」
宗久は沈黙ののち、湯を継ぎ足す。
「・・織田様は、その器をお持ちと?」
「信長様は“形を壊す器”をお持ちだ。わしは、その“後を整える器”を持たねばならん」
宗久はゆっくりうなずく。
「・・その道の先に、どれほどの嵐が待つか、見当もつきませぬぞ」
「嵐が来るなら、帆を降ろせばよい」
秀吉の口調は淡々としていた。
宗久が目を細める。
「・・なるほど。“進む時”と“止まる時”を見極める。それが、風を掴む者の心得・・」
「堺が風を読むなら、わしは動く時を決める。商いも戦も、それは同じじゃ」
宗久は静かに笑みを浮かべた。
「ならば、羽柴様――堺もまた、帆を張る覚悟をいたしましょう」
秀吉は笑い、声を低める。
「このまま堺を“南蛮の窓口”として残してやる。この町の顔を、わしは壊さん。ただし――東の交易は堺
から桑名、西は堺から西へ。南蛮人にはそう誘導せい」
宗久の表情が固まる。
「・・つまり、堺を“中継地”として固定せよと?」
「そうじゃ。おぬしらは入口、わしらは道を作る。東も西も堺を通せば秩序は保たれる」
一拍置いて、低く言い放つ。
「――協力はする。ただし、裏切るな」
宗久は深く頭を下げた。
「心得ました。堺は、“織田の風”を読み続けましょう」
秀吉は安堵の笑みを見せた。
「それでよい。堺には“商いの才”がある。戦わずに国を動かせる――そういう見本にしてやる」
宗久もまた、静かに茶を啜る。
「・・では、堺も“天下人の器”の一部とさせていただきます」
秀吉は立ち上がり、港の方へと歩み出る。
「それとな――また良き品を考案中じゃ。楽しみにしておけ。」
「置いていかれたくなけりゃ、せいぜい学べ。」
宗久が吹き出した。
「まこと、天下を取るお方は、いつの間にか”教える側”に回るものですな」
秀吉は軽く手を振り、笑った。
「そういうのを――掌の上で転がすって言うんじゃ、とどこかで聞いたわ」
宗久は、誠に知りたかったことを胸の奥に押し込め、秀吉を見送った。
(南蛮人ですら知らぬことを・・いったい、どこで知ったのか)
だが、商人の嗅覚が――口を閉ざせと告げていた。
夜の堺に、南蛮船の帆が潮風を受け、静かに揺れていた。




