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第94章 影の裂け目

(1569年 二月)岐阜城


岐阜城――雪の名残が石垣の隅に白く残り、春の陽がわずかにその輪郭を崩し始めていた。


信長は書院の奥で一通の書状を手にしていた。


足利義昭からのもので、口調こそ丁重ながら、その行間には露骨な不満と圧力がにじんでいる。


「近頃、公方の威信を軽んずる風聞、まことに遺憾に存じ候。諸国の動揺を抑えるべく、そなたには今一


度、忠誠の姿を明示して頂きたく――」


信長はその文を黙って火鉢に落とした。


「忠誠、・・誰に、何の?」


炎が舌を伸ばし、紙を呑み込む。信長の横顔には苛立ちでも憂いでもない、冷えた諦観の色があった。


そこには、旧き権威を嘲る光すら混じっていた。


傍らの丹羽長秀が、慎重に口を開く。


「・・公方様、近頃は毛利や本願寺との書簡往来があるとの風聞もございます」


信長はふっと笑みを漏らす。


「守護代の末が、京の権門どもを震わせるか・・・良き時代になったものよ」


その声音は軽やかだが、言葉の底には、時代を見限った者の冷えた覚悟があった。


「――もはや、上様に『天下の御意』を託す気など毛頭ない。あの御方は“秩序の器”にはなれぬ。いや、


なる気もなかろう」


しばしの沈黙。やがて信長は立ち上がり、障子を開け放つ。冷たい風が書院に流れ込む。


「世は変わる。だが、上様も、京の公家も、仏の山も・・皆、己の椅子を守ることしか考えておらぬ」


金華山の山肌を見据え、低く続ける。


「ならば、あれらを一つずつ消していくしかあるまい。”空”にせね”、新しき秩序など入りはせぬ」


そして、はっきりと告げた。


「武家の棟梁は、もはや古びた看板にすぎぬ。わしは――新たな”天”を打ち立てる」


長秀は息をのんだ。


その響きは、将軍家を『超える』という域を越え、まるで天そのものを掴み取ろうとする決意に聞こえ


た。冷たい刃が心臓に触れたような感覚が走る。


光を背に立つ信長の背を、健一(秀吉)は静かに見ていた。


あまりにも巨大で、あまりにも危うい。


(これは・・もう”武将”ではない。時代そのものを創ろうとしておられる)


(だが――時代そのものは、それを認めるのか?)


そのとき、あの声がふたたび耳の奥で囁く。


【これが『修正力』。定められた流れに抗うなら、代償を払い、やり直すのだ。お前は”異物”なのだ】


――この理は、信長様にもあてはまるのか。


もしこの世が舞台で、演目があらかじめ決まっているのだとしたら・・


”空気”という名の感情集合体が、その監視役だとしたら・・


(もし、信長様が家臣たちの”合意の空気”を得ぬまま推し進めようとしたら――)


秀吉は、無意識に拳を握りしめていた。

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