第91章 六天魔王、目覚めのはじまり
1569年 正月 岐阜城
岐阜の空は、抜けるように澄み渡っていた。
冷えた大気が石畳を締め、朝の光が金華山の雪化粧を淡く照らす。
岐阜城の広間では家臣たちがずらりと並び、年始の祝賀が厳かに進められていた。
信長は久方ぶりに、この城で新年を迎えていた。
上洛の軍を進め足利義昭を奉じて以来、都と岐阜を往復する日々が続いていたが、近ごろは将軍との折り
合いが目に見えて悪化し、しばし岐阜に腰を据えることにしたのである。
広間の中央に座す信長は、凛とした面持ちで年頭の言上を受けていた。
「今年もまた、天下の行方を定める年となりましょうな」
長谷川宗仁が口にすると、信長はわずかに笑みを歪める。
「上様も将軍となって久しいが、政の心得は未だ定まらぬようだ。」
「将軍の威光があっても、世は動かぬということか…」
言葉が落ちた途端、場は静まり返った。
その声音の奥に、苛立ちと孤独の影が潜んでいるのを誰もが感じ取っていた。
その孤独は天下を掌中に収めようとする者にまとわりつく宿命の闇のように、広間を重く満たしていた。
その背後で、秀吉は密かに目を細める。
(このまま義昭様との関係が冷え切れば…信長様は、いずれ「将軍を超える者」として歩み始める)
華やかな正月の儀式でありながら、空気の底には一抹の不穏さが沈んでいた。
それは、雪解けを待つ大地の下で、すでに火種が燻っているかのようだった。
やがて御屠蘇が献じられ、信長は杯を軽く傾ける。
「さあ、始めようか。この国の、次の一年を」
評定の後、秀吉は一人、天守の片隅から遠くの山並みを望んでいた。
木曽の峰には白雪が残り、乾いた風が肌を刺すように吹き抜けていく。
「政も戦も、膠着しておるのう…」
誰にともなく呟く。
信長の苛立ちは隠しきれない。
将軍との不協和音は、もはや越えられぬ川となりつつある。
朝廷は沈黙し、寺社は牙を研ぎ、本願寺は雑賀と結び、海では毛利が息を吹き返していた。
「天下布武」――あの書き付けの意味を、信長様ご自身が再び問い直しているようにも見える。
秀吉には見えていた。
あの広間で沈黙していた家臣たちの中に、信長の「将軍を超える構想」を肌で察し、警戒の色を深めてい
る者がいることを。
彼らはその言葉の裏に、旧き秩序の破壊という決意を読み取っていた。
(誰も口には出さん・・・出せぬのだ。だが、いずれ――)
秀吉は己の立場を改めて確認する。信長の「眼」として地方の改革を進め、火縄銃を揃え、物流と貨幣を
整え、農政を改め、海軍を育ててきた。
すでに岐阜の背後には、信長の理想を支える基礎が築かれつつある。
それは「すべての人が報われる道」へと至る、確かな足跡でもあった。
「信長様が“武”を、わしが“民”を整える…両の柱が揃えば、この国の形も変わる」
その時、かつて信長から掛けられた言葉が脳裏に浮かぶ。
「わしが天下の鵺を狩る。お前は民の道を整えよ」
今になって、その真意がわかりかけてきた。
信長の眼は遠く、常の秩序や官位にはもはや興味がない。
ただ「まだ形のない未来」を見据えている。
その未来は、ときに彼自身の倫理観すら置き去りにしかねない――その漠然とした不安が、秀吉の胸をか
すめた。
(それがどのような形になろうとも、今はまだ、その背を支える者が要る)
冷たい風の中、秀吉は静かに拳を握った。




