第90章 冬季演習
1568年12月末 恵那・落合川上流
冬季演習師走も終わりに近づく頃、犬山城下には鋭い北風が吹き込み町も野も白く霜に包まれ始めてた。
吐く息も白く冬の到来を肌で感じる。
秀吉のもとに、密かに北陸の様子を探っていた忍びが報告に現る。
「越前より、朝倉が再び若狭方面に兵を出し始めました。加賀では一向宗徒が蠢き、越中は椎名、神保が
守るも本願寺の気配濃厚。能登では畠山家の分裂が表面化しております」
報告を聞いた秀吉は、小さく息を吐いた。
「越後の上杉と武田がにらみ合ううちに、北陸が動くかもしれぬな・・」
そう呟いた直後、彼は小姓を呼んだ。
「――雪の戦の備えじゃ。冬の山での訓練を急ぎ手配せよ。年内に、恵那城の山へ」
健一(秀吉)は歴史が変わってきていることを考えて北陸に自分が柴田勝家の代わりに行くことも見据え
ていた。与力としてでなく主力として。
二十日から二十五日にかけて、恵那城周辺の山岳地帯で冬季軍事訓練が行われた。
参加したのは黒鋤隊の若手を中心とする実動部隊。
雪こそ本降りではなかったが朝夕の冷気は骨に染み、兵たちの吐く息は白い煙となって空に消えていく。
雪は細かく、しかし絶え間なく降っていた。
山裾の森を抜け、恵那山の北斜面へ向かう山道は、足元が踏み固められた雪と、所々に露出した凍った土
が混ざって滑りやすい。
谷を渡る風は鋭く、頬を切るような冷たさだ。
吐く息が白く濃くなり、甲冑の隙間から入り込む冷気が肌を刺す。
秀吉は小高い尾根に立ち、眼下で展開する部隊の動きをじっと見ていた。
岩村・恵那方面の国境防衛を想定した冬季演習。
竹楯を抱えた楯隊が雪をかき分け進み、背後では短弓隊が凍える指先をこすりながら矢を番える。
犬山隊五百の精鋭も、雪原に線を引くように進軍していたが、その動きは夏季演習に比べて鈍い。
――やはり、寒さは戦の敵だ。しかしこれが成れば奇襲出来る。
この冬の演習は、鉄砲・弓・槍の実戦運用に加え、寒冷地での兵站と装備の問題点を洗い出すためのも
のだった。
だが、数刻もすれば兵たちの体力は目に見えて落ち、動きが硬くなる。
秀吉の脳裏に、ある映像がよみがえった。
雪原を進む兵士たち。灰色や白の厚手の外套、背に背負った長い小銃。膝までの雪をかき分けながら、
吐く息は白い蒸気となり、顔は覆面で隠されている――。
第二次世界大戦、東部戦線の記録映画で見たソ連兵たちの姿だ。
寒冷地戦用の「綿入れ外套(ポンチョ型マント)」と、防水布で覆った装備。
あれがあれば、この恵那の冬でも動けるはずだ。
「綿入・・しかも肩から脚までを覆う形か。甲冑の上から着られるようにすれば、動きは鈍らぬ。さら
に・・」
秀吉は指で雪をつまみ、掌で転がした。すぐに水となって染み出す。
「こいつをはじく防水加工が要るな。油か蝋か……麻布に塗り込めば、雪解け水も通さぬだろう」
傍らの黒田官兵衛が首を傾げた。
「殿、それは甲冑の上から羽織る……“衣”のようなものにございますか?」
「そうだ。雨具のようでいて、暖も取れる。綿を詰めた布を二枚重ね、縫い合わせる。外布と縫い目に
蝋を塗って水を通さぬようにする」
「・・蝋でございますか。蜜蝋ならば、すでに城下の職人が扱っておりますが」
「それで十分だ。ただし外布は厚手の麻布だ。油を染み込ませた帆布があればなお良い。雨も雪も通さ
ず、風も防ぐ」
演習場の下では、兵の一人が雪の中で足を滑らせ、楯ごと倒れ込んでいた。立ち上がろうとするが、氷
のように固まった衣服が動きを妨げている。秀吉は唇を引き結び、官兵衛に向かって言った。
「このままでは戦にならぬ。寒さと濡れは、刃より恐ろしい」
視線を巡らせると、馬防柵のそばで炊事番が焚き火を囲み、湯気を立てていた。
だが湯を飲む兵の手は紫色に変わっている。秀吉はふと、現代の「塹壕足」という言葉を思い出す。
冷水に長時間浸かった足が壊死する病――戦場の隠れた死因だ。
「足袋も改めねばならんな」
「足袋でございますか?」
「そうだ。麻布の内側に油紙を挟み、濡れぬようにする。替えを常に携え、濡れたらすぐ換える。」
「これを怠れば、戦う前に兵を失う」
雪はさらに強くなってきた。
秀吉はふと、戦場における「寒さの顔」を見た気がした。
敵は朝倉でも本願寺でもない。この雪と冷えだ。
「官兵衛、帰陣したらすぐに仕立てさせろ。」
「綿入れの外套――いや、”マント”と呼ぼうか。防水加工も必ずだ」
「承知いたしました」
秀吉は頭の中で、藁蓑の構造と綿入れマントの形を重ね合わせ、防水と保温の両立案を練っていた。
この時の防寒装備が後の竹中半兵衛の肺炎による死亡を防ぐという、歴史を大きく変える意味を持つこと
を、この時の藤吉郎はまだ知らない。
谷間の焚き火がパチパチと音を立て、雪煙が風に舞う。
この日、恵那の寒さの中で秀吉が痛感したのは、寒冷地戦の勝敗は武器や兵力だけでなく――衣服の工
夫ひとつで決まるということだった。
※ 半兵衛の死因について:当時の史料に記されているのは「喀血(血を吐くこと)」という症状があったと伝えられています。結核説は、この唯一の具体的な史料の記述と一致するため、他の説よりも説得力があると見なされます。
しかし多くの日本の歴史記録は、単なる事実の羅列ではなく、特定の意図や物語性を帯びて編纂されているという側面があります。西洋の様な記録として残されたものでも多少その傾向がありますが、日本の場合は「空気」を纏うと全ての記録が同じ方向に向いてしまう可能性が高いのです。
意図的な取捨選択:多くの歴史書や軍記物は、特定の人物や家の正当性を高めるため、あるいは教訓を伝えるために書かれました。そのため、都合の悪い事実が意図的に省略されたり、美化されたりすることがあります。
物語性・教訓性: 特に戦国時代から江戸時代にかけての軍記物は、武将の勇壮さや忠誠心を強調することで、読み手の心に響く「物語」として作られています。これらの記録は、史実を伝えるだけでなく、読者を感動させ、教訓を与えるという目的も持っていました。
後世の加筆・修正: 時代が下るにつれて、原本に新たなエピソードが付け加えられたり、解釈が変更されたりすることも珍しくありませんでした。これにより、史実と後世の創作が混ざり合い、真偽の判断が難しくなることがあります。
よって竹中半兵衛の死は、豊臣秀吉の天下統一事業における大きな損失として、後世に語り継ぐべき重要な出来事でした。その最期を「病床で血を吐きながらも主君の勝利を願う忠臣の姿」として描くことで、彼の人物像を際立たせ、物語性を高める意図があったのではないか。
「喀血」の象徴性: 吐血という激しい症状は、病の深刻さや悲劇性を象徴するものであり、忠義に生きた軍師の最期をドラマチックに演出する上で効果的な表現と考えました。そのため、実際に吐血があったかどうかは別として、物語としてそのように記された可能性は否定できません。「半兵衛だけが吐血した」という記録は、物語的な側面から作られた可能性が高いと考え半兵衛の死因はただの「肺炎」説を取らせていただきました。
歴史学者が結核説に固執しているように見える背景には、「記録が役に立たないとしたら全ての土台が崩壊してしまう」という危機感が存在します。これは、日本特有の物語歴史学という学問の性質と深く関わっていると思います。逆説ですが、だから日本史は楽しいとも言えます。「謎解き」学問なんですから。




